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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第六章 2

 九条神父のもとに帰り、色々あってようやく一息ついたヨハンである。

 ここ数週間は帝都牧師の依頼により三善の監視をしていたため、なかなか勤め先の教会に戻れなかったのだ。一時帰宅くらいはしていたが、そういうときはたいてい洗濯物を片づけたり事務処理をしたりしていたため、九条神父とはすれ違うことが多かった。そういう事情もあり、帰宅してからしばらくは九条神父の雑談に付き合う羽目となった。二十一時を回ったところでようやく気が済んだのか、九条神父による「お開きにしよう。続きは明日」の言葉により解放され、ようやく自室に戻ることができたのだった。

 さて、とヨハンは荷物整理のために鞄を開け、――なんだか漠然と嫌な予感がした。なんだかんだ言ってこの手の予感を外すことはほとんどない。その正体のつかめない感覚についてしばらく考えたのち、ヨハンはおもむろに立ち上がる。壁に身を隠すようにしてそっと窓辺へ近づくと、悟られないように外を覗き見た。

 ――司祭館の入り口に誰かいる。背はそれほど高くない。黒く裾の長い外套を身に纏う男が、チャイムを鳴らしていた。

 そのシルエットには見覚えがあった。まさか、と思う。

 その時、九条が応対のために玄関の戸を開けた。室内の明かりにより暗闇が照らされ、来客の姿がぼうっと浮かび上がる。

「ホセっ……!」

 名を呼びかけて、ヨハンは慌てて口をつぐむ。

 待て、何故あの男が箱館にいる。――否、状況だけを考えれば別にいてもおかしくはない。三善が怪我をしたということを聞きつければ、あの男は必ず来る。しかし、なぜ箱館支部ではなくこんな場所にいるのだろう。確かに九条は三善と懇意にしているようだが、こんな夜更けにわざわざやってくる理由などない。

 強いて言うなら、彼が「この場所に正体不明の神父がいる」と聞きつけたならば可能性はあるかもしれない。

 ヨハンはすぐに外套を一枚羽織り、玄関とは反対側の窓を音がしないようそっと開けた。窓の桟に足をかけ、地上を覗き込む。眼前には柔らかい芝生が広がっていた。多少着地に失敗したところで、ひどい怪我はしないだろう。これでも一応――既にその機構は破損したが――プロフェットだった身体だ。人並み以上に頑丈にできているつもりである。

 ヨハンは躊躇いなく窓から飛び降り、軽やかに着地した。もっとひどい音がするかと思ったが、意外とそうでもない。

 耳を澄ませると、玄関先から微かに声が聞こえた。

「……ああ、ブラザー・ヨハンの知り合いでしたか。彼なら今、上にいますよ」

 呼びましょうか? と九条が穏やかな口調で尋ねた。それに対しホセはいえ、とさも申し訳なさそうな声を上げている。

「時間も時間ですし、明日出直すことにします。夜分遅くにすみませんでした。あまりに驚いたものですから」

 逃げる隙が欲しいので、むしろ上がって行って欲しいと願うヨハンだった。

 しかし、九条は予想に反して「そうですか」とホセの言い分を受け入れてしまっている。つまり、時間稼ぎをして逃げるのはほぼ不可能という訳だ。さて、どうするかと思考を巡らせつつ、ヨハンはのろのろと立ち上がる。

 反対側から回るか? しかしこの司祭館、玄関を中心にシンメトリにできている。どちらから回ろうともあの男に遭遇することには変わりない。ならばこのまま直進し、裏手の坂道に出るのがよいだろう。多少高さのある壁を飛び降りることになるが、二階の窓から飛び降りることに比べれば大したことない。

 ヨハンが足を動かしたとき、ちょうど玄関の戸が閉まった。

「……そこにいるのは分かっています」

 ホセの声がやけにはっきりと聞こえる。「こういうことがあると、あなた、絶対外に出て身を隠そうとしますからね。少しは学習なさい」

 身も蓋もないことを言われた。というより、詰まるところヨハンが窓から抜け出そうとすることを見込んでわざわざ正面からやってきたということだろう。

 ――謀られた。

 ヨハンは思わず頭を抱えそうになった。さくさくと芝生を踏む音が近づいてくる。代われ、と胸の内で呟くも、同居人(・・・)からは拒否された。自分の不始末くらい自分でどうにかしろということらしい。全くもって使えない同居人である。

 仕方ない。いずれ知られることだった。

 腹を括り、ヨハンは振り返る。

 芝生を踏む音が止んだ。

 そこにはホセがいた。彼ははっと息を飲み、それから微かに表情を崩して見せる。まるで動揺していることを悟られまいとしているかのように、その表情からは正確な感情が読み取れなかった。

「あなた、一体どういう手品を使ったんですか」

 ヨハンはそっと目線を逸らし、かけていた銀縁の眼鏡を外した。それから自分でも驚くほど穏やかな声色でそっと声をかける。

「……場所、変えようか」


***


 近くの自販機で温かい缶コーヒーを二本買い、ホセはそのうちの一本をヨハンに渡した。ブラックコーヒーの厳ついパッケージ。かつての自分が好んだもののひとつだ。

 よく覚えているな、と思っていたら、

「研究室時代、よく私に淹れさせていたでしょう」

 と聞いたことのあるフレーズをホセは躊躇いなく言うのだ。まるで思考を読まれたかのようだった。

 二人はそのまま近くの公園へ向かい、ベンチに腰掛ける。さすがに時間が時間だけあり、周囲には人っ子一人見当たらない。ただ街灯の明かりだけが二人を照らし出し、ぼうっと暗い影を落としていた。

「――誰から聞いた?」

 ヨハンが短く尋ねると、ホセは苦笑交じりに答える。

「ヒメ君の番犬から。居場所については、ヒメ君本人から」

 なるほど、とヨハンは頷いた。確かに、現在の三善の番犬・もとい秘書には己の正体を知られている。その直後に三善が入院したのでそれどころではなかったのかもしれないが、改めて考えると妙な話(・・・)だった。

「で……、状況が全く読めないのですが、何だかものすごくややこしいことになっていることは分かりました。あなた、今異端審問官に目をつけられていますよ」

「そりゃあ、そうだろうな」

 ヨハンが妙だと感じていることについてホセが明言化したので、ヨハンは全面的に同意する。彼が優秀な異端審問官だということは知っていたが、それにしては放置されすぎている。あのとき自分が“七つの大罪”と切れない縁を結んでしまったことは確実に知られているのだから、もっと早くに行動を起こされてもおかしくなかったのだ。

 もっと妙なのは、その本人ではなく、ホセが動き出したことだ。確かにホセは教皇庁特務機関に片足突っ込んだ生活を送っているのだが、異端審問官の動向に直接手出しをするようなことはなかったはずである。

 考えれば考えるほど、今の状況は妙だった。

 ヨハンは缶コーヒーのプルタブを引き、一口だけ口に含んだ。

「お前はどこまで知っている?」

「……、多分私は何も知りません」

「だろうな」

 そうでなければ三善のもとに土岐野橘を送るなんて真似をすることなどなかったろう。だからこそ先日本音が漏れて「あのバカ」と口に出してしまったのだが、いまさらだ。

「いいよ、お前はそのままで。難しいことは俺とヒメがやるから」

「それはどういう意味ですか」

「気づいているんだろ? 本当は」

 ぴしゃりとヨハンが厳しい口調で言い放つ。「俺が誰に身体を売ったか」

 沈黙だった。

 答えられないのか、はたまた本当に分からないのか。――否。おそらく、ただ単に口にしたくないだけだ。その証拠に、ホセの表情には微かな苛立ちが見え隠れしている。

 ヨハンは困ったように首筋を掻き、それからゆっくりと諭すように言った。

「安心しろ。俺はそろそろ箱館を去るつもりだ。この街に来たのは橘君を保護するためだったが、条件が揃った今の状況ならどうにかなるだろ。異端審問官に目をつけられた以上、俺はもうこの街にはいられない。三善の迷惑になることだけは、したくないし」

「……ええ、そうでしょう。今の中途半端なあなたの立ち位置では、教皇の名に傷がつきます。はっきり言ってあなたはヒメ君の障害でしかありません」

 ホセのその言い草に、ヨハンは思わず苦笑した。わざわざそれを忠告しに来たと言うのだろうか。そんな分かりきったことを言うためだけに。

 いろいろと気になるところはあるが、ヨハンはそれらすべてに目を背けることにした。漠然と感じているホセに対する違和感も、これ以上は深追いしないでおく。どのみち今生で彼に会うのはこれが最後だ。結論が同じなら今どうこうする理由はない。

 ところが、ホセはその後に思案顔でこのように言い放った。

「しかし、あなたが今箱館を離れると、ヒメ君のパフォーマンスが半分以下になる。それは避けたい」

 じゃあどうするつもりなんだ、とヨハンは声を上げる。

「一度死んだ男について、やっぱり生きていました、なんて言うのか? 莫迦かお前は。大体、身元不明の神父があいつの近くにいる時点で周りは不審がるに決まっている。俺は今、人として最低限のレベルにすら達していないんだ」

 だからここで手放してほしかった。

 昨夜三善に言われた言葉が脳裏をよぎる。迎えに来たと言わせて欲しい、と。それが彼にとってどんなに残酷な言葉なのか、誰にも理解されることはないだろう。

 目が覚めたら何年も時間が経過していて、自分自身は死んだことになっていた。日本に戻る前にフランスへ行き、自分のために建てられた墓標を眺めてきた。まさか自分の墓を客観的に見つめる日が来るとは思ってもみなかった。

 もう元の状態には決して戻れない。そう思うほかなかった。

 お願いだから、これ以上は放っておいてほしかった。もうやれることはすべてやったつもりだ。ならばもう、自分が彼に対してしてやれることなどない。かえって邪魔になるだけだ。

 そんな言葉が口を突こうとして――結局、それらが声に出ることはなかった。

 ヨハンが気まずそうに目線を逸らしたところで、ホセはゆっくりと瞬きをして見せる。彼は思案顔のまま、のろのろと口を開いた。

「……ああ、そうか」

 それは苦渋の決断をしたときの反応ととてもよく似ている。ヨハンは彼のこの仕草を一度だけ見たことがあった。

 八年前、三善の後見人になるために帰化することを選択したとき。確かあのときも、この男はこんな風に少し悲し気な顔をしていた。

「あなたの身元、ですか。それなりの権威がある人物が身元を保証する……。なるほど、これはなかなかに合理的かもしれない」

 ちょっとあなた、とホセが声を上げた。

「私の養子になりなさい」

「……は?」

 間の抜けた声をヨハンが上げた。なにかとてつもなく変なことを言われたのだが、気のせいだったろうか。

 しかしホセは真顔のまま、冷静な口調で話し続ける。

「日本の養子縁組の制度はなかなかうまく出来ていまして、一定の要件を満たせば成人の養子縁組はそれほど難しくありません。私は既にヒメ君の後見人になるために帰化していますし、大して問題はありません。あなたの要件の方が厳しい気もしますが、まあなんとかなるでしょう。というか、なんとかします」

「あんたは大真面目になにを言っているんだ。動物を拾って育てるのとは訳が違うんだぞ」

「あなた、なにか勘違いしていませんか? 私の発言の意図はこうです。『あなたがエクレシアに対して、姫良三善に対して妙なことをしないか見張る。そのために、法的拘束力をもってあなたの首に鎖をつないでおく』。こうすれば、かの異端審問官も納得するでしょう」

 一番厄介だと思っていたあの番犬すらも言いくるめることができる。それは少なからず魅力ではあった。

 だが。

「なんでお前がそこまでするんだ。俺なんか放っておけば済む話だろ」

「あなたは知らないでしょう」

 ホセが抑揚のない口調で返す。「五年前の飛行機事故のあと、ヒメ君が心を壊して未遂(・・)を繰り返したこと。なんとか持ち直したと思ったら、今までの自分を捨ててあなたの真似をし始めたこと。その影響で、あの子は今も投薬治療を続けています。あなたになにが分かりますか。私たちが何よりも大切にしていたあの子が、私の目の前で『自分の存在は不要だ』と言うんですよ。自己の在り方そのすべてを否定して感情を丸ごと抉られたあの子の気持ちが、あなたに、分かりますか。ねえ、分かりますか。分からないでしょう」

 言葉を失ったヨハンの胸倉を、突然ホセが掴んだ。怒るでもなく、泣くでもなく、その表情には一切の感情が残っていなかった。無表情が仮面のようにこびりつき、胸の内に溜まる思いすらもすべて覆い隠している。

「私は大聖教の神父ですが、その前にあの子の良き父でありたい。たとえあなたが相手だとしても、――あなたには決して敵わないと分かっていたとしても、あの子をこれ以上悲しませる真似をするならば容赦はしません」

「ホセ――」

「何度でも言います。あの子が今後心穏やかに過ごせるのなら、私はいくらでも悪魔に身体を売り渡しましょう。あなた、聞けばもうその身体は地に堕ちているとか。そんなことをしでかしたのなら、私と共犯になるくらい容易いはず。もうあなたに拒否権などない。いいですか、私とあなたは、共犯です」

 そしてホセは乾いた笑みをこぼすのだ。

「こちらへ来なさい、ケファ・ストルメント。『我々がどこから来て、何者で、そしてどこへ行くのか』――そんなこと、決まっているでしょう。あなたが帰るところも、行くところもひとつだけだ」

 ヨハンはそのまま凍りついたように動かなくなった。のろのろと目線を逸らすと、吐き捨てるように言う。

「相変わらず強引だな。そして卑怯だ」

「なんとでも言えばいい。こちとら内部の守りに徹するのに忙しいんです。ただでさえ、あの子の周りは敵が多い」

 ホセがヨハンの胸倉から手を離す。

「……それから、もう一人のあなた(・・・)に。やり方は気に入りませんが、彼を救ってくれてありがとう。大変感謝しています」

 その言葉を耳にするや否や、ヨハンは長く息をついた。この瞬間、彼は全てを諦めた。どうせ何を言ってもこの男は聞く耳を持たないのだ。――昔から変わらないその態度に、今回ばかりは救われた心地でいる。

「それで本当にうまくいくんだろうな」

 ヨハンの問いに、ホセは「多分」と短く返した。

「というか、ごり押しします。申請さえ通ればこっちのものです。ヒメ君の前例もありますし、まあいけるでしょう」

「お前のごり押しは何故か通るからな……才能だと思うよ、それ」

 そう言いながら、ヨハンは冷えた缶コーヒーを全て胃に流し込む。少し鉄くさい味がした。ゴミ箱に缶を放り込んだ際の甲高い音を聞きながら宙を仰ぐと、今日は風が強いからだろうか、雲の流れがいつもより早く感じられる。

「『Je ne peux pas vivre sans toi.』」

 再び呟いたその言葉に、ホセが怪訝そうに首を傾げて見せた。

「あの日俺はそう言ったけど、少し違う気がしてきた」

「そうですね、」

 ホセは言う。「今ならこう言うでしょう。『Tu ne t'éloigne pas de moi. et moi,je m'éloigne pas de toi ,non plus.』。まあ、こんなところです」

「共犯なら共犯らしく、堕ちるところまで行くか」

「ええ。こんなひどい話、到底ヒメ君には聞かせられないですけどね」

 そう言って、ホセは冷えた缶コーヒーのプルタブを引いた。

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