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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
5.暴食の承和の楔 [version:α]
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第一章 7

 赤レンガ倉庫の前でヨハンが待ちかまえていると、ようやく探していた二人の子供(・・)が姿を現した。

 その頃にはすっかり観光客よろしく箱館を満喫していた二人は、文字通り鬼の形相を浮かべたヨハンにその場でこっぴどく叱られてしまった。

「まあまあ、これでも食べて落ち着いて」

「甘いものを食べれば気持ちも落ち着きますよ、ブラザー」

 開き直りも甚だしいシリキウス師弟は、咄嗟に無理やり彼の口にチーズスフレを突っ込んだ。

 この狸野郎、とは思ったが、甘いものに罪はない。ヨハンがその美味しさに気を取られている隙に、三善はさっさと助手席に乗り込んでいた。「センセ、そこは下座です」と橘は言いかけ、――結局その言葉は腹の中に押し込められ、大人しく後部座席へ乗り込む。どうせなにを言っても彼は言うことを聞きやしないのだ。それは諦めとも言うが、細かいことを追及できるほど今の橘に体力は残されていなかった。要するに疲れていたのである。

 不機嫌そうな様子のヨハンも運転席に乗り込むと、素早くシートベルトを締める。

「ったく、余計な釈義を使わせやがって」

「ブラザー・ヨハン。地が出ていますよ、地が」

 三善の発言に、そういえば後ろに橘が乗っていたことを思い出した。いまさら取り繕っても遅いとは思うが、念のため咳払いをし、ヨハンはいつもの冷静な口調に戻る。

「息抜きしたかったならそう仰ってください。あまりブラザー・ホセの顔で街中を楽しそうに歩かれると困るのでは? 主にあなたが」

「そうね。まぁ、別に一日遊んでいた訳ではないので……。いいじゃないですか。あなた、意外と頭が固いんですね」

 にこりと微笑んだ三善に、これ以上何を言っても無駄だと判断したのか、ヨハンは口を閉ざしたままアクセルを踏んだ。

 しばらく車を走らせていると、案の定疲れが出てきたのか、後部座席の橘がうつらうつらと船を漕ぎ始めた。ほぼ一日中市内を連れ回したのだから、疲れるのも無理はない。

 三善はクスリと笑い、おもむろに変身を解いた。灰色の髪と乳白色の肌に戻り、「やっぱりこっちの方がいいや」と満足そうにしている。

「坊ちゃん、もういいのか?」

 横目にそれを確認したヨハンが尋ねた。

 まだ制限時間は残っている。あまり外で素顔を出すのはよろしくないのではないか――だからできれば後部座席に乗ってほしかったのだが――と彼なりに気を遣ったのである。

 その問いに、三善は首を縦に動かした。

「本当に助かった、ありがとう。見ておきたいものもしっかり見てきたし、なによりタチバナが予想外に日本史に詳しかった。勉強になったよ」

 この口ぶりからすると、どうやらあれだけ観光体勢で臨んでいた五稜郭タワー見学すらも彼にとっては想定内だったらしい。ヨハンはわざとらしくため息をつき、

「坊ちゃん……。少しくらい勉強しようとは思わなかったのか? 本部勤務でない俺だって、多少は勉強したよ」

「当時は必要ないかと思ったんだ。でも、世の中要らないものはないって、本当の話だったんだね」

 そうですか、そりゃあよかったねとヨハンは聞き流す気満々だ。

 しばしの沈黙。

 彼らの耳に入ってくるのは、ヨハンの指先がハンドルを弾く音のみだ。道路工事による交通規制がかかっており、それによる渋滞に引っかかったのである。「さっさと帰りたい」がヨハンの本音だろうが、三善は敢えてその気持ちに気づかないふりをした。軽いお菓子類はたんまりとあるので、時間だけは楽々と潰せるだろう。それに、これは丁度いい機会かもしれない。後ろに橘は乗っているけれど、彼は思いの外口が堅いから心配は無用だ。

 三善はバックミラーに目を向け、橘が安らかな寝息を立てていることを確認してから、ゆっくりと口を開いた。

「――なあ、ヨハン。ちょっといい?」

「あ?」

「ずっと前におれに言ったことを覚えているかな。おれがぬくぬくして育った云々っていう……」

 ああ、あれね、とヨハンは頷いた。それは『契約の箱』を三善が継承する際、トマスが三善に対して言ったことである。

「『自ら戦争に出たことある? その手で人を殺したことは? そもそも大聖教が十字軍遠征を企てた理由、知ってる?』とか、そういうやつだっけ。言ったなぁ、確か。ま、俺も大人気なかったってことで勘弁してくれないか」

「いや、あんたの言うことは正論だと思うよ。おれはむしろ感謝しているくらいだ。……さっき五稜郭を見学したとき、あの時言っていたのはもしかしてこういうことなのかなって思った。だから、あんたには報告しておこうかなって」

 ふ、と息をついて前を見据える。テール・ランプの紅い光がほんの少し眩しかった。目を細めながら首に下げた十字を中指でそっとなぞる。やはり昔からの癖は直らないものだ。今はつるりとしたほぼ新品の金十字。その違和感はまだ拭えない。

「今なら言えるんだよ。大聖教が『十字軍遠征』を企てた理由も、教会側が何人殺したのか、その方法も併せて。後天性釈義でどれだけの人が実験に使われて、どれだけの人を犠牲にしたのかも。それと、何だっけ。リバウンドを起こして再起不能にした人数か。――全部覚えたよ。あんたに指摘されて、気がついて、覚えた。でもさ、覚えるだけって意味が違うんだよね」

 最後のジオラマを見て、そう思ってしまった。気がついてしまった。

「うまく言えないんだけど、そういう戦いの歴史って、……傷を語り継ぐことなんだよなって、そう思った」

 三善は助手席で膝を抱え、うずくまるようにして座り直した。真紅の瞳は伏せられており、今は見えることがない。彼が何やら難しいことを思案しているときの表情だ。

「おれはね。この街が大好きだ。住んでいる人も、街並みも、空気も、全部大好きだ。大好きだから守りたくて、あれこれ考えてここまでやってきたはずなのに。おれがここにいる限り、箱館が危険に晒されることは避けられない。よかれと思ってやったことが、全部裏目に出てしまった」

 だから、と彼は呟いた。「だからさっき、ジオラマを見て――そんな裏目に出た行動がその先ずっと語り継がれてしまうのが、心底恐いと思った。ひとつ間違えば、それだけこの街の皆に深い傷を負わせることになってしまう。それは身体的なものかもしれないし、精神的なものかもしれない。おれは嫌だよ。皆を悲しい気持ちになんかさせたくない。辛い気持ちにもさせたくない。ほら見ろ、ぬくぬくして育った結果がこれだ。これは間違いなくおれの甘い考えが招いたことだ。……だけどさ、甘いとは分かっているけれど、」

「本当は戦いたくない、か」

 ヨハンの一言に、三善は小さく頷いた。

「そんなこと、俺に言っていいのか。お前は今や大聖教の命運を一身に背負う大司教だ。それに、俺は一度お前たちを裏切っている。『戦いたくない』、その一言を利用する可能性も充分あるだろうに」

「その身体を使い続ける以上、あんたはもうおれを裏切ることなんかできないだろ。それに、……あんたが『大聖教』の人間じゃないから話したんだ。トマスでもなく、ケファでもなく、おれはあんたに話しているんだ、ブラザー・ヨハン。おれじゃあ駄目なんだ。おれは生まれた時から大聖教にいるから、本当に今やっていることが正しいのか分からない。だから外を知っているあんたに話した」

 のろのろと車が動き出した。ようやく帰れるのか、とヨハンが息をつき、そっとアクセルを踏む。三善はとうとう膝に顔を埋める形で顔を伏せ、完全に沈黙した。

「――ここからは、俺の独り言だから聞かなくてもいいよ」

 じっと前を見据えたまま、ヨハンが呟く。「多分後ろで寝ているユダ(・・)も聞き耳を立てているのだろうから、お前さんも聞くといい。十字軍遠征に駆り出され、聖都に行ったときの話をしてやろう」

 ぴくんと三善が体を震わせた。しかしそれ以上動こうとはせず、静かに聞き耳を立てている。おそらく、後部座席の橘も彼らの話し声で目を覚まし、じっと彼の話に耳を傾けているのだろう。気配で分かる。

「あれは大変だったなぁ。俺たちはロシアを経由して南下したんだけど、大豪雪でバギーは埋まるし、ろくな食い物もなかったし。ああでも、例の塩原と人骨の砂はそれ以上に辟易したな。それと、カークランドの先天性第一釈義と」

 俺はね、とヨハンが実に穏やかな口調で言った。「カークランドの先天性第一釈義を相殺するために連れていかれた、生きた盾だったのさ。だから俺には、人を殺める許可(・・・・・・・)が一切与えられなかった。他の仲間たちも基本的にはそう。それに対してカークランドは、一人で殺人の業を背負わされる羽目となった。あいつの釈義は、『無差別にあらゆる物質を灰へと変換する』。しかもその釈義はごく微量――保有釈義のうち一パーセント程度の対価で街ひとつを吹っ飛ばすほどの威力を見せるときたもんだ。さて、あいつはただ守るだけしか任務を与えられていない俺になんと言ったか?」

「……くそったれ?」

 三善がぽつりと呟いた。相変わらず顔は伏せたままだ。うーん、とヨハンは己の金髪を掻きあげ、困ったように肩を竦める。

「それが正解ならどれだけよかったか。正解はこうだ」

 ――わたしの中には神が存在しない。だからあなたはわたしを見捨てて自分の信仰のために生きなさい。あなたの神は決して、こんなところで朽ちるべきものではないはずだ。

 悔しかったなぁ、とヨハンは苦笑しながら言う。

「たかが成り上がりの司教にそんなこと言われる筋合いねぇっつぅの。だから無性に腹が立って、思いっきりぶん殴ってやった。でもさぁ、今なら、あいつの言わんとすることがなんとなく分かるんだよ」

 ぴたりと静止していた景色が徐々に流れてゆく。空からは白い雪が降り始めて、ボンネットにぺたぺたとへばりついていった。水っぽい、重い雪だ。

 ヨハンは下がった眼鏡を中指で押し上げた。

「確かにあいつの中に『神はいなかった』。いや、神を喪失した状態を自ら作り上げたから、今のあいつがいるのだろう。……坊ちゃん、だから一つ助言という名の忠告」

 この一言が彼の手助けになるのなら。否、彼だけではなく、今その身体を使わせてもらっている岩の子(・・・)をも救うことができるのなら。

 その一言は彼にとってはとても残酷で、すぐには理解ができないかもしれない――だからこそ、期待したい。

 彼がちゃんと気付いてくれますように。『ほんとうのこたえ』は、すぐ手が届くところにあるのだ。

 だから。

 自分の力でこの意味を理解しろ。お前はそれに気付くことができるはずだ。

「この街を守りたいと思うなら、あんたは自分の中の神様を捨てろ。喪神しなければ得られないものがある」

 三善がようやくのろのろと顔を上げた。その表情はぴんと張った糸のように緊張に満ちている。決してヨハンへ目を向けようとしない彼は、真正面の架空の一点をじっと見つめながら、はっきりとした口調で尋ねた。

「それはあんたの経験則?」

「なに、近道を教えてやったまでのことさ」

 それを確認すると、もう三善の表情には疑念と呼ばれる類のものは存在していなかった。ただひとつ、納得したように首を縦に動かすだけだ。漠然と、彼の言葉を信用してもいいと思ったのかもしれない。

「やっぱり、あんたに話してよかったよ」

 そして、このような言葉を投げかけるのだった。

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