第一章 6
その一言に、橘はなにも言えずただぽかんと口を開け広げるだけだった。
慶馬は今、なんと言っただろう。
――彼は間違いなく、プロフェットにしてほしいと言った。「洗礼を受けさせてほしい」だけならまだしも。
それに対し、三善は無表情のままじっと慶馬を見つめていた。なにを言うまでもなく、ただ彼を見ているだけだ。
「あなた、それがどういう意味か分かっているのですか」
ようやく発した三善の一言には計り知れない重圧が込められている。怒りも貶しも含まれていない分、その重さが逆に辛かった。
肝が据わっていると自他ともに認める慶馬でさえ、その一言に一瞬たじろいだのが見て取れた。
「分かっている……つもりです」
慶馬が声を絞り出す。「後天性釈義を受ける行為は『罪』だ」
「その通りです。わたしもブラザー・ホセも……、あなたの主である帯刀雪も『それ』を保持しています。しかしながら、わたしたちが保有するのは単なる能力ではなく、人から与えられた『罪』そのものです。あなたは決して道を踏み外してはいけない。道を踏み外すのはわたしたちだけで十分です」
「それでも!」
珍しく彼が声を荒げたことで、三善はぴくりと眉の端を動かした。――彼の言動に興味を持ったということだろう。何故彼がそこにこだわるのか。執着する理由は何なのかを慎重に探ろうとしている。
慶馬が必死に食い下がる。それを横から見る橘が怯えた瞳を見せた。
「あの力がなければ、あなた方を助けることはできないじゃないか……!」
彼の言葉に、三善が疑問を投げかけた。
「あなた方? ブラザー・ユキではなく?」
ええ、と慶馬がゆっくりと首を動かした。
「あの方だけを救っても意味がないんだ。そう思います」
それを聞くと、三善はおもむろに手持ちの鞄を漁り始めた。あれでもないこれでもない、としばらく探った後――三善は鞄の中の整理が非常に下手だ――、ようやくポケット版の聖典を取り出した。
「あなたは持っていないでしょう。貸してあげます」
それを差し出し、三善はにこりと微笑む。真紅の瞳が細められ、それだけで今までの異常なまでの威圧感が削がれてゆく気がした。
「あなたに深いことを尋ねるのは野暮ってやつでしょう。だから私からはなにも聞きません。ただ、私としましては、あなたはまだこちらの道に来るのは早すぎるように思えるのです。……覚悟が決まったら、またいらっしゃい」
何故とも、どうしてとも、慶馬は言わなかった。ただ、三善から聖典を受け取ったとき、微かにほっとした表情を浮かべたのは確かだ。彼はそれだけ思い詰めていたのだろう。
慶馬が言いたいことは、三善にはよく分かっていた。
きっと帯刀が「もし自分が動けなくなった時、三善の力になってやれ」とでも言ったのだ。その一言から、このような答えを導き出すこの男は正直面白いと思った。昔は帯刀だけ見ていて、それ以外は割とドライだった気もするのだが。
彼もまた進んでいるのだ。決して止まらずに、時々誰かさんが無理をしたり方向を間違えたりしないように示してやりながら。そうしているうちに、守ってきた誰かさんをとりまく他の人物も気になり始めた。ただそれだけのことなのだ。
この人も随分変わったなぁ。
「ただ、それだけ」。これが意外と、今までの美袋慶馬には足りなかったのかもしれない。三善はそう思うのだった。
***
帯刀には改めて連絡する旨を伝えると、彼らはそこで別れた。
時計を見るとまだ時間に余裕があった。このまま帰るのももったいないと思ったのか、三善は大きく伸びをしながら「どこに行こうかな……」と呟いた。
そんな彼の背中を見つめつつ、橘は白い息を吐き出す。結局、この師匠は肝心なことをなにひとつ言わないのだ。
俺が来た意味はあるのかなぁ、と思っていると、突然くるりと三善が踵を返した。
「タチバナ。お前さぁ、日本史得意だったよな」
実に奇妙な質問だった。
確かに御陵市で高校生をやっていた時、選択科目は日本史だったけれど。しかし何故それを今聞くのだ。今までのやりとりの中にはそんな話は一切なかったはずである。
「え、得意かどうかは別ですが……まぁ、そこそこ」
「よし、ちょっと観光しよう。付き合ってくれ」
そう言うや否や、三善は戸惑う橘の手を取りずんずんと歩き始めた。
空は相変わらず曇り空。しかも肌がぴりぴりと痛むくらいに外気は冷え込んでいるというのに、この人はとことん元気である。
やっとのことで三善の横まで追いつくと、橘はようやく気が付いた。今この人は実に楽しそうに笑っているではないか。
はっと目を瞠った。
橘が箱館支部にやってきた頃から考えても、彼が心から楽しそうにしていることはごく僅かである。作り笑いはよく見るが、素に戻るのは片手で数える程度しか見たことがない。
珍しい、というよりは、ようやく見せた素顔に驚いたというのが正直なところだ。しかし橘はなんとなくそれが嬉しく思えて、ついついにやけてしまった。
「楽しそうですね」
橘の声に、「そりゃあそうだ」と三善は妙にあっさりと返す。
「おれはもうすぐ勤務三年目になるけど、観光はしたことがないんだ」
「えっ? 一度も?」
「そう、一度も。そこに見える五稜郭タワーとかさぁ、一度昇ってみたかったんだよねぇ。タチバナもこっちに来てから支部の手伝いばかりで、観光してないんじゃないの?」
確かに箱館にやってきてから遊び歩いたことは一度もない。せいぜい、三善を探し歩いた滞在初日くらいだ。確かにあのときは「あとで赤レンガ倉庫に行ってみよう」だとか、そういうことを考えていた気がするのだけれど。
「観光するという発想自体、すっかり忘れてました」
「だろ? だから、ちょっとだけ見学しよう」
そう言って笑った三善は、やはり楽しそうである。
ああもしかして、この人の本当の目的はこっちだったのかもしれない。教皇就任後は特に『護衛』という名の監視がきつくなり、心底面倒だと言いたげな顔もしていたからなおさら。
そうと決まれば、つかの間の小旅行にとことん付き合おう。そう思う橘だった。
***
とりあえず近場から、ということでふたりは五稜郭タワーに入る。
チケットカウンターで一四七〇円を――二人分の金額である――支払い、チケットを購入した。白く近代的な建物は、平日ということもあり少しだけ空いている。
「高校生はいいね、料金が安くて」
ぽつりと三善はそんなことを呟いている。ちなみに数分前に入館料を自分で払おうとした橘は、
――おれが誘ったから、おれが出すよ。
と三善に止められていた。さすがに申し訳なかったので断ろうとしたところ、「じゃあ」と三善は自販機を指して言った。
――帰りに缶コーヒー一本買ってくれる? それで手を打とうじゃないか。
明らかに割合がおかしいけれど、どうせこの頑固者は何を言っても聞かないのだ。
さて、ふたりはエレベーターで展望台に昇る。展望台エリアに降り立つと、一面に先程まで歩いていた街並みが広がっていた。そっと見下ろすと、車や建物がまるでおもちゃのように小さく見える。
いつも自転車で走り回っているから気づかないが、高い場所から俯瞰すると意外と小さな街なのだと改めて思い知らされた。安い上に表現の足りない言葉だが「すごい」というのが橘の正直な感想だった。
この階には歴史を学ぶための模型が数多く展示されている。窓越しに目を輝かせている橘の横で、三善は近くにあった五稜郭復元模型をじっと覗きこんでいた。
「タチバナ先生、質問です。何故星型なのですか」
その一言に思わずぎょっとした、土岐野橘・十七歳(現役高校生)。
そこから説明を求められるとは思っていなかった。まさかとは思うが、首を傾げている三善に念のため確認をとることにする。
「センセ、前にも聞いた気がしますが、歴史関係の勉強は」
「教会史少々。それ以外は世界史をちょっと齧った程度」
「……ちなみに義務教育は?」
「あいにく地下に繋がれていたもので」
飄々と言い放ったものだから、橘は観念したらしく大きくため息をついた。なにか不穏な言葉を耳にした気がするが、それは気のせいだと念じておくことにする。
この教皇は確か相当、否、かなり頭はいいはずなのだが、意外とこういうところが抜け落ちていたりするのだ。必要なところだけ勉強させるというのは本当によくないことなのだと橘は改めて実感した。
さて、どう説明すればいいものか。橘はわずかに逡巡し、それからこのように言った。
「五稜郭は要塞なんです」
「要塞?」
「はい。そもそも箱館は安政元年に日米和親条約を締結した際に開港された場所なんです。下田と一緒に」
「安政元年とは」
「一八五四年です」
なるほど、カンザス・ネブラスカ法の年か……とやはり頭がいいんだか悪いんだかよく分からない言葉を呟きつつ、三善は橘に続きを促した。
「開港に伴い、幕府は箱館に奉行所を設置しました。その際防御強化のための施策がいくつか行われたのですが、その施策の一つが『五稜郭建立』です。ちなみにこの星型の要塞はヨーロッパの城郭都市をモデルにしているそうです」
「で、なんで星型なの? 先生は前置きが長いよ」
結論に辿り着くには段取りがあるんです、と橘が語調を強くして言う。
「簡単に言えば、死角を少なくするためですね」
橘が己の胸の前で両手を使い四角形を作った。「一般的なお城ですと、こう……四角いでしょ。発案された十六世紀頃のヨーロッパでは、銃や大砲が発達し始めています。四角い建物だと、ほら、死角が多い」
確かに、と三善が頷く。そして今度は眼下に鎮座する模型の星型を指でなぞり、
「つまり星型にすると、壁が向かい合っている分死角が減る、と?」
「そういうことです」
ふぅん、と三善はようやく納得したらしい。微かに頷いて、今度は硝子越しに箱館の街並みを見下ろした。
橘も先程感嘆の声を上げていたその景色。三善の目には一体どのように映っていたのだろう。
彼は炎の色をした瞳をじっと外へ向けたきり、しばらく動かなくなる。
「――戦争があったんだ」
三善はぽつりと呟いた。「要塞があるということは、そういうことじゃないの」
「ええ、その通りです。箱館戦争ですね」
あっちにジオラマがありますよ、と橘が指差したので、三善は彼について行くことにした。
小さなケースに入れられたジオラマがいくつか並んでいる。
三善はゆっくり時間をかけてそれを眺めることにした。
亜墨利加船や、箱館奉行の様子。五稜郭築造の様子は、本当にたくさんの人々が関わってこの城ができたのだということを分かりやすく再現していた。
そうしているうちに、旧幕府脱走軍が上陸する――
「ここからですね。慶応四年の戊辰戦争――ええと、簡単に言うと『開国』か『鎖国』かを巡る対立が引き金になった戦争です。旧幕府海軍の榎本武揚が江戸湾を脱走して、ここに上陸したんです。その後五稜郭を本拠地として、仮の政権を樹立しました。それに対応するジオラマは……あった。これです」
「ふむ……」
引き続き、三善はジオラマへ目を落とした。
箱館総攻撃、そして終戦――。
最後のジオラマはそれ以降の静穏を描いたものとなっている。氷を切り出す人々の姿。幾つものジオラマが、激動の時代を忠実に描いていた。
この時代を生きた人々の思い。今は直接耳にすることはできない声が、別の形となり後世に伝えられるよう。このジオラマにはそんな願いが込められているように感じられた。
「――語り継ぐもの、か」
呟いた三善の声は、橘の耳に届くことはなかった。




