第一章 2
翌日、なんだか煮え切らない微妙な気持ちを胸に飛行機に乗り込むと、隣のシートに座るジョンが三善にこのように尋ねた。
「チビわんこ。そもそも『塩化』現象とは?」
国内移動の場合は大抵普通席で行き来する三善、今回初のファーストクラス――というより、文字通りの貸し切りだ――に乗り込むこととなった。枢機卿団は衛兵を共に乗せるつもりでいたようなのだが、今回は三善の希望でジョンを護衛として同席させることにしている。
本州から箱館に戻るだけなのに、ここまで大掛かりにする必要などなかろう。三善がぼやくと、ジョンは短くこう言った。
――お前がぼやぼやしていて勝手に死なれると困るからだろ。むしろ配慮してくれる周りに感謝しなさい。
逆に叱られてしまった。
機内に流れる離陸のアナウンスをぼんやりと聞き流しつつ、三善は彼の問いにこう返した。
「『塩化』現象とは、文字通りの意味で『あらゆる物質がその性質を全て無視して塩化ナトリウムに変質する現象』のこと」
基本的に三善はジョンに対し丁寧語を使って話すことにしているが、技術的な話をするときに限り例外的にそれを止めている。三善がジョンの下に付いたばかりの頃、技術的な話題を敬語混じりに話したところ「あまりに婉曲しすぎて伝わらない」と一同に指摘されたためである。
ジョンの問いかけがそのカテゴリに分類されると思った三善は、今回も例外なく敬語を取りやめることにした。
機体が滑走路へ向けて大きく旋回。徐々にスピードを上げ、離陸する。
離陸した際の何とも言えない心地に顔をしかめていると、ジョンは「その通りだ」と頷いた。
三善は続ける。
「『塩化』現象について話すには、前提となる『釈義』について考える必要がある。それで合ってる?」
「合ってる合ってる。続けて」
ならば遠慮なく。三善は口を開き、抑揚のない口調で話し始めた。
「『釈義』を説明しようとすると、どうしても『信仰の力』とかいう意味の分からない言い方をする必要があるが」
「チビわんこ、そこはもうちょっとオブラートに包もうか」
「……『釈義』を説明しようとすると、どうしても『信仰の力』という漠然とした表現となる。厳密に言うと『釈義』とは、この世に存在するあらゆる物質を『考証』し、本質がなにかを検討したうえで適切なかたちに分解、再構築する能力だ。そして、能力発動の際に莫大な量の熱エネルギーが発生するため、一般に釈義使いは体温が高いとされている」
ジョンは頷いた。
「そうだな。そして分解・再構築の過程でどうしても失われるのが体内中の『塩分』。通常、人間が運動をすることにより失われる塩分はおよそ〇.三パーセント。どんなに多くとも〇.九パーセントまでの範囲で収まることが証明されている」
意外と少ないな、と三善は呟く。
「ヒトの汗線には塩分再吸収の仕組みが備わっているから、少量であれば汗から塩分が再吸収される。だから、普通に生きていく分には塩分が過剰に失われることはない」
しかし、とジョンは言う。
所謂『釈義』使いの場合はその限りではない。通常の運動量では考えられないほどの熱エネルギーを放出する関係で、大抵は汗をかきっぱなしの状態が続く。そうなった場合、塩分の再吸収が追いつかなくなり、汗に含まれる塩分濃度はかなり高くなってしまう。
「ま、『釈義』使いは汗の水分すらも場合によっては表面温度で速攻蒸発することがあるからな。むしろ流れ出た塩分だけが皮膚に残ることの方が多いか」
「そうね。結構ベタベタするよな」
ある意味経験者のふたりは、思わず遠い目をする。特に真夏は毎回大変なことになるので、できる限り夏に能力を発動したくないというのが『釈義』能力者の共通見解だった。
それと、と三善は付け加える。
「おそらく『釈義』そのものも塩に関係しているのかな。ある一定の使用量を超えると、おかしな現象が起こるだろ。一度体外に排出された塩分が『釈義』の過剰な熱で融解し始めるやつ」
いわゆる熔融塩みたいな状態か、と三善は言った。「この現象が所謂『リバウンド』。その熱量に身体が耐えきれなくなる訳だ。とはいえ、おれはこの点について納得し切れない。塩の融点が八〇〇度ということを踏まえると、それに比べはるかに温度が低い『人間の表面温度』で融解し始めるというのがまったく理解できない」
「だからあくまで『そういう風に見える現象』なんだろ。そのあたりは科学の力で解明できていないところだからな。今後科学者が死ぬ気で頑張れば、将来的には解明できるかもしれないぞ」
死ぬ気で、というのがまた嫌なところだ。
三善が苦笑していると、やってきたキャビン・アテンダントが二人に飲み物を勧めてきた。彼らはホット・コーヒーを頼むと、紙コップにスリーブをつけた状態で手渡してくれた。三善がそれを受取ろうとすると、それをすかさずジョンが奪い取る。
うん? と表情を曇らせた三善をよそに、容赦なくジョンが一口飲んだ。
しばらくじっと考えて、それから改めて三善に渡す。
「お前トイレ近いだろ。余ったら俺に寄越せ」
「……おう」
そんな莫迦みたいな言い草をしているが、ジョンは毒味をしたのである。そのうえで、「全部飲むな」と牽制した。それに気づかない三善ではないので、黙って言うことを聞くことにした。
キャビン・アテンダントが去ったのを確認し、ジョンは微かに唸りながら自分のカップに口をつける。
「それはともかく。長々と話してきたが、つまるところ『釈義』と『塩』は切っても切れない関係にあると言っていいだろう。ここまでが前提だ」
「前提が長いな……。それで、菖蒲十条と東西の件は?」
「簡単に言うと、『うっかり、たまたま』だ」
三善の問いに、ジョンはさっぱりとした口調で答えた。「さっき言った通り、『釈義』使いと『塩』は密接な関係がある。もちろん個人差はあるが、『釈義』使いは高確率で『生きた塩の塊』みたいな状態になる」
三善も紙コップに口をつけ、苦いブラック・コーヒーを胃に流し込む。
「ところでチビわんこ、食塩を工業的に生産しようとした場合、どうやって作るか知っているか?」
突然変な質問をされた。三善は思わずきょとんとして、その質問の真意について思案する。――考えても分からなかったので、思ったことをそのまま答えることにした。
「いや……、天日干しじゃないの」
「それもない訳ではないが、最近多いのはイオン交換膜濃縮法だな」
「うん? 難しい名前だな。電気でも通すの?」
「そうだ」
ちょっと待て、とジョンは手荷物からスケッチブックとサインペンを取り出し、簡単に絵を描いて見せた。彼は四角い箱の中に何本か線を引っ張った図を三善へ見せ、
「この箱は塩水が入ったプールだと思ってくれ。プールの両端に電極をつけ、その間に『プラスイオンだけ通す膜』と『マイナスイオンだけ通す膜』を交互に設置する」
ジョンはさらさらと電極の絵を描き足し、最後に通電状態を示す記号を加えた。
「この状態で電気を流すと、塩水に含まれるプラスイオンとマイナスイオンがそれぞれの電極に引き寄せられる。最終的にどうなるかというと、膜を隔てて『ナトリウムと塩素が濃いパーティション』とそうでないパーティションが交互にできる訳だ。この中から『濃いパーティション』に入っているほうの塩水を取り出して釜炊きすると、純度の高い塩ができる。イオン交換膜濃縮法というのは、つまるところ、こんな話」
「ああ、なるほど」
三善は頷いた。「なかなか面白くできているな」
「これと同じ原理のことが起こったのが菖蒲十条と東西の件だ。調査したところ、あの場所は諸々の条件が見事に重なっていたことが分かった。具体的には、どちらも盆地であること、また、先の『聖戦』にて国内で唯一戦地となったことからも分かる通り、他と比べると妙に聖所が多いことが挙げられる。聖所の近くにはなんだかんだで『釈義』使いが集まりやすいからな。さっき言った話にあてはめると、『釈義』使いが塩を生成するための海水、特殊な地形が海水を投入するプール、そして聖所そのものがプラスイオンないしマイナスイオンを通す膜、という感じか」
なるほど、と三善は頷く。しかし、それだけでは条件が足りない。三善は先ほどのジョンの話をもう一度思い返し、短く聞き返した。
「肝心の電気はどこからやってくるんだ」
「それが『うっかり、たまたま』の真相だ。あの日、菖蒲十条と東西は局地的な集中豪雨に見舞われ、結構でかい落雷が発生した」
「ああ、それは紛れもなく電気だ」
三善はようやく納得し、うんうんと首を縦に動かした。それは確かに偶然の産物と言っても過言ではない。さすがに天災には誰も勝てやしない。起こるときは起こるのだ。
「となると、やっぱり次は箱館って感じがするな。あの場所は菖蒲十条や東西と立地条件がかなり似ている」
「そう。俺たちが『次は箱館だ』と言う真の理由はそれだ」
三善は微かに唸り、じっとその赤い目を正面へ向けた。己の右手を左手で包み込むと、何か固い感触があった。――薬指に収まる金色のインタリオリングだ。慣れない感触に一瞬戸惑ったが、すぐに元の表情へ戻る。
三善はジョンへ目線を向けた。
「たぶん他にも条件が揃っているところはあるだろ。できるだけ早く、対策できればいいけれど」
おや、と三善は思った。ジョンはなにか考え事をしているような表情を浮かべていたからだ。なにかあっただろうか。三善は不安そうに彼の名を呼んだ。
「――チビわんこ、ところで、今回の件で少し気になることがあるんだが」
「うん?」
「御陵市の件なんだが、……」
そこまで言いかけて、ジョンはぴたりと口を止めた。そしてなにやらじっと口を閉ざしたかと思えば、
「――やっぱいい。もう少し考えをまとめてからにする」
と、彼にしては珍しい態度を取った。三善は怪訝に思いながらも、本人がそうすると言っているのだからと深く追求しないでおくことにする。気が向いたら教えてほしい旨を伝えると、三善はのろのろと瞼を閉じた。
「技術的な話はここまでにします。ジョン、少し眠ってもいいですか。なんだか疲れてしまいました」
「ああ。疲れているときにこんな話をして悪かったな」
「それは問題ありません。どこかでちゃんと話をしておかなければと思っていたので、ちょうどよかった」
眠る体制を取ろうと三善が身じろぎする。体制が決まらずにしばらくごそごそと動いていると、見かねたジョンが声をかけた。
「こっちにもたれてもいいぞ。その方が楽だろ」
「ああ、はい。それでは遠慮なく」
本当に遠慮することなく、三善はジョンの右肩に頭を置いた。途端に彼はうとうとし始め、瞼が重くなってゆく。半分寝ぼけた調子でぽつりと呟いた。
「ずっと不思議だと思っているのですが、何故あなたといるとよく眠れるんでしょう……。安眠枕の成分でも入っているんです……?」
掠れた声で呟くと、三善は返事を待つことなくすぐに寝息を立て始める。おやすみ三秒もいいところである。
「……、たぶんそれは、いつも寝落ちするギリギリまで難しい話をするからじゃないのか」
思わずごちたジョンの声は、眠りについた三善の耳には入らなかった。




