八月七日 (3)
ジョンの正式な所属は、かの「マリア」を製作したことで知られる科学研A-P部門である。
普段は個人の研究に勤しんだり、プロフェット部門の手伝いとして釈義検査装置の制御・調整などをしたりしているのだそうだ。つまり、ジョンは教会で説教するのを本職とせず――勿論そのように指示されればその通りにするけれど――、事実上技術職員として勤務しているのだった。
「こう見えてヴァチカン大卒なんですよ」
「ヴァチカン……」
それを耳にした時、三善の脳裏に『あのひと』の姿がぼんやりと蘇る。彼を埋葬した場所はまた別の土地であるが、葬儀自体はヴァチカン支部で行ったからだ。
あの時の残像が脳裏でフラッシュ・バックする。
ちらつく白い色が眩しくて、三善は思わず目を細めた。
白百合の爽やかな残り香が次第に灰に変わる。一本のフィルムを何度も何度も脳内で反復するうち、三善は胸がきゅうっと苦しくなり、それ以上聞いていられないと思った。
「そう。カークランドが原案を精査した『マリア』の思考・行動パターンを制御パルスに置き換え、実際のデータへ加工したのが俺だ。いかに本物に近づけるか――いや、違うな。人間が感情を持ち、行動する所以はなにか。もっと掘り下げれば、人間はなぜ心を持つのか。人はどの段階で人間と認められるのか。そういう研究をするのが俺の仕事。もちろん、その研究は教会の教義に反するラインを選定するためにやっているだけだから、やりすぎると異端審問官に捕まるんだが」
異端審問官ってなんだろう、と思いつつ、三善は自分の知っている限りの知識を引きずりだした。
確かこの類の話は聞いたことがあったはずだ。
昨年の話にはなるが、『マリア』が来日したときにホセから似たようなことを説明されている。ジョンはおそらくそのことを言いたいのではなかろうか。
「ええと。十戒のこと、ですか。偶像崇拝の禁止……?」
その中で該当しそうな単語をたどたどしく口にすると、ジョンはからっとした様子で答えた。
「それだ。なんだ、説明するまでもなかったか」
ホセに聞いたことがある、とだけ三善が言うと、彼も納得してくれたようだ。
「――まあ、どういう形にしろ、『マリア』が自我を持ったのは想定外だった。システムバグみたいなものだ、プログラムを組んだ俺が悪い。だから廃棄されて当然だと思った。でも、」
お前は守ってくれただろ、あの子を。
その言葉に、三善は目を瞠った。
あの時――“嫉妬”の件で、確かに三善はマリアを廃棄しないよう頼み込んでいたし、実力行使にも出た。三善の数ある黒歴史のひとつを、どうやら彼は知っていたらしい。
そんな三善の戸惑いを含む表情に、ジョンは思わず苦笑した。
「『マリア』が廃棄されること自体は、ジェ……、所長から事前に聞かされていたから、それが見送りになったと聞いて俺は不覚にも喜んでしまった。あの子がまだこの場所に存在することを赦してもらえた、そう思った。喜ばないはずがないじゃないか」
そして、後々風の噂で「とある助祭が大司教補佐に対し直接抗議した」ことを耳にしたのだった。
ジョンが真相を確かめるべく本部のデータ・ベースに接続し議事録を確認すると、とある人物による一連の言動が確かに残っていた。
その名は姫良三善。エクレシアが抱えるブラック・ボックスのひとつであり、最年少司教候補生でもある。
「我々は共存できるのではないか。種族を超えて、同じ『被造物』として共に生きる道があるのではないか、って。ちゃんと記録に残っていた。俺の思いを体現した奴がいたって知ったら、嬉しいだろうが。だから拾い上げた。お前が今でもそうしたい、そう在りたいと望むなら、俺に付くことが近道になるだろう。だから人事のカークランドにごり押しした。ま、そういうことだ」
「つまり、勝手な恩義と?」
「そういうこと。身勝手なのは司教の特権だ、よく覚えておくといい」
さて、とジョンは鷹の首に巻かれている赤い首輪の金属部分に触れ、その機能の一切を停止させた。綺麗な丸い瞳に生き生きとした色が完全に消え失せ、鷹はぴくりとも動かなくなる。まるで剥製のようだった。
ジョンの瞳が、動揺する三善の真紅をまっすぐに射抜く。これほどまでに目力が強い人間は、三善の知る中では数少ない。三善は思わず身体をこわばらせ、彼の次の言葉を待つ。
二人の間を、一筋の風が吹き抜けて行った。
まるで、彼らを隔てる壁のように。
その壁が壊れることは、おそらく、ない。
三善が今の状態を望む限り。
それを見越していたジョンは、内心それでもいいと思っていた。その意思が『前任者』と彼を繋ぐ唯一の絆だというならば、否定はできない。
この少年は賢い。だからいずれ気が付くはずなのだ。
その絆はいずれ自身の足枷にしかならないということを。
「ブラザー・ミヨシ。俺から課す独立の条件はひとつだけだ」
それさえできれば、通常五、六年かかる研修期間を短縮してやってもいいと、彼は言った。
「えっ?」
さすがにこれには三善も度肝を抜かれたらしい。赤い大きな瞳がより丸くなり、理解できないといった表情でこちらを見上げていた。
「とある支部のために新しいA-Pを一体作れ。完成し、支部に輸送でき次第お前の研修は終了だ」
***
三善は一旦自室に戻った後、ジョンに連れられ本部科学研エリアへと向かった。
三善の所属はプロフェット部門なので、この場所に入るのは初めてだった。三善は物珍しさから始終落ち着きなくきょろきょろとあたりを見回している。
オイルの匂いや鉄の錆びた匂い、それからグラインダーの回る音など、普段感じることが少ない新しい刺激に満ち溢れていた。嫌というほど通い詰めた医療エリアのやたら静まり返った雰囲気とはまるで異なる。活気がある、とでも言った方がいいだろうか。同じ科学研の括りなのに、ほんの少し部門が変わるとここまで違うのか。三善は思わず感嘆の声を漏らす。
ジョンは三善の浮ついた様子を察知したのだろう。突然振り返ったと思ったら、
「それ、落とすなよ。他の機械に入ったら困るし、何よりお前が一番嫌な思いをするだろ」
彼の左耳にぶら下がるイヤー・カフを指してはっきりと言い放ったのだった。
そのまま作業スペースを通り過ぎ、彼らは奥の会議室へ入った。
ジョンは内線でどこかに連絡を取り始めたので、三善はとりあえずその辺にあった雑巾で椅子やデスクを拭くことにした。
しばらくそうしていると、ジョンが電話を終えて戻ってきた。そして今度は上座へと向かい、唐突に何かがちゃがちゃといじり始めた。
何をしているんだろう、とは思ったが、三善は敢えてそれを聞かなかった。聞いてもおそらく理解できないと判断したためである。
そうしていると、今まで閉め切ったままだった扉が突然軽い音を立てて開いた。
「大分召集が早かったみたいですね、明日になるかと思っていましたが」
聞き慣れた声が耳に入る。
ぱっと顔を上げると、珍しくプロフェット用の聖職衣を着たホセとマリアが揃ってやってきたところだった。マリアは分厚い冊子を両手に抱えており、三善を発見すると彼の前にそれらをどっさりと積み上げた。どうやら三善にそれを読んでほしいらしい。
ジョンは机の影からひょっこりと顔を覗かせ、ああ、と声をあげる。
「お前こそ早いな。せっかく一時間の猶予をくれてやったのに」
「仕事の大部分を全部部下に押し付けてきましたから。重要なものはこの件が終わり次第片付けます。……、ああ、ヒメ君。やはり君は白い色がよく似合いますね」
そしてにこりと笑う。どうして先程「後は任せます」宣言をした彼がここにいるのか甚だ疑問だが、三善は「はあ」と軽く相槌をして見せた。
「おい、ジェイとアンディは?」
「ジェイはさっき昼食をとっていましたから、後々来ると思いますよ。アンドルーはちょっと手が離せないらしく。遅れるみたいです」
「どれくらい」
「振れ幅三十、と言っていましたが」
「三十分前後か。ふん、あいつにしちゃあ早い方か」
あいつの言い回しはとことん面倒だ、と呟きながら、再びジョンは机の影に隠れた。
三善は二人のやり取りを観察し、それからマリアに渡された冊子を一枚めくってみた。一応英語で書かれてはいるけれど、なんだか聞いたこともない話が細かい字で延々と綴られている。よく分からない単語はおそらく専門用語だとは思うが……。
「これが私の『中』」
マリアが小さな声で言った。
「マリアの? うーんと、ということはA-Pの製作マニュアルってところなのかな……?」
この訳の分からない記号や用語は、つまり彼女を形成するための素材なのか。
ふむ、と三善は考え、とりあえず第一篇として書かれていた駆動部分の構造について本人に尋ねてみることにした。すると彼女は一度首を傾げ、無表情のまま脚の関節を指した。
「ここと、ここが動く」
マリアの大雑把さにはいつも驚かされる。しかし、それは彼女自身が仕組みをきちんと知らないからなのだろう。自分でも「どうやって歩くのか」と尋ねられたらきちんと答えられるか分からない。
結局疑問は解決されることがなく、二人の頭の上にはクエスチョン・マークがいくつも浮かび始めた。見かねたホセが質問に答える。
「マリアの場合、普通の二足歩行ロボットと似た構造をしています。人らしい動きになるように、歩行制御の方法は別物にしていますけど」
そして三善が開きかけたマニュアルの該当ページを探し、ここです、と軽く人差し指で紙面を叩いた。
「基本的にロボットというものは節と関節の二つで構成されています。リンク構造と言えば大体の技術者には通じるでしょう。脚は二つ以上の節で構成され――」
「なにそれ呪文?」
「そう言うと思った」
チビわんこ、と向こうから唐突にジョンが呼んだ。
振り向くと、彼は無表情のまま右手で手招きしている。目線は手元のディスプレイに向けたまま、三善に声を投げかけた。
「お前、ちょっと歩いてみな」
「チビわんこじゃない!」
「どうでもいいよ、んなもん。さっさと歩く」
なんか悔しい気がしたが、言われるがままに三善はジョンに向かって歩き出した。
「はい、ストップ」
しばらく歩かせたところで、ジョンは急にその動きを止めさせた。
「歩くっていうのは、そういうこと。今地面についている方の脚……えーと、体重がかかっている方の脚が『軸足』、振り上げている方の脚が『遊脚』。二本の脚を交互に軸足に切り替えて、重心を任意の方向に移動させることが所謂『歩く』という動作の仕組みだ。で、単純に『歩く』と言っても、二種類あるんだ」
そこでジョンは正面のモニターにシミュレーション画像を映した。やたら角ばった人間らしき映像が平面上をぺったんぺったんと歩いている。
「歩いているだろ?」
「うん」
「このとき『重心がどこにあるか』ということがポイントだ。今の絵面だと、路面に対する投影点がどちらかの足の裏にある。この状態を『静歩行』と呼んでいる。静ってのは静的安定のことだ。だからどこで停止しても転倒しない。『静歩行君』のシミュレーションだと、こんな感じ」
ジョンが操作すると、画面上のポリゴン人間は止まったり動いたりを繰り返す。転倒など一度もせず、その動きはかなりスムーズに見える。
「わんこ、今度はそこのコードをわざと踏みながら来い」
今度は足元にだらだらと垂らしたままになっているコードを指して言った。勿論普段はコードなど踏みつけたら怒られるに決まっているが、それは三善の体重の軽さと現在の話の進行の都合上、わざとやらせることにしたらしい。
もう突っ込む気もなくなったらしく、やや渋い顔をしながら三善は再び歩き出す。そして言われた通りにコードを踏み、そして乗り越えてくる。
「そうそう。で、その動作を『静歩行君』でシミュレーションしてみると、こうなる」
今度は画面にでこぼこ道が現れた。ポリゴン人間はそれを乗り越えようとしたが――障害物に脚を乗せた途端、ごろりと転倒してしまった。何度起き上がらせ歩かせても、必ずでこぼこ道にさしかかると転ぶ。
「転んだ」
「この静歩行の問題点は、『床面が常に平面でなければならない』こと。他にも色々制約があって、このやり方はあまり実用的じゃない。だからこの方法でアンドロイドを歩かせるのは難しいと考えていい」
「マリアは普通におれたちみたいに歩いているけど?」
「それは重心の路面に対する投影点が足の裏の外にあるからだ」
きょとんとして三善は思わず首を傾げた。字面は理解できたが、その深層の意味が理解できないと言いたげな表情だ。
「俺たち人間はこっちの、『動歩行』を行っている訳よ。動ってのは、動的安定の動。動的には安定しているけれど、静的には不安定ってこと。だから静歩行とは異なり、いちいち運動量を打ち消してから歩行動作を停止しないと転んじまう」
こんな風に、と今度は別の画面を展開する。こちらもポリゴン人間が歩いているが、先程転倒したでこぼこ道でも対応しているように見えた。ただし、時々ジョンが制御を間違えるらしく、妙な場所で転んでいる。そのたびにジョンはポリゴン人間を起こし、再びぺったんぺったんと歩かせる。
「ま、この『動歩行君』のシミュレーションの通り、制御はかなり難しい。実用的なのはこっちって話だな。『マリア』はこういう仕組みでできている。理解できた?」
念のため尋ねてみると、ぽかんと口を開け広げたまま三善は答えた。
「よく分からないことだけが分かりました」
「まあ、それでいいや。そういうことは俺たち技術者の仕事だからな、お前にやってほしいのは、技術者ができないことだ」
その時、遠くのほうからばたばたとした騒がしい音がしてきた。その音はどんどん近付き、部屋の前で止まった。