第六章 1
その後サルヴェ・レジナを終えた聖職者たちがぞろぞろと移動を始め、彼らに所在を特定された三善は例によってもみくちゃにされる事態に陥った。毎度のことながら、これはなかなかにしんどい。三善が何か文句を言っていたが、それらの言葉はすぐに無視されてしまった。
そんな彼の姿を遠目に眺めつつ楽しそうに微笑んでいたホセは、肩を叩かれる感触に気が付きおもむろに首を傾けた。
肩を叩いたのはロンだった。彼は緑の瞳をホセへ向けると、他の聖職者に悟られぬようそっと囁いた。
「司教。ちょっとよろしいですか」
「ええ。一度外に出ましょうか、ここは騒がしいですし」
ホセはマリアに席を外す旨を伝えると、ロンと共に外へ出た。
既に日は落ちてしまい、辺りは漆黒の闇に包まれている。支部の周りを照らす橙色のランプが夜闇にきらめいて、幻想的な光景を生み出していた。
建物の前に並べてある木製ベンチに二人は腰掛ける。室内の喧騒は戸を閉めているというのにここまで聞こえてくる。近くに一般住宅がないからこそまだ許せるが、一応慎ましい生活を行っているはずの教会がここまで騒がしいとは。思わず呆れてしまうホセだった。
そして何やら神妙な面持ちでいるロンに対し、ホセは穏やかな口調で声をかける。
「あの姿は何度見ても愉快ですね。あの子、なんでいつも野郎に揉まれるんでしょう」
「あー、それは自業自得というやつですね。やっと退院したかと思ったら今度は本州に行くとか言い出すし」
「ああ……もうちょっと落ち着くように言っておきますね」
さて、とホセはロンへ向き直る。
「改めてお久しぶりです。二年ぶりでしょうか。ブラザー・ロン」
「ええ。ブラザー・ミヨシが発熱で倒れて以来です」
「あなたの報告書は毎月拝見させていただいております。申し訳ありません、うちの子ははっきり言って問題児なので、心労が絶えないでしょうに」
ホセが言う報告書とは、ロンが毎月本部へ送付している異端審問に関する書面を指す。ホセは教皇庁特務機関――すなわち、検邪聖省の人事も担当しているため、その報告書の存在ももちろん知っていた。
「ええ。しばしばやんちゃがすぎるので何かと心配ではありますが――」
それはともかく、とロンが言う。「ブラザー・ミヨシの五年前について伺いたいことがありまして」
「なんでしょう?」
ホセはとぼけた様子で首を傾げている。五年前、という単語を耳にし微かに眉をひそめたようにも見えたが、すぐに元の表情へと戻る。少なくとも、この男にとっても五年前という単語は重要な分岐点のひとつだったことは確かだ。
「ブラザー・ミヨシの教育担当であったケファ・ストルメントという神父についてです。ブラザー・ホセが知る限りで構わないのですが、その……、彼は本当に大聖教の神父でしたか」
ぴくん、とホセが肩を震わせた。
「それは、どういう意味でしょうか。彼は確かに大聖教の洗礼を受けた神父ですよ。間違えるはずがありません」
「私には、どうしても、分からないことがあるのです」
ロンは言う。「彼はどうにも、大聖教の教えに背く行為をしているように見受けられます」
「うん……? お待ちなさい。私にはあなたの言っていることの意味が分かりません。あの子――いや、彼は既に殉教しています。いまさら遡及してどうこうする理由はないのではありませんか」
「違うのです」
ロンは頭を振った。「彼は生きています」
は、とホセは息を飲んだ。
一体何を言っているのだろう、彼は。しかしながら、このロンという神父は性格上そんな洒落にならない嘘をつくはずがなかった。そもそも理由がない。彼はいつでも真実を見抜こうとしていたし、それ故に異端審問官としての信頼も厚い。
そこまで考えて、ホセはようやく理解した。今、彼の発言に対して己はひどく心を乱されているのだ。それを自覚した刹那、すっと胸の内が冷えていくのを感じた。
「あの男は今も尚生きていて、……うちの司教をひどく迷わせている。今のブラザー・ミヨシは少しだけ落ち着いていますが、少し前まで例の病気が悪化していたのは確かです」
電話をしたときはそう感じなかったが、見えないところで三善の精神状態はかなり落ち込んでいらことは彼の様子から見て取れた。
ホセは微かに唸りつつ、ロンの続きの言葉を仰いだ。
「結論から言います。理由は分かりませんが、彼は“七つの大罪”に対し身体を売ったものと思われます」
「……」
「彼は今、“七つの大罪”とひとつの身体を共有し合っている。通常あり得ないことですが、そういう風にしか見えない」
司教、とロンは呟いた。「私は一体、どうすべきでしょう。どうしたら……」
「そう、ですね」
ホセはアイボリーの目をきゅっと細め、暫し口を閉ざしたまま逡巡する。そして、ややあってひとつの結論を導き出した。
「ブラザー・ロン。その件、私に任せてくれませんか」
あなたには荷が重いでしょう、と付け足し、ホセはロンへ向き直る。ロンが呆けた顔でホセを仰いだ。今にも泣きそうな顔である。ここに至るまでの間、彼は相当悩んだに違いない。それをホセはひどく憐れんだ。
「さぞ苦しい思いをしたのでしょう。教えてくれてありがとうございます。あとは私がなんとかします、だから大丈夫」
ホセのはっきりとした物言いに、ロンは少しだけ安心したのだろう。ほっと肩をなで下ろし、それから小さく頷いて見せた。
「――私は、異端審問官失格かもしれません。今も悩んでいるのです。いつもの調子なら容赦なく異端審問にかけることができるのに。とりわけ司教の前ではそれができなくなるのです。感情など、捨ててしまいたい。こんなにも苦しい思いをする必要があるのなら」
「……大丈夫、あなたが気に病む必要はありません」
ホセは言った。「ブラザー・ロン。それだけうちの子を大切にしてくださっているのですね。大変感謝しています」
だから、とホセは言う。
「少し、ブラザー・ミヨシと話してきます」
***
ようやくいろんなものに解放された三善は、ふらふらとした足取りで自室に戻った。あまりに疲れすぎて全てがどうでもよくなってしまった。今まで着ていたスーツをベッドの上に放ると、まずはシャワールームに入る。
ホセから渡されたインタリオリングは自室のデスクに置いてきた。まさかとは思っていたが、それが現実となると途端に嫌気が差すのもまた事実だ。確かに大司教に会って諸々の権能を引き継いだ訳だから、名実ともに「そうなる」のは大変都合がいいのだが。だが、しかし。
三善はシャワーの湯を頭からかぶり、ひたすらに靄がかる思考をまとめて洗い流そうとした。
「――ああ、名前。考えなきゃ」
自分の名前は姫良三善。しかし今後教皇の座に就くとなれば、それとは別の教皇名を掲げることとなる。例えば前任のヨハネスがいい例で、彼の名もまた教皇名となる。真名は別にあるのだが、三善は知らなかった。
早く布団に入って眠りたい。そういえば夜の分の薬を飲んでいなかった。それから、それから。
他にもやりたいことは山のようにあったが、三善はとりあえず頭と体を洗い、さっさとシャワー室から出ることにした。棚からタオルを出すと、クローゼットから寝巻を出すのを忘れていたことに気が付いた。だらしないとは思いつつ、仕方なしに全裸で部屋に戻ることにする。
その時だった。
「やあ」
「ああ、はいはい。お疲れさん」
かなり自然に挨拶されたので一瞬スルーしそうになったが、何故か視界の片隅にホセがいた気がする。三善は思わず二度見すると、ベッドの端にホセが座っていた。先ほど投げ出したスーツはハンガーにかけられている。
「ぎゃっ!」
見間違いではなかった。本物だ。
「ちょっと、せめて下着くらい履いてください」
「なんでこんなところにいるんだ、つーか勝手に入ってくるな!」
「せっかくの親子水入らずじゃないですかー、やだー」
「うるさいよ。どうせお前のことだ、なにか企んでるんだろ」
ぶつぶつと文句を言いながらクローゼットから下着を取り出し足を通したところで、三善の視界が急に陰ったことに気が付いた。なんだかものすごく嫌な予感がする。とりあえず履きかけのパンツを腰まで引き上げたところで、のろのろと肩越しに相手の気配を探る。
――時すでに遅し。背後からホセにより壁に追いやられたと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「ええ、企んでいると言えば、その通りですけど」
ホセの目は笑っていなかった。
「……、なにが目的だ。クソ親父」
「あなた、私に隠し事をしているでしょう。全部吐きなさい、今すぐ」
そんなことを言われてもまったく身に覚えがない。三善は「はぁ?」と声を上げ、すぐに反論した。
「隠し事なんかしていないけど」
「あら、そうですか? じゃあちょっと失礼しますね」
あ、と思ったのもつかの間、三善の左腕が背面へ引かれ、同時に捻りを加えられた。突然のハンマーロックに、三善は思わず悲鳴を上げた。
「痛っ、痛いって!」
「痛くしていますから当然です」
このときになって、ようやく三善はホセが何か怒っているということに気が付いた。一体どれのことだ。多少のやんちゃはしているけれど、わざわざホセに怒られるようなことはしていないつもりだ。強いて言うなら今年の本部総会の出欠確認に対して返事をしていないくらいか。
三善が考え事を始めたのに気が付いて、ホセは鋭い声を投げかける。
「考えている余裕がありそうですね。じゃあもうちょっと捻ります」
「がっ……!」
「質問を変えましょう。どうやらあなたを誑かそうとしている駄目な大人がいるみたいですね。それは今どこにいますか」
その言い草に三善ははっとした。どこから聞きつけたのか知らないが、おそらくそれはヨハンのことだ。ならば彼が拷問紛いのことをする理由も頷ける。だが、今彼のことを伝えることは避けるべきだ。ホセは変に察しがいいから、どうせろくなことにならないのだ。
三善は頑として口を割らない方針で行こうとして、
「ハンマーロックを我慢すると危険なので、できればこれ以上続けたくないのですが。一応、あなたは怪我人ですし」
とぼやくホセに更なる負荷をかけられた。これ以上は脱臼する。三善は短く悲鳴を上げ、
「っ、分かった、分かったから!」
「うーん、答えになっていませんね。私の質問は『どこにいるか』、です」
「っ、九条! 九条神父、のっ、とこにい、る!」
その瞬間、ようやく体の拘束が解かれた。ぐったりとした様子で壁にもたれたたる三善の耳に、背後から愉し気なホセの声が届いた。語尾にハートマークでも付きそうなほどだ。
「早くそう言ってくだされば痛い目に遭わなかったのに。ああそれと、ヒメ君」
ホセはさらに続ける。「次期教皇ともあろう方が、たかがプロレス技で蹂躙されるようじゃあお話になりません。もう少し体術の訓練をされてはいかがでしょう?」
四十路のおっさんに負けた! と三善は心の底から思った。
「くっそ、覚えてろ……!」
「伊達に何百人もの僧兵相手に戦っていたわけじゃありません。あなたとは修羅場の経験回数が違います」
さて、とホセは時計を見やり、用が済んだと言わんばかりに部屋を出て行こうとした。三善はそれを引き止めようとしたが、肩の鈍い痛みに耐えきれずその場にうずくまる。
「待て、こら!」
「待てと言われて待つ莫迦がどこにいるのです」
大丈夫、とホセは短く言う。「決して悪いようにはしませんから」
それが信じられないから言っているのだ。三善が再び口を開きかけたところで、軽やかな足取りでホセは部屋を後にした。




