八月七日 (5)
三善がマリアと共に外へ飛び出した頃には、科学研の外は既に“七つの大罪”の巣窟と化していた。初め二体だと思っていた“大罪”は、彼らが外に出る間にその倍にまで増殖している。
「教皇。二体ずつ?」
マリアが尋ねたので、三善は首を縦に動かした。
「無理はするなよ」
三善の一言に、マリアも彼と同じようにゆっくりと頷く。
そして彼らは同時に動き出した。
“大罪”――巨大なトカゲのような図体をしている――が、口から勢いよく炎を噴き出した。塩の翼を展開した三善は瞬時に宙へ飛び上がる。ちょうど火の粉がかからないくらいの高さまで上昇すると、その黄金色の瞳に狙いを定めた。
「『深層(significance)発動』!」
三善の手に白い炎が走る。それはみるみるうちに銀の光を纏う剣へ変形し、彼の右手にしっかりと握られた。表面積が比較的少ない、細身の剣である。“大罪”の巨体と比べると頼りなく見えなくもないが、三善はそれについて不安そうな素振りは一切見せなかった。
鋭い矛先を眼下に、三善の身体は急降下する!
剣の刃は“大罪”の角膜を突き破り、どろりとした灰色の液体が流れ落ちた。悪臭が鼻をつく。“大罪”の悲鳴に三善は顔をしかめつつ、剣をさらに深く突き立てた。
その時、暴れる“大罪”が三善の小さな体を振り飛ばした。派手に飛ばされた彼の身体に遠心力が加わり、より一層勢いが増してゆく。彼は今にも科学研の建物に突っ込みそうになっていた。
そこに駆けつけたのはジョンだ。
ようやく地上に出てきたところで、吹っ飛んでいる三善を発見した。あの小さい身体が科学研の強固なる壁にぶち当たったらひとたまりもない。普通のプロフェットでも骨折は免れないだろう。それだけは何としても避けたいところだ。
悩むよりも早く、ジョンは釈義展開の祝詞を上げる。
「『釈義てんか……』」
「『逆解析』!」
しかし、ジョンの祝詞は三善の声にかき消された。三善の身体に紅のプラズマが走り、寸でのところでその身体を硬化させる。
“傲慢”の紅き“鎧”。
三善がかつて奪った能力である。
最強の鎧により三善の身体は守られ、科学研の壁に衝突したものの、軽くバウンドしただけで済んだ。身体の落下を塩の翼で持ち直し、再び空へ戻る。
剣を失ってしまったので、それとは別の武器が必要となった。困った三善はあたりをきょろきょろと見回し、……仕方ないので、科学研究棟の中央で時を刻む時計盤から長針を拝借することにした。
馬鹿か。
ジョンの心の声は腹の中に無事ねじこまれた。公共施設を自ら壊すんじゃない、と言いたいところだが、どのみち“大罪”と戦う以上ある程度の損害は免れないか。
「チビわんこ!」
ジョンの叫び声が、ようやく三善に届いた。地上を見下ろすと、ジョンがその場で釈義を展開したところだった。
こちらに向かって飛んでくる光の矢。
え、殺される? と三善が思うも、よくよく目を凝らすとどうやら違うらしい。なんとかキャッチすると、それは白く硬化された槍だった。身長をゆうに超える細身のそれは、不思議と三善の手によくなじんだ。
使えということだと三善は納得し、空から声を張り上げた。
「ありがとうございます!」
そして再び戦闘に戻った三善を、ジョンは複雑な表情で見つめていた。そして、ぽつりと呟く。
「――あいつ、地に堕とされるぞ」
このまま放っておけば、間違いなく。
無知は凶器。例外など認められない。むしろ今まで『あいつら』に気づかれなかったのが奇跡だ。
さて、どう叱ってやろうかとジョンは呑気にも思案していたのだった。
***
五分後、子供たちは“大罪”を殲滅させて戻ってきた。これといった怪我もなく、ぴんぴんとしている。
ホセがマリアの釈義を終了させているすぐ横で、三善も己の釈義を終了させた。対価が不足していた割には、今のところなんの影響も見られない。今日中にきちんと補っておけばいいだろう。
収束してゆく強烈な聖気にようやく安心し、三善はほっと肩をなで下ろした。自分で使っておいてなんだが、『聖ペテロ』の聖気は濃すぎて自分でも不安になってしまう。
そんな三善に、ジョンが近づいてきた。
「あ、ブラザー・ジョン」
三善はもう一度先程の礼を言おうと、自ら彼に近づいて行った。
「先程はありが……」
刹那、三善の左頬にジョンの平手打ちが飛んだ。
ぱしん、と乾いた音。三善は今何が起こったのかよく分からずに、ただただぽかんとした表情でジョンを見つめていた。
その音に、すぐ近くにいたホセも目を剥いている。
ジョンの能面のような表情は、今日見せてきたどの表情とも異なる。純粋な怒りだ。しかし、三善には彼が怒っている理由がさっぱり分からないでいる。
時計の長針を勝手に外そうとしたことだろうか? それとも、敷地内を大破させたこと?
考える三善に対し、ようやくジョンが口を開く。
「さっきのはなんだ」
「さっきの……?」
どれのことだろう、と呆けていると、ジョンはさらに厳しい口調で続けた。
「大聖教にはない能力を使っただろ。何故使った? 知らないとは言わせないぞ」
ようやく気がついた。先程、己の身を守るために使用した“傲慢”の“鎧”のことだ。しかし、それについてジョンが怒る理由はないのではないかと三善は思った。なぜなら、彼には実害が及ばないからだ。もしもそれが「いけない」ことだとして、怒られるのは行使した自分だけのはず。彼に怒られる謂れはない。
明らかにジョンが怒る理由を理解していない三善の態度に、ジョンはさらに激昂する。
「ホセ! お前まさか、こいつに何も教えていないのか」
今度はホセに怒りが飛び火した。一瞬肩を震わせ、ホセも口を閉ざしている。……図星、とジョンは見た。
どいつもこいつも……。
彼らの様子に、ジョンは怒りを通り越し、呆れの境地に至った。長く息を吐き出し、眉間に指を添える。
「揃いも揃って、お前ら馬鹿か。こいつが特例な訳ないだろ! 検邪聖省に睨まれることになったら、困るのはチビわんこの方なんだぞ」
まただ、と三善は思った。ジョンの口から、謎の単語『検邪聖省』が飛び出した。先程ジェイやホセを交えて話していた時も微かに耳にした単語。どうやらそれが彼を怒らせた理由らしい。
来い、とジョンは三善の身体を担ぎ、科学研究棟に強制連行し始めた。ホセもマリアを引き連れ、彼らに続いてゆく。
先程の部屋に戻ると、ジョンは三善をぽいっと床に叩き落とした。乱暴なことこの上ない。さすがの三善もその扱いには怒った。だが、彼が怒りの言葉はあっさりと無視される。代わりに問われたのは、
「おい、ブラザー・ミヨシ。司教試験の筆記はどの部分を勉強した?」
ジョンが尋ねる。三善はそんなこと知ったことかと思いつつ、
「ひとしきりやった」
「んな訳ねぇだろ。一か所手つかずの範囲があるだろうが。『枢機卿』のところだ」
枢機卿? と三善の目が点になったので、またジョンは深くため息をつく羽目となった。
「やっぱお前、司教試験不合格にしてもらった方がいいよ。今なら間に合う」
そして、彼が今日常に持ち歩いていた薄手のファイルから一枚の紙を取り出した。「ああ……やっぱり。お前、筆記試験の内訳、結構散々じゃねぇか。枢機卿に関するところは全部ペケって、マジであり得ねぇ。ここは超絶サービス問題だろ、なんで複雑な聖典理論はできるのにこれが取れねぇの」
なんとなく貶されていることは分かり、三善は露骨にムッとした表情を浮かべた。
「おれが不勉強なのは認める。だけど、それは言いすぎじゃねぇのっ?」
「一人称はわたし、もしくはわたくし」
最早口癖に認定されてもおかしくない何度目かの台詞を吐きながら「教会側の脅威のサラブレッドもこの程度か」とジョンは肩を竦める。ようやく見込みのあるやつが出てきたと思ったら、頭は残念だったことに酷く落胆しているようだ。
「筆記は一体誰に教わったんだよ、ホセか?」
「……『あのひと』がいなくなってからは、全部独学だ」
ジョンの動きがぴたりと止まる。聞き返そうと、顔をようやく顔を上げた。三善は苛々を全面に押し出しつつ、怒りにまかせて声を張り上げる。
「だからっ! 誰にも教わってないって言ってるだろ! 『あのひと』のせいで皆それどころじゃなかったんだよっ! 自分でどうにかするしかないだろうが!」
「筆記試験最終問題の、ビッグバン理論は?」
「それはおれの研究成果。ったく、禅問答なんか出すんじゃねぇよ、意地が悪い」
ふぅん、と呟いたジョンの勢いが突如和らいだ。勿論それに気がつかない三善ではない。おや、とこちらの勢いも瞬時に削がれてしまった。
伊達に、あの聖ペテロに師事を受けた訳ではないのだなぁ……。
そんな言葉が今にもその口からこぼれ落ちそうな表情だった。
「……まず、お前はもう一度教会組織について復習するべきだな」
ジョンが三善に近づき、スケッチブックに三角形を書いた。
「俺たち聖職者の位階は助祭・司祭・司教に大別される。ほかにも侍祭等もいるが、ここでは省略する。位階を叙する人数はその位階の高さに比例し、下が助祭、上が司教、真ん中が司祭となる」
そして、ジョンは三角形の頂点部分に矢印を引いた。「ここにいる人物は?」
「……大司教」
「そう、大司教だ。そして、その大司教を補佐するのが枢機卿団。お前が喧嘩を売ったジェームズは枢機卿団のトップ故に、大司教が不在の今代理で任務を遂行している」
大聖教のトップは教皇だが、その裏では枢機卿がのさばっている。その構造自体は三善も理解できるので、首を縦に振った。
「枢機卿団の仕事は大まかに分けて二つ。ひとつは今言った『大司教の補佐』だ。もうひとつは、大司教選挙権を有し、それに基づいて大司教没後の運営をすること」
「うん? どちらもブラザー・ジェームズの仕事でしょう?」
「しかし、あいつはひとりで動いている訳じゃねぇんだぞ」
そもそも、この教会組織も役職を細分化して運営している。ジョンが科学研に属しているように、またはホセが人事担当者であるように。
「枢機卿団に属する聖職者も、ごく僅かだがちゃんといるんだ。だが、こいつらは本属である枢機卿団の名は隠して、普段は別の役職に就いている」
三善が再び首を傾げたので、ジョンはさらに分かりやすくなるよう言葉を付け加える。
「何故かというと、他の枢機卿は、主に検邪聖省に属しているからだ。分かるだろ」
「けんじゃ……?」
「それも知らねぇのか。ホセ、職務怠慢」
突然話を振られたホセは、苦笑しながら「すみません」と頭を下げた。そのあたりに関しては、先にケファが教えていると思っていたのだ。もちろん意図的に黙っていたというのもあるが、基本的にホセは彼のやり方に手出し口出しは一切行わなかった訳で。
まさか今、ここまで大変なことになっているとは思わなかったのだ。
「お前、異端審問については知ってるだろ。さすがに」
異端審問? と三善の目が点になった。これも駄目か。
「分かった、ええと、チビわんこ。人のものを盗んだら普通どうなる?」
「法に裁かれる」
「大体正解。教会組織もそれと同じだ。悪いことをしたら裁かれる。そういう組織が教会内にもちゃんとある。それが検邪聖省。まぁ、自警集団って感じだ」
呆けている三善の頭を、ジョンは小突いた。「他人事みたいな顔しやがって。いいか、お前がさっき使って見せた“七つの大罪”の能力、それがこの教会での規律違反にあたるんだ。異端審問官――いわば警察官ってところか。そいつらに睨まれたら最後、お前は殺される」
「え、でも悪いことは何ひとつ」
「してるんだよ」
それだけははっきりと言える。
異端審問の歴史は長い。かつての魔女裁判がその例だ。その中で多少程度は変わったにしろ、共通点はある。一度検挙されれば、それを覆すことは難しい。むしろ覆した人物がいるならば是非お目にかかりたい。それくらいに厄介な仕組みなのだ。
「お前の能力は、この教会の中では悪と見做される。だから怒った。お前はこんなところで死ぬ訳にはいかない。どうして自分の命を大事に扱わないんだ。そんな軽率さがここでは命取りだって言ってる」
三善はようやく納得した。しかし、腑に落ちないところもある。
ジェームズは三善の能力を知っているはずだ。そもそも地下に幽閉されていた期間、あの時には既にその能力は露呈していたはずなのだ。少なくとも三善はそう思っていた。
そのような旨をジョンに伝えると、「当然だ」と肯定された。
「そりゃあ、敵の弱みは握っておくに越したことはない。おそらく、お前が本当に上を目指したとき、あいつはその能力を必ず世間に公表してくる。だから今は徹底的に隠せ。隠し通せ。物理的証拠がなければさすがの検邪聖省も動けまい。過去の失態を何度も繰り返すほど、あいつらはアホじゃないからな」
極めつけに、ジョンは言った。
「いいか。お前はこの教会の中では特別だ。今までどうして誰の目にも止まらなかったのかが不思議なくらいだ。チビわんこ、お前は聡い。その頭を、誰かのために使え。そのために、今は生きろ」
その瞳の真摯さに気圧された。
三善は首を縦に動かし、今目の前で自分のために怒ってくれた人について思案する。