第一章 8
三人が支部に戻ってくると、開け放たれた入口から勢いよくユズが飛び出してきた。驚いた橘が慌てて右腕を構えると、彼はばさりと翼を広げ一旦旋回。そして橘の腕に留まった。だが、大人しかったのは留まった直後だけである。ユズは橘に置いて行かれたのが不愉快だったようで、その鋭い嘴でわざと橘の頬を突いていた。
「痛いって! もう……置いて行ったのは悪かったと思うけどさぁ」
橘が口をとがらせていると、ふと三善はなにかに気が付いたらしい。そっとユズの顔を覗きこむ。
「――改良痕?」
どうしてユズにそんなものがあるのだろう。三善が橘に尋ねるも、彼は本体に対しての改良は行っていないと首を横に振るだけである。となると、答えは限られてくる。
そう考えたところで、入口からロンが顔を覗かせた。
「猊下、おかえり。ブラザー・ジョンがお呼びだ。それから来客が二名」
それを聞き、心当たりのあった三善は「ああ」と頷く。
「執務室にいるのか?」
「うん。今はお茶してもらってる」
「わかった。すぐに行く」
それから、と三善は振り返り、橘に声をかけた。「一緒においで。あーそれから、リーナはいるか。リーナも連れてきて」
橘は腑に落ちない顔をするも、すぐにリーナを探しに行ってくれた。我が弟子ながら素直で大変助かる。
そして九条神父の元へ戻るというヨハンの右手を取ると、祈りの言葉と共に指先に接吻をひとつ落としてやった。
「今日はありがとうございました」
そう言った三善の表情は、すっかり大司教としてのそれに変わっている。色々と言いたいことはあったが、その瞬間に全てが霧散してしまった。ヨハンは思わず苦笑し、返礼がてら聖典の一節を唱え去っていった。
***
さて、三善が執務室に戻ると、彼がよく知る人物がソファに腰掛けのんびりとくつろいでいた。
「自分の家のようにくつろぎやがって」
お茶請けは足りた? と三善が尋ねる。
「十分いただいているよ。久しぶり、ミヨシくん」
ひとりはジェイだ。「あの秘書の彼、なかなかいい趣味しているね。好みのお菓子を調べてくれていたのかな」
「たぶんそうだろうな。あとで礼を言っておくよ」
三善がそう返すと、もう一人の不精髭の男が、
「悪わんこ、お茶をもう一杯いただけると嬉しい」
とティーカップを掲げて見せた。「お兄さんは弟のお茶が飲みたいです」
アンデレ・イーストマン。科学研が抱える、最高に仕事はできるが最高に変態な問題児である。三善はたいてい彼のことをこのように評価しているが、困ったことにそれを誰も否定しない。天才と何とかは紙一重と言うが、彼の場合まさにその典型である。
――こうして、かつての科学研A-Pプロジェクトメンバーが揃うこととなった。
イヴはというと、その輪の中に混ざり楽しそうにしていた。なんだかんだ言って、自分を作ってくれた人たちは彼女にとって親のような存在なのだ。
三善は着ていたコートとジャケットを椅子にかけると、奥の給湯室から魔法瓶を持ってきた。
「そのくらい自分で淹れてくれる。給湯室まで歩いて数歩だろ」
「おお、冷たい。お兄さん泣きそう。ジェイ、ジェイ。我が弟が擦れていくんだけど、そのへんどうよ、ママとして」
突如として変な茶番が始まった。それに何故か乗っかるジェイがうんうんと頷く。
「心底どうでもいいね!」
その割にはバッサリ切り捨てるところが鬼である。
「それよりもボクとしては、箱館支部長就任時にヨハネス君が買ってあげたスリーピースをちゃんと着てくれていることを嬉しく思うよ。前々から思っていたけどね、ヨハネス君は女性陣が萌えるポイントというのをとてもよく分かっていらっしゃる。カマーベストの背中部分にはロマンが詰まっているよね」
煩悩に溺れる修道女を、いよいよ三善は止めることができなかった。何も言えずただただ微妙な表情を浮かべている三善をよそに、ジェイはさらに付け加える。
「ミヨシくんは見てくれだけは満点だからね。君のすっきりとした背中から腰までのライン、あれが好きだと言う人は本部時代から結構いてさ」
その発言にジョンが大きく頷いた。
「なんとなくジェイが好きそうだと思って買ってやった。俺グッジョブ」
「だよねー。ヨハネス君はここ数年で一番いい仕事したよ。結構な数の人間を幸せにしたね」
「いい加減にしなさい。その茶番はいつまで続くんだ。ジョンまで乗らないでくださいよ、もう……。あとでみんなまとめて説教です。いいですね」
三善が憔悴しきった顔で言い、アンデレのカップを奪い取った。新しい茶を淹れてやった上でそれを突き返すと、
「イヴもなんとか言ってやって」
「私、ですか?」
珍しくにこにことしていたイヴが、三善の呼びかけにきょとんとしながら首を傾げた。
「みなさんが揃って、私、とても嬉しいです。もっと一緒にいたいです」
斜め上の返答。自分で彼女の『性格』を作っておいてなんだが、ものすごくいい子だ。三善は思わず目頭が熱くなる。
それはさておき。
三善は空いていたアンデレの隣に腰掛ける。
「アンディとジェイが到着したので、早ければ明日から釈義調査に取り掛かろうと思うのですが……」
そしてようやく本題に移ることができた。
釈義調査の件は大司教就任前から準備を進めていたが、本格的な調査に至るまでに時間が空いたのはこれが理由だった。
釈義調査に必要となる人員は二通りある。まずは教皇庁特務機関――要するに検邪聖省のことだ――による許可証を持つ釈義調査官が一名。それから、科学研から選出された釈義調査資格の有する者が複数名必要となる。今回の場合、ホセが前者、ジョンらが後者にあたる。思い切り三善の身内のような選任になってはいるが、別に三善が手を回したからということではない。どちらも要件を満たす聖職者が限られているため、たいていの場合は兼任させられているというそれだけなのだった。
ジョンは茶を一口含むと、後にこう返した。
「今回確認するのは黒にゃんこと……」
「羽丘リーナだ。彼女に関しては聖ウルスラの後任である最終確認ができればいい」
三善がきっぱりと言った。「まだ本人確認中だけれど、対応は早い方がいいだろ」
「へえ、前から思っていたけど、悪わんこの周りにはどうも位の高いプロフェットが集まるねぇ……不思議なことだ」
アンデレが呟いた。そういう本人が『十二使徒』の一員なのだから妙な話である。
「それは、まあ、はい。事実だから何も言わないけども」
ふむ、としばらく何かを考え込んでいたジョンは、ためらいがちにひとつ、このように問いかけた。
「黒にゃんこの方は、能力発動させないようにすればいいのか? それとも、何らかの形で釈義を得て模擬させようか。チビわんこ、どちらがいい」
「可能であれば前者が最適かと」
「分かった。ほれ。参考までに、ちょっとこれを見てみろ」
ジョンが三善に文献を開いて見せた。
それはどうやら『釈義』についての古い学術書のようだった。ラテン語で書かれていたので、三善は解読のために眉間に皺を寄せじっと紙面を見つめる。
「……、『イスカリオテのユダ』の名を冠する釈義について……?」
そんな記録が残っていたのか、と三善は呟く。
「俺も相当探して、ようやくこの数行を見つけた。それだけ例の釈義は記録が少ない」
文献の内容を要約すると以下の通りとなる。
『イスカリオテのユダ』の名を冠する釈義が現れることはごく稀で、記録上過去に一度だけ存在したことがある。
そのときの釈義の内容は『塩化』――あらゆる物質を塩に変質させる能力とされ、化学系釈義と特殊系釈義の中間のような位置付けにあった。
しかしながらこの能力は極端にコントロールが難しいため、当時の能力者は『喪神』することで強制的に釈義発動を抑えていたとされている。
「『塩化』……」
三善がぽつりと呟いた。「御陵市の件と辻褄が合うな」
「ああ。しかし、『塩化』の能力そのものはわざわざ喪神してまで止めるべきものだろうか。たとえば、あの狸の能力だって『灰化』だろ。変質する対象が灰か塩かの違いしかなかろうに」
「それは多分『契約の箱』のせいかと思いますが――」
三善はそこまで言いかけ、はたと口を閉ざした。顔を上げると、四名が一斉にこちらを見つめている。
そういえば、彼らには『契約の箱』と『イスカリオテのユダ』の釈義の関係についてはなにも伝えてはいなかったのだ。そもそも『契約の箱』についてすらも。
唯一イヴだけが目線のみで「とうとうやってしまいましたね」と一言訴えていた。
「……、チビわんこ。お前、何か隠したろ」
ジョンが怒気を含んだ声で吐き捨てるようにして言った。「言え」
「嫌です」
それに対し三善は笑顔でそう答える。「死んでも言いません。黙秘します」
「そう答えるということは、隠していること自体は否定しないのか。なるほど」
一瞬にしてただならぬ空気が流れたその時、執務室の扉が開き、橘とリーナがやってきた。
「センセ、お待たせしました……って、なにこれ。喧嘩したんですか」
橘が話の腰を折ってくれたことを三善はこれ幸いと言わんばかりに利用した。いつも通りの穏やかな表情で二人の名を呼び、近くまで来るよう手招きをする。
ふたりが着席したのを見計らい、ジェイは彼らに何枚かの紙を渡した。
「さて。君たちとは初めまして、かな。ボクはジェイ・ティアシェ。科学研の所長をやっていて、本業は医者だ。猊下の研修時代に直属の上司として面倒を見ていました。明日から君たち二人の釈義調査をするつもりでいるんだけど、今日は事前の説明をと思い集まってもらいました」
注意事項は紙面に書いてあるから、今は重要なところを中心に説明するね、と彼女は言う。
一度検査を受けたことのあるリーナはおおよその内容を把握しているので、うんうんと納得したように頷いている。
逆に橘は慌てふためいているのかと思いきや、意外と平然とした面持ちで紙面を見つめていた。それから、橘は「あの」とジェイに控えめに声をかける。
「採血って書いているのは、本当ですか」
その問いにジェイは首を傾げて見せた。
「うん。やるよ、採血」
そうか、そうなのか、と橘は微かに悲しそうな表情を浮かべている。
――まさかとは思うが、あいつ、注射苦手なのか。
そうは思いつつ、三善は彼の名誉にかけて敢えて口に出しはしなかった。




