第五章 6
三善はぼんやりと車窓から流れる景色を眺めていた。
彼らは最後の乗り継ぎを終え、あとは箱館駅に到着するのを待つだけの状態となっていた。規則正しい揺れに身を委ねつつ、三善はペットボトルの緑茶を口に含む。
長距離の移動に疲れたのだろう。隣の席に座る橘が三善の左肩にもたれかかり熟睡していた。ヨハンが目線で起こした方がいいかと尋ねてきたので、三善はジェスチャーでそれを断った。別にこれくらいの重さであれば気にすることもない。
そうだ。こんな些細なことであればいくらでも。思った以上に、己が彼に対してできることは少ないのだ。
三善はちらりと橘の寝顔を盗み見て、昨日の彼とのやりとりを思い返した。
橘には事前に軽い事情説明をしておいたのだが、それでもやはり置いてきぼりになったのは否めなかった。それについてフォローしておこうと思ったのだが、逆に橘はこのように返してきた。
――センセ。とりあえず、何か食べましょう。
夕食は既に済ませたあとだったので特に食べる必要はなかったのだが、橘の並々ならぬ気迫に負け、三善はもう一食腹に押し込むことになったのである。
どうしてこんなことに、と思いつつ御煮しめを口に運ぶ三善に、ぽつりと橘は呟いた。
――センセ。俺は、一体何者なんですか。
はっと目を剥いたのもつかの間、畳みかけるように橘は言う。
――俺はセンセの近くにいてはいけないのですか。
その問いに、三善はなぜ橘がわざわざ食事の場を設けようとしたのかをようやく理解した。これは単純に、互いが無意識のうちに抱えているストレスを少しでも軽減させようとした結果だ。橘らしいと言えばその通りである。
三善はゆっくりと箸を置き、それから首を横に振った。
――そんなことはない。
――それなら、どうしてヨハンさんだけじゃなく大司教まで俺をセンセから遠ざけようとしているのです?
何も言い返せなかった。
確かにそれはこちらの落ち度でしかない。そもそも事の発端となったホセの委任状ですらかなり曖昧なことしか書かれていない。そんな状態で箱館まで送り出されたのだ。むしろ橘が今まで何も不思議に思わなかったことのほうがおかしいに決まっている。
とうとう三善は腹を括った。
――分かった。タチバナ、携帯貸して。
――え? あ、はい。
橘の携帯を借りると、三善はぽちぽちととある番号をプッシュした。そして携帯を耳に当てると、『いい子の仮面』を被ったときのような口調でこのように語り始めた。
――もしもし、お疲れ様です。私、北海道道南地区箱館支部担当の姫良三善と申します。夜分遅くに大変申し訳ありませんが、本日ブラザー・ジェームズはご在席でしょうか。
しばらく三善が口を閉ざしたかと思いきや、電話の向こうで取次が完了したのだろう。三善の雰囲気が唐突に変化した。
――ああ、どうも。姫良です。突然ですが、教皇庁特務機関からひとを一名派遣してください。名目は『釈義調査』です。……はい、そうです。釈義調査令状を発行しろと言っています。大至急。
三善はそのままいくつか話をしたのち、終話して携帯を橘へ返却した。今、明らかに目の前の司教は何か変なことをした。
恐る恐る何をしたのかと尋ねる橘に、三善はこのように言い放った。
――なに、ちょっと主席枢機卿にかけあって釈義調査官の派遣を依頼したまでだ。この際はっきりさせようぜ。お前が一体何者か。
まさかあのひとに自ら依頼を投げることになろうとは。
三善は昨日の己の行動を振り返り、思わず頭を抱えそうになった。あの時はそうするのがよいと思ったのだが、今考えると相当莫迦なことをした。別に枢機卿にかけあうだけならロンやホセに声をかければ済む話だったのに、わざわざ向こうに自分の動向を知らせるような真似をするとは、何たる失態だ。
――自分のことだからとてもよく分かる。やはり自分は今、
「動揺、しているんだろうな」
三善はひとりごちて、再び外へ目を向ける。
灰色に濁った空が、冬の到来を告げていた。
***
箱館駅に到着すると、ヨハンは「一度九条神父のもとに帰る」と言い残し、先に移動してしまった。三善と橘は共にタクシーへ乗り込み、揃って箱館支部へと戻る。
しばらくぶりに支部へ戻った三善である。いつもの調子なら中に入ったところで他の神父にもみくちゃにされるので、少々身構えながら戸を開けた。
「……あれ?」
ところが、予想に反して誰もいなかった。よくよく考えてみたら、今の時間はサルヴェ・レジナが執り行われている。ならば今のうちに執務室へ戻るのがよいだろう。挨拶だけなら、別に後で構わない。
橘を先に自室へ戻らせ、三善自身は執務室へ向かった。さすがにイヴくらいはいるだろう。そう思いながら戸を開けるも、中は無人だった。はてと三善は首を傾げる。
なんだか妙ではあるが、まあいいか。
怪訝に思いつつ三善は奥の仕事部屋に荷物を置いた。デスクの上には書類がタワー上に積みあがっていた。見たくない光景ではあるが、かなり長期間入院していたのだから仕方ない。むしろ今までよく苦情が来なかったものだと感心してしまうほどである。
三善は着ていたジャケットの上着を脱ぎつつ、タワーの一番上にある書類へ目を落とした。
その時だった。
控えめに仕事部屋の戸を叩く音が聞こえた。のろのろと顔を上げると、戸は一方的に開けられた。
三善は執務室に突然入りこんできた『人物』を目の当たりにし、思わず目を剥いてしまっていた。
「なっ……!」
何でここに! という叫びを遮り、その『人物』は彼の前で微笑んだ。
「久しぶり、三善君」
かつて肩まであった黒髪は腰辺りまで伸び、同色の修道服がとてもよく似合っている。首に下げた銀十字が瞬いて、それがやたら眩しく思えてしまった。
「あっ、雨ちゃん……?」
そう、彼女は土岐野雨だ。土岐野橘の実姉にして、かなり貴重な『釈義』を持つプロフェット。彼女はフランスで修業していたはずなのだが、どうして今ここにいるのだろう。しかも本部ではなく箱館に。
何が起こったのか分からず、三善はぽかんと口を開け放ったまま、それ以上の言葉を紡げずにいた。
「『おかえり』も言ってくれないのね。ひどーい」
その様子にすっかり呆れ、肩をすくめながら彼女は来客用のソファに腰かけた。三善は慌てて執務室の戸を半開きにし――規則上、神父と修道女が一対一で同じ居室にいるときは原則戸を半開きにする必要がある――、雨の腰掛けたソファまで近づく。
「いや、どうしてここにいるの? 修業は終わったけど正式な配属が決まっていないから、まだしばらくはフランスにいるって言っていただろ」
「三善君が呼んだんでしょ?」
「えっ」
「……なんちゃって。半分は本当で、半分は嘘。橘の様子を見に帰国したら、本部からおつかいを頼まれちゃって」
なんだか不穏な単語が聞こえた気がする。
言葉の真意を確かめる前に、再び扉が開いた。今度は橘である。なんだか微妙な顔をしながら執務室に入ったのだが、部屋にいた雨に気づくと「ねっ、姉ちゃん!」と驚愕した声を上げている。
「まさか、なんで!」
目をひんむいている橘をよそに、当の雨は随分軽いノリで「久しぶりー」と微笑んでいる。橘の様子を見に、とは言いつつも、実際のところは彼には何も言わずにやってきたのだということが分かった。
「タチバナ。どうした、用があったんだろ」
そのまま入口に立たれていても邪魔なだけなので、助け船のつもりで要件を尋ねてみる。それでようやく橘は我に返り、三善へ向き直った。
「来客です。それも、センセに面会希望ということで――」
「通して」
「では」
執務室の戸を橘が開け放つと、
「教皇!」
続いて現れた少女が呆けている三善に飛びついた。それを支えきれずに、三善は彼女もろと後ろに倒れ込む。まだ治りかけの腹部に衝撃を受け、声にならない声を上げてしまった。
三善の上で赤い瞳を爛々と輝かせている少女は、昔と変わらずに――否、その楽しそうな表情だけは変わったが――三善を『教皇』と呼ぶ。まだ就任していないのに、だ。この少女は年々人間に近づいてゆく。そして、その正体もよく知っている。
「ま、マリア……頼む、痛いからどいてくれ」
ということは、『彼』もいるはずだ。
そう思ったら、突然辺りが陰った。宙を仰ぐと、案の定『彼』がぐったりしている三善を見下ろしていた。その独特のアイボリーの瞳で。
「大分お疲れのようですね、司教」
久しぶりに見た彼の表情がなんだかとても懐かしくて、ほんの少しだけ、胸がきゅうっと締め付けられるような気持ちになった。
三善は苦笑しながらも彼の名を呼ぶ。
「そちらこそ。ブラザー・ホセ」
抱きついてきたマリアごと体を起こすと、視界の片隅で土岐野姉弟が抱き合っているのに気が付いた。――否、橘が雨に泣きついていた。そりゃあそうだ、件の御陵市の事件以来、彼は慣れない環境の中じっと頑張り続けていたのだ。雨に会ったことで、今まで我慢していたものが堰を切ったように溢れ出て止められなくなったのだろう。雨は雨で、ずっと心配していた弟が元気でいたことをとても嬉しく思っていたようで、泣きじゃくる彼の頭を撫でながら、
「よく頑張ったね」
と声をかけ続けていた。
三善はしばらくそれを見つめていたのだが、ややあってホセへと向き直る。
「ところで、あんたはこんなところで何をしているんだ。本部に行ってからこちらに来るって言っていただろ」
その問いに、ホセがすぐに切り返した。
「釈義調査官を派遣しろと申請を出したのはあなたでしょう」
「確かに出したけど、別にあんたを呼んだつもりは」
「そうでしたか? ブラザー・ジェームズが『お前のところの息子が泣きながら電話してきた』と言うので、予定を早めてきたのですけれど」
あいつか!
途端に苛立ちにも似たどろどろする気持ちが湧きあがり始めた。三善が露骨に不機嫌そうな顔をしたので、ホセは苦笑しつつも言う。
「――というのは半分冗談です。先日『聖都』に行ってきたことと関係があるのですが、ほら、これを取りに行っていたんです。大きい土産とはこれのことですよ」
ホセは手にしていた鞄から何やら小さな硝子の箱を取り出し、呆けている三善の左手に置いた。赤い瞳が、その無色の硝子の箱を見つめる。中に何か金色に輝くものが透けて見える。
「これは?」
「教皇の証である『漁夫の指輪』です」
はっとして三善はホセを仰ぐ。彼が言っていることの真意が全くと言っていいほど掴めなかった。なぜならこの指輪が贈られるということは、間違いなくあのことを意味するのだ。
「どうしてこんなものを」
そこまで言いかけると、ホセが彼の唇に指を当て、黙るように念押しした。
「色々と訳ありでして。私はこれを今一度使ってもいいかどうかを確認しに行っていたのです」
使うって、と三善が口ごもる。それが意味することと言えば、一つしかない。
「ジェームズも今回ばかりは仕方がないということで承認してくださったようです。これがあれば、あなたが『十二使徒』を駆ることができる。その任命権をあなたに移譲すると言っているんですよ。これが今あなたに提示できる最大にして最強の秘密兵器です」
「……卑怯だな、あんたら」
いつか言ったことと同じ発言を、三善は繰り返す。
「卑怯で結構。やってくれますね」
三善は無言で、そのままじっとしていた。その無言をどうやら肯定と取ったらしいホセは、くすくすと笑って見せた。




