序章 1
十一月三十日。
この日三善はおよそ一年ぶりにエクレシア本部を訪れた。
箱館と比べると本州地区はさほど寒くない。しかし、そこそこ高さのある建物が広い敷地内にいくつも建てられているせいだろう。吹き付けるビル風が思いのほか冷たく感じられ、三善は思わず外套の首元を左手で閉じた。
微かに感じるいくつもの視線は全て無視することにした。どうせろくなものではないのだ。
――そうだ、大して意味のないものに構っている暇などない。
三善は目を細め、小さく息をついた。
受付エントランスで受付を済ませると、三善はその足で北極星へ向かおうとする。ただ荷物を置こうと思っただけなのだが、受付の修道女に「滅相もない」と何故か叱られてしまった。
「今迎えが来ますので、そのままお待ちいただけますか」
勝手知ったるエクレシア本部で迎えなど不要なのだが。
そうは思ったのだが、彼女も仕事なので仕方ない。三善はふむ、と微かに唸ったのち、いつもの『いい子の仮面』を瞬時に被って見せた。
「分かりました。お気遣い大変感謝します」
修道女がその表情を目の当たりにした刹那、微かに頬を赤らめた。それを確認すると、思わず内心ガッツポーズを決めてしまう三善である。自分で言うのもなんだが、『あのひと』の気持ちが今ならよく分かる。人間最も重要なのは中身だろうが、外見は良いに越したことはない。そして多少容姿に恵まれた自信があるならば、それは自分のために使うべきである。なんにせよ、使えるものは使っておいた方が人生少しだけお得なのだ。
その時だ。
「ミヨシ君、うちの修道女をたぶらかしちゃ駄目だよ」
聞き慣れた声がして、三善はふと顔を上げる。
「ああ、ジェイ。お久しぶりです」
迎えとはジェイのことだったらしい。
彼女と最後に会ったのは二年前、箱館へ渡る直前のこと。時々メールやボイスチャットで話してはいたが、こうして顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。最後に会った日から何一つ変わっていない、短い赤毛に灰色の瞳。かつてホセが「彼女の外見は昔から変わらない」と呟いていたことがあったが、本当にその通りだと思う。唯一変わったことと言えば、彼女が珍しく修道女用の聖職衣を身に纏っていることくらいだろうか。普段の彼女は動きやすさ重視のさっぱりとした出で立ちをしているのだ。
「お変わりないようで」
三善の発言に、ジェイはからっと笑って見せた。
「それは嫌味かな。ボクがなかなか外見的に老いを感じさせないから」
「いやいや、そういうことでは」
三善が苦笑しながらそれを否定し、それからちらりと周囲へ目を向ける。ある意味当然のことではあるが、先ほどから妙に目線を感じるのだ。通りすがりの聖職者らがこちらを見つめては何かを小声で話している。正直なところ、この受付へ到着するまでの間もずっとこんな調子だった。少し歩くと道行く人々に声をかけられ、なかなか先に進めないという妙な状況。今はジェイがいるおかげで牽制されているだけなので、彼女が去ればまた足止めされることになるだろう。
「ミヨシ君。一部始終を見ていたけどね、君が北極星に泊まれる訳がないでしょう。あそこはプロフェットの宿舎なんだよ」
「その理屈で言うとおれもプロフェットなんですけど……。まあ、そんな気はしていました」
立ち話はそこそこに、ふたりは場所を変えることにした。
歩きながら、ジェイは三善にこれからのスケジュールを簡単に説明する。
今回『最初の祝福(Urbi et Orbi)』は動画公開することとなっている。現在機材の搬入が進められているとのことだが、エクレシア史上初の試みということもあり、想定よりも少し作業が遅れているそうだ。それが終わり次第、明日のリハーサルが開始される。
「だから少し待っていてほしいんだけど」
ジェイの言葉に、三善は頷いた。
「そういうことでしたら、いくらでも。……あの。準備しているところ、見ていてもいいですか」
いいよ、と彼女は頷いた。
さて、しばらく歩いたところでジェイが足を止めた。ちらりと壁面を見やると、円の中に十字のマークが入った紋章が描かれている。それを見て、三善は納得したように頷いた。
「ここが君の部屋だよ」
大ぶりな鍵をひねり、ジェイが扉を開ける。
室内は掃除がかなり行き届いていた。ベッドがひとつと、小さな机がひとつ。調度品はどれも質が良さそうだが、非常にシンプルだった。
「しばらく誰も使っていなかったけれど、手入れはし続けていたからね。欲しいものがあれば持ってくるよう伝えるけど、なにかある?」
「いいえ。十分です」
三善は部屋の角にキャリー・バッグを置くと、中に入れていた聖職衣をハンガーにかける。
「少ししたら、そちらへ向かいますね」
「分かった」
ジェイが頷き、部屋から出て行った。
ひとりになった三善はしばらく室内の様子を見て回り、特におかしな様子がないことを確認すると、懐から携帯を取り出した。電話帳からとある番号を検索し、携帯を耳に当てる。
数回のコールののち、電話はつながった。
『センセ、到着したんですか?』
相手は橘だった。
三善は外套を脱ぎながら短く返事すると、優しい声色で話を続ける。
「ああ、今着いたところだ。そっちはなにも変わりないか」
『はい。こちらは特に何も』
そうか、と三善は頷き、ベッドの端に腰掛けた。
今回、橘は箱館に残ることを選択したのである。本当は三善と一緒に本部へ行くつもりでいたのだが、いざ本人にその旨を伝えると、橘は少し悩んだ様子でこう返してきた。
――俺は支部に残ります。センセのところにはブラザー・ホセもブラザー・ジョンも行くのでしょう? さすがに支部を空にするのは、ちょっと気が引けます。
そういう言い方をしてはいるが、橘の本音はこうだろう。
今の三善に自分が付いていくと、もしかしたら橘自身の『釈義』について問われることがあるかもしれない。それは三善にとって大きな足枷となる可能性が極めて高い。ならば今回は留守番している方がよい。
その考えはあながち間違いでもなかったので、三善は橘を九条神父の元へ派遣することにした。ちょうど彼は洗礼を受け、侍祭として新たなスタートを切ったところだ。まず神父としての基本的な心構えを九条から教わるのがよいだろう。それに、あそこにはヨハンがいる。万が一なにかあれば、彼ならばそれなりの対処ができるはずだ。そういう考えから、数日九条神父の元に通うよう伝えていた。
「これからリハーサルで席を外すから、電話には出られなくなるけど。何かあれば着信さえ入れてもらえれば折り返しするよ」
『はい。分かりました』
センセ、と橘がその名を呼ぶ。『――うまく、行くといいですね』
「ああ。おれの代わりに祈っておいて」
それじゃあ、と三善は終話する。そのままベッドに携帯を放り、身体を軽く伸ばした。背中が寒さのせいで強張っていたのだろう。少し動かしただけでぼきぼきと嫌な音がする。
一度立ち上がり、今まで着ていたスーツを脱ぐと、代わりに司教用の白い聖職衣に袖を通した。これを着るのも今日までだ。名残惜しいと思いつつ、三善は部屋を出た。
***
大聖堂に到着すると、まだ大掛かりな機材を運び入れている様子が見て取れた。三善は邪魔にならぬようそっと二階へ上がり、席の端へと腰掛ける。
慌ただしい様子の身廊を眺めつつ、三善はぼんやりと考え事をしていた。
――一週間前、橘へ『パンドラの箱』の正体を告げて以降、なんだか橘の様子がおかしいのだ。理由は分からなくもないが、話をしようとすると微妙に目を逸らされるのが少し悲しい。
例えば『あのひと』のようにもっと気遣いができれば結果は違っただろうか。
そう考えてから、「違った」と三善は考え直した。そういえば、『あのひと』が「姫良三善の父親イコール大司教である」と告げた時は隠し事なしの直球を投げてきた。
それはともかく、あんなことを言ってしまえば、橘ならすぐに細かいことを察してしまうに決まっている。彼は言葉にしていない「含み」の部分を理解するのが非常に上手い。頼みごとをする分には大変助かる能力だが、できれば伏せておきたいところまで察してしまうのは少々困る。
――絶対、裏切らないから。あなたのことを。
あの日橘が言った言葉を脳裏で何度も反芻し、それから三善は小さく息をついた。首をもたげた刹那、左耳に付けた銀十字のイヤー・カフが揺れる。
そのとき、背後に気配を感じた。三善はのろのろと赤い瞳を動かすと、その人物の正体を探る。
見たことのない男だった。おそらく三善と比べると頭一つ分は背が高いのではないかと推測される。くすんだ金髪に碧眼。彼は怜悧な表情のままじっと階下の身廊を見つめていたが、三善の視線に気づいたのだろう。鋭い目をゆっくりと彼へと向けた。
「こんなところでなにをしている」
独特のハスキー・ヴォイス。それが彼の鋭い言葉尻をより強烈なものへと仕立て上げている。
三善は咄嗟に『いい子の仮面』を被り、
「お邪魔でしたか。大変申し訳ありません。わたくし、この後のリハーサル待ちをしておりまして……」
「リハーサル?」
彼は一瞬息を飲み、それから短く頷いて見せた。「――大変失礼しました。もしやあなたは」
「ああ、申し遅れました。私、姫良三善と申します」
席を立ち三善が右手を差し出すと、男は滅相もないと言わんばかりに首を横に振る。三善が少し悲しそうな顔をして見せたので、それでようやく握手してくれた。
「私はカナ・アイスラーと申します。お会いできて光栄です」
どこかで聞いたことのある名だ。三善は微かに逡巡し、それからようやく思い出したと言わんばかりに目を見開いた。
「確か衛兵の」
そうだ。確か教皇庁管理の衛兵に唯一プロフェットである男がいた。ヨハネスが任命した十二使徒『小ヤコブ』の名を冠する人物で、その名がカナ・アイスラーだったはずだ。
三善の言葉に、ええ、と彼は頷いて見せる。ならば今三善が握手を求めたのは、彼にとってなかなか難しい選択をさせてしまったのかもしれない。今はまだ「そうではない」けれど、本来衛兵は教皇に忠誠を誓うもの。今の三善のように対等に話をしようとすれば萎縮するに決まっている。
「当日の警備のために、先に配置確認をしていたものですから」
「なるほど。明日はどうぞよろしくお願いします」
三善が優しく微笑んだところで、奥からやって来たジェイが三善へ声をかけた。リハーサルが始まる旨を告げると、三善は頷く。
「それじゃあ、また。あなたに神の祝福が訪れますよう」
身を翻しジェイの後を追う三善の背を、カナはしばらく見つめていた。




