第一章 3
「おはようございます」
橘が声をかけると、案の定三善はまだ寝ていた。――否、敢えてこの状況にコメントをつけるとしたら、「あれこれ考えているうちに夜明けになってしまったのでちょっと休ませろ」といった感じだ。
もう既に見慣れた光景なので、橘は奥のクローゼットから毛布を引っ張り出してきて三善の肩に掛けてやった。その感触に三善は一瞬身じろぎするも、数秒後、彼はふたたび夢の世界に旅立って行ってしまった。
机の上に山のように積まれている書類の数々は、以前まで枢機卿が請け負っていたものだと聞く。戴冠式のあとに引き継ぎを行い、必要なものは全て持ち帰ったのだそうだ。
ちらりと盗み見ると、橘は不思議そうに首を傾げた。てっきり書類整理をしていたのだと思ったが、よくよく見るとどうも違うらしい。書類の上に重ねられているのはたくさんの文字が書き連ねられた便箋だ。そして傍らには英和辞典が広げっぱなしの状態で置いてある。
「あ、おはよー。タチバナ」
はて、と思っていると、執務室の戸を開けロンがやってきた。その後ろからイヴがやってきて、ちらりと三善の様子を確認する。彼がまだ寝ているということに気が付くと、彼女はそっと給湯室へ向かって行った。
「あ、おはようございます、ブラザー。イヴも」
うん、とロンが小さく頷くと、三善の机の上――いつも未処理書類を溜めている左側の箱に昨夜仕上げた分の書類を重ねておいた。あとは教皇のサインが入れば返送可能な状態である。
「相変わらずうちのボスは無理しちゃって。別に手書きでなくてもいいのに」
ロンが思わず苦笑すると、「ところで」と橘が顔を上げた。
「センセはいったい何を書いているんです?」
その問いに、ロンはきょとんとした。知らないの、と短く尋ねたので、橘は大きく頷いて見せる。
その反応にロンは思うところがあったらしい。ははあなるほど、と小さく呟くと、橘へ向けてこう返した。
「インターネット先生に聞くといいよ」
「えっ?」
「一番分かりやすい答えが書いてある」
橘の頭上に大きくクエスチョン・マークが浮かぶ。とりあえず言われたとおりに携帯を開きブラウザを立ち上げたところで、ようやく三善が目を覚ました。ゆっくりと上体を起こすと、肉まんが余裕で二個入りそうなくらい大きな口で欠伸をする。
「もうそんな時間か。おはよ。お前ら、寝かせたいんだか起こしたいんだかはっきりしなさい。耳元でうるさいよ」
「あ、すみません」
しかし悪びれずに橘が切り返すので、まあいいけど、と三善が息をつく。そして左手で頬杖をついた。紅玉の瞳は今、眠たげにじっとりと座っている。
そうしているうちにイヴが戻ってきて、三善の前にブラック・コーヒーを置いた。
「ああ、ありがとう」
「砂糖は必要ですか」
「砂糖よりミルクが欲しい。なんか胃の調子が悪くてさー……」
そんなことを言いながら、三善は机の上に積んでいた封筒の束を手に取った。素早く枚数を確認すると、角が揃うようにきっちりとまとめ直す。
「イヴ、これ全部郵便に出しておいて。おつかいだ、できるだろ」
はい、と呼ばれたイヴが束になった封書を受け取ると、その分厚さに思わず薄氷色の瞳を大きく見開いて見せた。
「……これはまた、いつになく凄まじい量ですね」
「送料は経費で落ちるかな」
「ええ、それは問題ありません。領収書をもらえばいいのでしょう?」
「ああ、その通りだ。頼んだよ」
イヴが踵を返し執務室を出たのとほぼ同時に、携帯を見つめていた橘が思わず声を洩らした。橘はまったく知らなかったのだが、三善が今イヴに渡した『手紙』とやらはどうやら世界規模で相当な話題になっていたらしいのだ。
ヨハネスが在位中の頃から教皇宛に手紙が届くことはあった。その点については特段驚かれることではないのだが、人々が驚いたのはその返信の数だ。どう考えてもひとりの人間が捌ききれないような数を読み、手書きで返信しているように見受けられる。一部では代筆させているのではないかと言われていたのだが、最近になりその筆跡が「同一人物のものである」と認められたことで世界中が震撼した。
そんな訳で、あの封書の束は割とホットな話題の渦中にある代物だったのだ。
三善から言わせれば「そんなことを調べるほど世の皆々様は暇なんだろうか。実に平和なものだな……」とのことだが。
「ところでセンセ、いつ寝ているんですか」
「……、悲しくなるから聞かないで」
三善の回答に、一同ため息をつくしかなかった。
さて、と三善はイヴに淹れてもらったコーヒーを一気飲みし、席を立った。
「ちょっとシャワー浴びてくる。そのあとは出かけるけど……ああそうだ、タチバナ。一緒に来てくれないか」
「え、俺ですか」
「お前以外にタチバナはいないんだけど」
でも、と橘が言葉を濁した。教皇が今までのようにひょいひょいと外出できるはずがない。大きな騒ぎになることは目に見えて分かっているはずだ。
助けを求めて橘がロンへ目を向けると、彼はちょうど内線を回しているところだった。そして何かをぼそぼそと話したのち、三善へ目を向ける。
「二時間後にブラザー・ヨハンが来所します。ゆっくり準備してくれる?」
「ああ。待っている、と伝えてくれ」
そして、三善はにっこりと微笑んだのだった。
***
「俺は特殊メイク屋か」
しばらくの後、ブラザー・ヨハン――トマスが愚痴まじりに執務室にやってきた。
その頃には既に休憩を終えていた三善は、カマーベスト姿でゆったりと新聞を読んでいた。ジャケットはソファの背にかけられ、傍らにはいつも持ち歩いている鞄が置いてある。
三善がヨハンの姿を捉えた刹那、僅かに顔を歪めて見せた。
彼と会うのは碇ヶ関の一件以来である。
あの日ホセにハンマーロックをかけられた三善だが、勿論やられっぱなしでいるつもりはなかった。適当な服を着用すると、三善はホセを追うべく慌てて支部を飛び出す。
二人の姿はすぐに見つけることができたが、結論から言うと三善が彼らの前に出ることはなかった。
――あの子が今後心穏やかに過ごせるのなら、私はいくらでも悪魔に身体を売り渡しましょう。
――いいですか、私とあなたは、共犯です。
――共犯なら共犯らしく、堕ちるところまで行くか。
別に盗み聞きするつもりはなかった。三善が知る二人の会話――たとえばただの口喧嘩であれば、躊躇いなく止めに入っただろう。だが、彼らの会話を耳にした三善は思わず躊躇してしまった。
ケファがそれでよいと言うのなら、三善には止める権利などない。何度も言うようだが、どうにも三善を取り巻く人々は自身の人生を他人により台無しにされる傾向にある。そして本件に至っては、三善がケファの人生を台無しにしているという自覚もあった。
もしも今飛び出して泣きつきでもすれば、少しは考え直してくれるかもしれない。しかし、それは本当に彼が望むことだろうか。
そして三善は、地に堕ちていくふたりをいよいよ止めることができなかった。
そんなことがあったので、三善はしばらくヨハンと会わないようにしていたのだ。
ヨハンは三善の微かな表情の変化に気付き、自嘲するように唇の端を吊り上げた。
「坊ちゃん、罪悪感でもあるのかい」
心臓が跳ねた。
三善が言葉に窮していると、ヨハンはまるで子供に言い聞かせるような声色で続ける。
「あれは別にお前のせいじゃないよ。こいつはそれで納得している」
「……、分かっているよ、そんなこと」
三善は絞り出すような声色で返した。「おれは、おれが知らないあなたになっていくのが怖いだけだ」
「同じことをそのままお前に返すぞ。俺は、俺たちは、俺たちが知らないお前になっていくのが心底恐ろしい。お前は気づいていないかもしれないが、お前は最早『変化』という言葉で片付けられないほど変わってしまった。そのことに対して、俺たちは少なからず罪悪感を覚えている」
三善はじっと押し黙り、何かを考えているようなそぶりを見せた。否、無言のままに何かを訴えかけようとしていたのかもしれない。しかしヨハンがその真意を汲み取る前に、三善は静かに彼の真正面へ腰掛けた。
「あなたが言えたことじゃない」
そして三善は冷めた一言を投げかけた。「さっさと始めよう」
何を始めたかと思えば、トマスの釈義である『顔替え』を施してもらうつもりでいたのだ。ケファ自身は釈義を失ったままだが、トマスが自身の釈義を持ち合わせた状態で“弾冠”を行ったため、微量であれば釈義を行使できると聞いている。もちろん本来は釈義生成の機構を喪失した身体なので、無理できないことには違いないのだが。
「顔の希望は?」
ヨハンの問いに、三善はさっぱりとした口調で答えた。
「別に誰でもいい。そうだな……、ホセあたりなら、顔の造形を思い出せるか?」
「了解」
そう言うや否や、ヨハンの両手に白金の電流が走る。
「いくぞ」
そしてそのプラズマを三善の顔面めがけてぶち当てた。塩が爆ぜた音が耳に残る。左から、右へ。白磁のような肌の色が徐々に褐色がかってゆく。灰色の髪は、黒く、鴉の濡れ羽根のような状態へ。輪郭はより骨ばったものへ。
次に瞳を開けた時には、彼の顔は既に『姫良三善』ではなくなっていた。ぱちぱちと瞬きしつつ目の前に座るヨハンを見遣ると、ヨハンはそっと手鏡を渡してくれた。
「目の色はさすがに変えられないから、そこはコンタクトかなにかで誤魔化してくれる」
鏡を見つめ、「おお、ホセだ」と嬉しそうにしているところを見ると、三善本人もここまで完璧にしてくれるとは思っていなかったらしい。
「制限時間は十二時間だ。一体なにをしに行くのかは知らないが、無茶はするなよ。教皇が無防備にその辺をうろちょろされると迷惑だからな」
「うろちょろはしないよ。それに、タチバナも連れていくから安心してくれ」
三善は手にしていた鏡をソファの上に置くと、ソファにかけていたジャケットに袖を通した。
「もし時間になっても帰ってこないようだったら迎えを寄越してほしい。場所は……ええと。赤レンガ倉庫の前でいいか」
「赤レンガのどれだよ。いっぱいあるだろうが」
「おれの外見って目立つでしょ。見つけてよ」
本当に困った奴だ、とヨハンは思った。こういうところは、いま彼が化けているホセ・カークランドにそっくりだ。どうしてこう、微妙なところが似てしまったのだろう。
親子ってそういうもんかねぇ、と呟いているうちに、三善は鞄をひっ掴み執務室を後にした。ヨハンが目線だけでその背中を追うと、扉の前で待機していた橘が「ぎゃっ!」と悲鳴を上げている。
「やっぱりさぁ、坊ちゃん。あんたやることが突拍子なさすぎ」
思わず呟いたところで、再び扉が開いた。




