第六章 3
翌日三善が溜まりに溜まった書類整理をしていると、執務室になにやら難しい顔をしたリーナがやってきた。
三善はちらりとその姿を見やり、すぐに書面へ目を落とす。静かに判を捺しながら、
「どうした、リーナ」
と声をかけてみた。
彼女は「ちょっとね」と苦笑しつつ、三善の横まで来て背もたれのない椅子にそっと腰掛けた。彼女がこの場所に座るとき、たいていは三善に対して何か言いたいことがあるのである。それをよく知っている三善は、きりのいいところまで判を捺したところで手を止めた。記入済みの書類を専用のトレーに放り込むとリーナへ目を向ける。
「ああ、サボりか。受けて立とう。お茶でも飲んでいくか? それともホットケーキでも焼く? お前、あれ好きだろ」
「違う。……でも、三善君のホットケーキは食べたいかな」
リーナは照れくさそうに笑った。正直で結構、と三善が席を立とうとしたとき、ぐんと肩帯が引かれた感触があった。――リーナが肩帯を掴んでいる。
うん? と首を傾げた三善に、彼女はおずおずと声をかけた。
「あのね、三善君。今朝言っていたことなんだけど」
「ああ、それのことか」
今朝の礼拝は三善が受け持ったのだが、その終盤、彼は説教のついでと言わんばかりに「午後に各部門長を集めて話をしたい」と切り出したのである。少し大切な話をしたいということだったのだが、三善が何やら思案顔のままで言うものだから、支部の一同が「何か悪い知らせを聞かされるのだろうか」とざわついたのは記憶にも新しい。
ただでさえ、いま本部からホセが出張してきているのだ。この状況を見て何もないと思うほうが難しい。
彼女の問いを耳にし、三善はようやく理解した。つまり、リーナはその件について探りを入れに来たのだろう。
例えば、三善が支部を離れることになる、とか。例えば、支部そのものが廃止になる、とか。彼女が考えそうなことはおおかた想像がつくが、いずれも三善が話したい内容とは合致しない。
ふむ、と三善は小さく呟く。
「大丈夫、それほど悪い話じゃないよ」
「本当?」
「ああ、でも……そうだな。いい話と悪い話がある、くらいに考えてもらえるとありがたいかな。おれとしてはそれほど悪い話だとは思っていないけど、おれ個人の話でなく支部に関わる話でもあるからね。ちょっとみんなの話を聞きたいと思っただけ」
ところで、と三善はリーナに尋ねる。「リーナ、『釈義』の検査を受けた時に何か紙をもらわなかったか。多分、こう……ちょっといい紙にラテン語がみっちり書き連ねてあるやつ」
え、とリーナが惚けた声を上げた。今の話からは想像もできないことを聞かれたからだ。
「あるにはあるけど……それがどうしたの」
「嫌でなければ見せて」
なんだか腑に落ちない、という顔をしつつも、リーナは一旦自室に戻る。数分後、彼女は一通の封筒を持って戻ってきた。
「これのこと?」
「ああ、それだ」
リーナからそれを受け取った三善は、封筒の中から書面を取り出した。確かにびっちりと細かい文字が書かれている。彼はそのまま書面を上から下までじっくりと眺め、それからこのように尋ねた。
「リーナって、ラテン語は読めないんだよな」
「うん、読めない」
「つまりここに書かれていることは読んでいない、と」
なるほどねぇ、と三善は微かに唸った。彼が何を思い悩んでいるのかさっぱり分からず、思わずきょとんとしてしまうリーナである。そのままじっと口を閉ざした三善だが、数拍置いて書面を畳み始めた。丁寧に封筒に入れ直すと、そのまま封筒をリーナへ返却する。
「ありがとう、大体分かった。ちなみにリーナ、お前、守護聖女になってみる気はある?」
沈黙。
「――はっ?」
なにかものすごく変なことを言われた気がする。自分の耳がおかしくなったのかとも思ったが、三善の目は真剣そのものだ。その並々ならぬ気迫に気圧されつつ、リーナはその真意を問う。
「なにそれ、どういうこと?」
「ああ、いや……。悪い、驚かせるつもりはなかったんだけど」
三善はばつが悪そうに言った。
なんでも、守護聖女がひとり、体力的な都合から引退を申し出たのだそうだ。欠員補充のために該当しそうなプロフェットを探したところ、リーナに白羽の矢が立ったという訳だ。
リーナは現在箱館支部所属であるため、上長にあたる三善に彼女の昇格の打診があったのだが、肝心の三善がたまたま入院中だったために確認が遅れたのである。今朝方メーラーを立ち上げた際にその内容に関する問い合わせが入っていることに気が付き、三善は思わず悲鳴を上げてしまった。慌てて本部に確認を入れたところ、その話はまだ有効だと言うので、一度本人と面談を行うということで話をつけた。
――そして現在に至る。
「という訳で、今週のどこかで時間をもらえないか。ちなみに、欠員が出たのは聖ウルスラの枠だ。どうよ」
聖ウルスラはケルンの守護聖人だ。多くの乙女たちを率いたその能力から、女子教育の守護聖人となったと伝えられている。彼女の存在は創作である可能性が高いと言われているが、大聖教における守護聖人の枠からは今のところ外さない方針となっていた。
先ほど三善が見ていた書面は『釈義』の検査結果で、釈義能力者がプロフェットとして自身を登録する際に必須となる書類の一つだ。もしも検査を受けた段階で守護聖人にあたる能力があると判定された場合、現在就任している守護聖人の補欠要員として書面に記載されることとなる。三善が書面を見て唸ったのは、リーナの検査結果に「聖ウルスラの次席として扱う」旨が明記されていたからだった。
「どうよ、って言われても……。今初めて聞いたし、すぐには決められないよ」
「うん、お前の反応を見てなんとなくそう思った。お前の師匠からは聞かされなかったんだな」
「そりゃあもう。全く」
だろうね、と三善は肩を落とした。
「雨ちゃんを見れば分かると思うけど、守護聖人の位はあくまで称号だから、それほど難しいことはしないよ。強いて言うなら、未来のプロフェットを弟子として従えることができるようになるくらいかな……。要するに後輩を育てる権限が与えられると思ってもらえれば。確かリーナはプロフェット養成校出身でなく、守護聖人の付き人をしていたんだよね? ちょうどそんな感じだ」
そこまで言ったところで、三善はリーナの様子を伺うことにした。
普段強気のリーナが珍しくたじろいでいる。三善が至極真面目な口調で言うものだから、余計に戸惑っているようだ。
今の彼女にこれ以上情報を詰め込むのは酷だ。
三善は「まあ、今すぐ決めろなんて言わないから。ちょっと考えてみてよ」と、この話について一旦ここで区切りをつけることとした。
リーナは短く頷き、それからもう一度三善の肩帯を引く。
「どうした」
「……うん」
三善君、とリーナが言った。「ちゃんと考えるから、ホットケーキ焼いてくれる? 焼いてくれたら、割と早く返事できる気がするの」
その言い方があまりに面白かったので、三善は思わず吹き出してしまった。
「それくらいのお願いであれば、いくらでも焼きますとも」
***
三善がホットケーキ製造マシンと化したちょうどその頃、橘は支部の庭先でユズと戯れていた。三善から借用したパソコンとユズを接続し、なにやらエディタでコードを書き込んでいる。
「うまくいかないなぁ」
ぽつりと呟く。
せっかく三善からもらった『A-P』だ。何か面白いことをさせてやりたいと思い、空いた時間を見つけてはちびちびとコードを書き連ねる橘である。今はユズを経由して電話ができれば面白いのではないかと思い、まずはソフトフォンを導入したところだった。
しかしIP電話の仕組みを知らない橘、ここから何をどうしたらよいものか頭を抱えることとなった。
「ああ、もうちょっと面倒でないことからやればよかった……」
そう呟いたとき、ふと橘は自身の周りが陰ったことに気が付いた。顔を上げると、
「ひっ」
思わず悲鳴を上げてしまうくらいには恐ろしい光景があった。
巨漢と言えばその通り。妙に筋肉質のスキンヘッド男が、ベンチの背もたれ越しに橘の端末を覗き込んでいたのだ。全身黒いスーツに身を包んだその男は、鷹の目のように鋭い眼光をぎらりと橘へ向ける。
誰だこの、明らかに堅気でない男は。
橘は恐怖のあまり身動きが取れず、ただぱくぱくと口を動かしている。
「――なあ、これ、何やってんの?」
男はぶっきらぼうな口調でそう言った。「見たところソフトフォンでも作ろうとしているのかな……。今のハードだと、そこまでいい性能は出ないぞ。そういうことをさせたいなら、CTIまで取らせると面白くなる。だから本体の容量を拡張してやって、それとは別にDBを立ててみろ。ああそれと、そこの式違う。そのままだと構文エラーを吐くだけでろくに動かねぇぞ」
え、と橘は手元のディスプレイに目を向ける。どのコードを指して言っているのだろう。矢継ぎ早に専門用語を言われたものだから橘は理解できず、おたおたとしてしまっている。
見るに見かねて、男が橘の隣に座る。貸してみろ、と橘から端末を奪い取ると、さらりとその個所を修正してしまった。橘が書いた箇所は敢えてコメントアウトしておき、比較できるように記載内容のコメントも忘れない――ただ、そのコメントが英語だったので橘はすぐにその内容を理解できなかった――。
「ほら、こんな感じだ。参考にしてみるといい」
「あ、ありがとうございます」
意外と親切な人だ。橘はおずおずと顔を上げ、隣に座った男へ目を向ける。どこかで会ったことがあったろうか、と思う。どうもこのほどよく適当な感じが誰かに似ている気がしたのだ。
一体誰のことだろう、と考えた橘に、男が声をかけた。
「ところで、黒にゃんこ。ここの支部長は今どこにいる?」
「え? センセのことですか?」
なんだか変な呼び方をされた気がするが、気のせいということにしておく。確か三善は溜まった書類整理をすると言っていたはずだ。ならば執務室にいると思うのだが。
その旨を男に伝えると、彼は短く頷いた。
「そうか、ありがとう。よければ案内してくれないか」
「あ、はい。構いませんよ」
コードの御礼もしたかったので、橘はいそいそと荷物をまとめ、男を支部の中へ通した。
執務室まで案内すると、扉が半開きになっていることに気が付く。それに、このバターの甘い匂いはなんだろう。その香りだけで脳が蕩けてしまいそうだ。
「失礼します。センセ、お客様です」
そう言いながら橘が戸を開けると、来客用テーブルの上に何重にも重なったホットケーキが積まれていた。そしてそれを取り囲むように、リーナ、ロン、土岐野がお茶会をしている。イヴとマリアは固形物の摂取ができないため、その横で冷却水を口に流し込んでいた。
一応この時間はまだお勤めの時間のはずだが、一体何をしているのだ、何を。
そのとき、奥の方からフライパン片手に三善が顔を覗かせた。
「追加分焼けるけど、まだ食うの、お前らは」
と言いかけたところで、三善の瞳が橘と、その背後にいる男を見た。
「げっ」
途端に三善の顔が青ざめる。くるりと踵を返すと、そのまま奥に引っ込もうとした。
「おぅい、チビわんこ。師匠に挨拶もなしに逃走するとは何事だ」
腰に響く超低音。
完全逃避のポーズのままぷったりと固まってしまった三善は、それ以降しばらく動こうとしなかった。否、動けないが正しいかもしれない。
ドスの利いた声がゆっくりと近づいてくる。当事者でないはずの橘も、なぜか恐くて動けない。彼にとって出会ったことのない種類の人間であることは確かだ。少なくとも、箱館支部の面々にこんな人物はいない。
「こら、チビわんこ! テメェ人様を呼んでおいて自分は呑気にお料理とか、どれだけ面の皮が厚いんだ!」
「チビわんこ、言うなぁっ!」
ようやく三善がくわっと振り向いて、お怒りモードの表情で吠えた。
「しかも呼んでない! 全く呼んでない! 勝手にやってきておきながら文句垂れるんじゃねぇよ!」
「馬鹿野郎! だから身長が伸びないんだ! それと敬語!」
「伸びたよ! これでも現在進行形でプラス十センチ伸びたっつーの! それに敬語の件はそっちも同じだろ!」
「ほほう、聞けば泣きながらジェームズに電話したらしいじゃない。そんなあなたが随分と偉そうな口を聞きますねぇ。何様だと思っているのでしょう。つーか正直お前がわんわん吠えようが何しようが全く響かねぇ。かわいいなーくらいにしか思わないから諦めろ」
「ああもう……」
三善は左手で頭を抱え、それからのろのろとさも嫌そうな口ぶりで続けた。
「もうお歳を召しているんですから、少しくらい遠慮してください。ブラザー・ジョン」
その名を耳にした橘が反応した。確かその人物は、A-Pプロジェクトでシステム設計をしたという男のはずだ。そして、『十二使徒』の名を冠する優秀なプロフェットでもあるとか。そんな人物が、何故こんなところで三善と口喧嘩しているのだ。
ジョンは首をこきこきと鳴らすと、積まれているホットケーキを一枚つまみあげぺろりと平らげた。結構な大きさだと思ったのだが、彼の前に並べると異様に小さく見えるのだから不思議なものである。
そんな彼の表情は、どこか嬉しそうに見えた。
「あー、やっぱお前のホットケーキは妙に美味いな。ああそれと、一人称は?」
「わたし、もしくはわたくし」
「Good!」
タチバナ、と三善がその名を呼んだ。ユズも同時に反応し、羽根を膨らませてジョンへと視線を送る。
「この方はわたしの師匠です。名前はジョン・アーヴィング。だからあなたは孫弟子ということになりますね。さあ、ご挨拶して。みんなも」
各々がジョンへ挨拶すると、ジョンは少し照れくさそうに片手を振る。
「いいって、いいって。俺は仕事しに来ただけだから」
その言い草に、三善はふむと微かに首を傾げて見せた。
「ああ、やはりそういうことですか。初めホセが説明するのかと思いましたが、あなたの方が適任でしょうね。説得力が違います」
「それと、お前が釈義調査令状を発行しろだなんて無茶振りをするから。ついでに釈義調査もしようかと」
どうせお前はまだ何も説明していないんだろう? とジョンが言うものだから、三善は思わず苦笑してしまった。まったくもってその通り。だからこそ三善は、
「その件は午後に頑張るつもりですよ」
とだけ言うことにした。




