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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
5.暴食の承和の楔 [version:α]
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第二章 3

 翌日。

 例の科学研三人衆が医務室を陣取り、帝都をひどく困惑させていた。

 箱館支部の科学研には充分なスペースがなく、釈義調査に関する作業を行うのが困難だった。釈義の検査は本来危険を伴うもの。あらゆる可能性を考慮し、彼らはここが一番安全だという結論に至ったのである。

 ――それはともかく、どうしよう。

 妙にがたいのいい男二人――ジョンとアンデレである――に左右をがっちり固められ、身動きがとれなくなった橘である。その姿はあたかも捕らえられた宇宙人のようだ。自虐に走る程度には思考が現実逃避し始めている橘は、ぷるぷると震えながら右隣りへ目を向ける。

「もう逃げるなよ、黒にゃんこ」

 ジョンの超低音ヴォイスが、恐怖感をさらに倍増させた。

 数分前、不穏な気配を察知し彼らから逃げようとしたのがいけなかっただろうか。いつもならなんだかんだで助け舟を出してくれる三善が不在だったせいで、より面倒なことになりつつあった。

 この際誰でもいい。この状況をどうにかしてくれるのであれば。

 橘は帝都に助けを乞う目線を送ったが、「ごめんね?」と笑顔で返されてしまった。そう、この場所には味方などいないのだ。

「別に取って食ったりしねぇよ」

「そうそう。僕たちの知的好奇心を満たしてくれれば、それでいいの」

 アンデレがいつになく張りきった口調で言った。その『知的好奇心』という言い草がまた不信感を募らせる。

 思わず涙目になってしまった橘を、少し離れたところからユズが首をかしげながら見つめていた。

 そのとき、ようやくジェイが医務室に姿を現した。

「お待たせー。おっ、なんだか宇宙人みたいだね、タチバナくん」

 あっけらかんとジェイが言うものだから、橘は思わず「もういい加減にしてくださいよ……」と情けない声を上げてしまった。

「もう、このにゃんこはすっかりビビっちゃってさぁ。たかが採血なのに。やっぱり猊下を呼んだ方がいいんじゃないの」

 アンデレがまったりとした声色のまま、さりげなく三善をこの場に連れてくるように促している。だが、そんな希望の光をジェイはいとも簡単に断ち切った。

「猊下はイヴと対話(・・)中だからパス。あの二人は親子だからね、たまには仲良くさせてやりなよ」

 会話でなく対話(・・)という表現が少し妙だと思ったが、そんなことよりも。

 ――何でこんなタイミングで……。

 がっくりと肩を落としたまま、橘は死んだ魚のような目を床に向けている。

「さて、タチバナくん。昨日言った通りだけど、君の釈義をちゃんと調べさせてね」

 ジェイが彼の前にしゃがみこみ、うなだれる橘の顔を覗き込んだ。「いいかい、ボクのところで検査しないと、君はプロフェットになれないんだよ」

 嘘だ、本当は知的好奇心を満たしたいがための行動に違いない。

 橘の心の声にいち早く反応したのは、このやりとりを横でずっと見守っていた帝都だった。

「ブラザー・橘。彼女の言うことは本当だ。修行に入る前に、プロフェットは必ず検査を受ける必要がある。教皇庁による認可が下りなければ、君は公にその能力を行使することはできないんだよ」

「……本当ですか?」

 じとりとした目線を向けると、帝都は優しく頷いた。彼がそういう類の嘘をつくことはまずないということを橘はよく知っている。彼がそうだと言うのであれば、そうなのだろう。

 分かりました、と橘が唇を動かすと、その声を合図に実に楽しそうにアンデレがゴムチューブを取り出してきた。

「まずは採血だ。君、注射苦手だろう。そこのベッドに横になるといい。楽な体勢でやろう」

 途中で失神されても困るからね、とアンデレが珍しくまともなことを言った。

 ジェイも短く頷き、準備を始める彼の横で最終確認をすべくカルテを開く。そしてふむ、と短く唸り声を上げた。

「ええと、タチバナ君。ちょっといいかな」

 はい、と橘が答える。「君のご両親についてなんだけど……、お母様のほうにお姉さんがいる、とか。そういう話を聞いたことはある?」

 橘はきょとんとして、思わず首を傾げる。

 かつて土岐野雨がホセに説明した通りとなるが、土岐野雨・橘の二人は物心つく前から叔母夫婦のもとで暮らしており、本当の両親については詳しく知らない。幼少期の橘が叔母へ両親について尋ねたことがあったが、いつも適当にはぐらかされていたことを思い出す。

「いや、特には……ごめんなさい」

 そうか、とジェイは頷いた。

「君の叔母様と同じ『真昼(まひる)さん』っていう名前の人が知り合いにいるから、もしかしてと思ったんだけど……。うん、ありがとう」

 橘が簡易ベッドに身体を横たえると、アンデレが橘の左腕をゴムチューブで結ぶ。注射針が皮膚を貫くまで、あと数分。

 とりあえず橘は、一刻も早くこの時が過ぎ去ってしまえばいいのに、と考えていた。


***


 その頃、三善は執務室のソファに腰掛け、イヴのメンテナンスをしていた。

 箱館支部配属直後はもう少し頻繁に行っていたのだが、ここ最近はあまり構ってやれていなかったのである。いくら人間に近い出で立ちをしているとはいえ、その正体はただの量子コンピュータだ。機械である以上人の手はどうしても必要になるし、『A-P』の仕組みを熟知している人間でなければ怖くて触れない。そんな理由もあり、彼女のことは三善がひとりで面倒を見ていた。

 彼女の左の薬指にケーブルを接続すると、三善は管理用パスワードを入力する。すると、三善の隣に座るイヴはのろのろと瞼を閉じ、三善の方へもたれかかった。

 おっと、と三善は短く呟くと、無線接続のヘッドセットを頭に乗せる。

 膝の上に乗せている小型の端末へ目を向け、三善はこのように言った。

「悪いな、狭いだろ」

 すると、モニタ上に小さなプロンプト画面が勝手に出力される。そして『いいえ。こちらのほうが私にとっては広く感じます』とだけ入力された。

 イヴは同じ『A-P』であるマリアとは異なる構造をしている。マリアの場合は「ホセの釈義の代わり」として造られているが、イヴの場合は「三善のアシスタント」というシンプルな理由で造られた。そのため、彼女は『人工預言者』と銘打っているもののプロフェットらしい“釈義”の能力はなにひとつ持ち合わせていない。

 それではどの場所に“釈義”を用いているのかと言うと――、

「今この部屋いるのはおれだけだから、イヴらしく話さなくてもいいよ。母さん」

 三善はそう言い、端末を一旦テーブルの上に置いた。「先に身体の調子を見るから、しばらく量子の海で遊んでいるといい」

 かつて三善が科学研へ配属になった日。

 ジェイから研修内容を聞かされたとき、三善はひとつ提案したことがあった。

 ――『白髪の聖女』の身代わりでなく、本当に『白髪の聖女』の器にしてはどうか。そのために『釈義』を使いたい。

 三善の胸の内で、閉架十三階でひとり取り残されたままの『白髪の聖女』、姫良真夜の存在がずっと引っかかっていた。当時の大司教・ヨハネスにより死ぬに死ねなくなったその身体。そしてそれはいつ来るかも分からない三善のためにそうした(・・・・)のだと、幼い三善でもすぐに想像が付くことだった。

 だからこそ、三善はジェイへ交渉したのだ。彼女に対する仕打ちは決して許されたものではないが、だからといってそのままにしておくこともできない。このときの三善ができることはほとんどないということも自覚したうえで、敢えてこのように提案してみたのである。

 それから色々なことがあって、ようやく彼女を地下から救い出した日のことを三善はとてもよく覚えている。

 あの日の彼女は、今その身を沈める端末――量子コンピュータにその意識と行動基盤を乗せ換えたとき、このように言い放った。

「『あなたはちゃんと迎えに来てくれたのね』」

 イヴの優しい声が三善のヘッドセットに流れる。

 む、と三善はイヴの身体を触る手を止め、その言葉の意味をじっくりと思案する。ややあって、三善は素直に尋ねた。

「どうした。昔の言葉を呟くなんてあなたらしくない」

 くすくすと笑うイヴの声がして、それから彼女はゆっくりと噛みしめるように言う。

「だって今日は、あなたが迎えに来てくれた日だもの。忘れるはずがないわ」

 そうか、と三善は短く呟き、それからイヴの身体をソファへ横たえた。端末へ向き直ると、テーブルの上に乗せていたオレンジ色のUSBメモリを挿入する。

「……母さん。おれ、あのひとに会ったよ」

 今さら言うことではないけれど、と三善は囁くような声色で言う。「あなたの言う通りにしたんだ。だけど、よく分からなかった。なあ、あなたはどうしてあのひとの言う通りにしたんだ」

 あれはどう考えてもあなたを利用しただけだろう、と三善は淡々と言葉を紡ぐ。そんな言葉を、イヴは無言のまま聞いていた。

 どれくらい沈黙が続いただろう。イブが突然このように言った。

「ひとを好きになるのに理由が必要かしら」

「……、ああ、ええと。なんかごめん、野暮な質問をした」

 たった一言だけ、しかし全力でのろけられたことに対し三善はつい謝罪の言葉を述べる。どうにも彼女はずれているというか、妙に達観しているというか、色々なことを全て割り切っているというか。大体にして彼らは婚姻も性交も許されない立場にあったろうに。その結果が今この場にいるシリキウスなのだから、この世はなかなかに難しい。

 ねえ、とイヴが話しかける。

「今なら『あの領域』、見せてあげてもいいわ。それを見れば、想像力の足りないあなたでも少しは答えが分かるでしょう」

 イヴの記憶領域には、一か所だけ、制作者である科学研『A-P』チームでも解析できない領域を設けていた。人間誰しも隠し事のひとつやふたつあるものだ。「彼女にもプライバシーがあるだろう」という考えから、イヴ自身が誰にも知られたくないことを格納しておく場所として三善が用意したのである。

 彼女はその領域を見てもいいと言っているのだ。

 三善は少し考え、首を横に振る。

「いや、いいよ。それはあなたの大事なものだ。本当に必要になったときに見せて」

 そう、とイヴが返したのを見計らい、三善は別窓でプロンプトを立ち上げる。

「さて、パッチを当てるから少しだけ大人しくしていてくれ。適用後はリブートもするから、おれがいいって言うまでいつもの場所にいてもらえると助かる」

「なにをするの?」

 その問いに、三善は穏やかな口調で答えた。

「なに、ちょっとした仕込みを入れるだけだ。あなたは何も気にしなくていい」

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