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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第五章 5

 夜になっても彼は目を覚まさなかった。

 ひとしきりやることを済ませた三善は、縁側に腰掛け、ひとり静かに煙草を吸っていた。ふっと息を吐くと、紫煙が細い筋を描いて宙へ消えていく。それを見ていたら、なんだか妙に物悲しい気持ちになった。

 一度に色々なことが起こりすぎたのだ。三善は脳内で好きな聖典の一節を思い浮かべ、それからもう一度フィルターに口をつける。続いて、今度はオイラー=ラグランジュ方程式――これも三善が好きな数式だ――を想像し、紫煙と一緒にそれらを吐き出した。現実逃避もいいところである。

三善(・・)

 そのとき、唐突に名を呼ばれた。その声の正体はとてもよく知っている。

 三善はのろのろと顔をあげ、絞り出すような声色で言った。

「ヨハンか」

 ヨハンは三善の隣までやってきて、ゆっくりと腰を下ろした。

 これでも一応、三善は他の人の前では煙草を吸わないことにしている。今回も例外でなく、懐から携帯灰皿を取り出すとすぐに煙草の吸い殻を押し込んだ。

「なんだか様子がおかしかったから。あのあとから急にぼんやりし始めたでしょう」

「ああ、うん……ちょっと思うところがあって」

 ヨハンの口調に、微かな違和感を覚えた。

 それについて三善はゆっくりと思案する。まかさ、いや、でも……とぶつぶつ何かを呟く様があまりに奇妙だったので、ヨハンは思わずきょとんとして首を傾げた。

 ややあって、腹積りが決まったのだろう。三善はヨハンに向き直ると、ためらいがちにこう返した。

「今だけでいいから、ケファって呼んでもいいか」

「ああ、いいよ」

 即答だったことに、三善はほっと肩を撫で下ろす。やはり自分の見間違いではなかったのだ。久しぶりに彼に名を呼ばれたとき、三善はその人物が何者か(・・・・・・・・)を直感的に察していた。しかしながら根拠がなかったので、なんと呼べばいいか困ってしまった。ただそれだけのことだった。

「……おれは一体どうすべきだったんだろう」

 何がとは言わなかった。

 ヨハンは三善の問いに対し肯定も否定もしなかった。ただ、その澄んだ紫の瞳で三善のことを見つめるだけである。

「選択するべきポイントが『あの日』以降山のようにあったはずなのに、今思い返すとおれの選択は全て誤りだったような気がする。最適解が分からないんだ」

 三善は気にせずに口を動かし続ける。先日の帯刀に対する語り延長線にある行動かもしれない。頭の片隅に残る冷静な部分がそう告げていたが、それでも三善は話さずにはいられなかった。

「例えば、あなたが去ると決めた時。おれがあなたに着いて行くと決めていたら、結果はどう変わっただろう。例えば、おれが司教試験を受けなければ。例えば、タチバナを引き取ると決めなければ。――例えば、『あなたがここにいる』ことをおれが認識できなければ。今の状況はどう変わっただろう」

「それでもお前は、俺の存在を認識した」

 そんな三善に、ヨハンはそんな言葉を投げかけた。

「お前の認知とそれを軸にする行動基盤――ああ、面倒だから意識と言い換える。お前の意識の中にほんの一部でも俺の存在があったから、お前は今司教としてここにいる。違うか」

「自分の存在を驕るなよ」

「驕りでもいいさ。俺が何年、お前の面倒を見てきたと思っているんだ」

 三年だよ、と三善は言った。

「そう、三年だ。たったそれだけだ。俺とお前の間にはそれしかなかったはず。それでも、俺は左耳のそれを見て安心したよ。お前と共に在った三年が無駄ではなかったと思った。そしてこうも思う。五年前にもっと早く気づいていたら。そうしたら、お前が今こんな風に苦しまずに済んだのに」

「その苦しみの原因を生み出したひとがよく言うよ」

 はは、と乾いた笑いを三善がこぼす。

「ケファ。……もういいんだ、もう」

 そして三善はゆっくりと己の左耳に触れ、十字が揺れるイヤー・カフを外した。「あなたが後悔する理由はない。おれが全部背負うと、そう決めたから」

 だから、と三善はイヤー・カフをヨハンの手に握らせる。ヨハンが瞠目したのを、三善は決して見逃さなかった。

「ブラザー・ケファ。どうかおれに迎えに来たと言わせて欲しい。あなたがおれの味方にならなくてもいい。中立でありたいのならそうすればいい。それでも、……あなたがここにいることに対して、おれはひとつだけ選択する。おれはこれを最適解としたい」

 以前感じた「彼はヨハン・シャルベルだ」という頑なな思いももちろん捨てきれない。むしろそれが三善の中での真の結論だということは揺るがなかった。しかしながら、だからこそ今胸の内に溜めているわだかまりは全て捨ててしまいたかった。少なくとも、自分の一言で彼の在り方を決めるのはやめにしたかったのだ。

 ヨハンは口を閉ざしたまま、赤銅の瞳を三善へと向ける。そのまなざしは凛としてとてもきれいだったが、その裏に潜む暗闇の深淵のようなものの正体までは分からなかった。

 ややあって、ヨハンはぽつりと呟いた。

「……ああ、随分と遠くに行ってしまったものだな。お前は」

「ケファ」

「ヒメ。――いや、三善。これはもう、お前が持っているべきものだ」

 俺にはもう必要のないものだ、とヨハンはイヤー・カフを再度三善の手に握らせる。

「今の俺はヨハン・シャルベルだ。それを返すべき相手は決して、俺ではない」

 三善がようやく口を開いた。紅玉が強い光を孕んで睨みつけている。

 それを見てヨハンはああ、と思う。この光がまぶしいと思えるほど、今自分は暗いところに堕ちてしまったのだと。そう思うほかなかった。

「ひどいな。だから嫌いなんだよ」

「嫌われてもいいさ。……でもまぁ、怒鳴られたのはさすがに堪えたけど」

 三善、と再び彼が口を開く。三善は答えなかった。

「『我々がどこから来て、何者で、そしてどこへ行くのか』。少なくとも、俺は自分の存在に対してのこだわりを捨てることにした。それが俺の最適解だ」

 そこまで言ったとき、室内が突然騒がしくなったのに気がついた。三善は背にしていたすりガラスの引き戸を開け、何事かと顔を覗かせる。

「あっ、センセ! 早く来てください」

「どうした」

 橘がやけに慌てているので、なんとなく何が起こっているのかは察したつもりだが、三善は念のためその理由を尋ねた。

「目を覚ましました」

 橘は「誰が」とは言わなかった。しかし、それだけで十分だった。三善は一度ヨハンへ目配せし、それから短く頷く。

「……すぐに行く」


***


 三善と橘が離れへ向かうと、見知らぬ男性がヨハネスと話しているのが見えた。彼が持つ独特の青い瞳を見て、三善は唐突に理解した。

 この男は、噂に聞く帯刀家先代当主。帯刀壬生だ。どうやら彼がヨハネスを連れて逃げ回っていたらしい、ということは事前に帯刀雪からは聞いていたが、そのせいだろうか。彼らは遠目に見ても随分と親しそうだった。

「げーか。起きられますか」

 壬生は横目で三善の姿を捉えつつ、優しい声色で尋ねた。

「センセ?」

 突然三善が橘の手を握った。驚いた橘が三善を仰ぐと、彼は珍しく緊張した面持ちのまま正面の男へ目を向けている。握った手が微かに震えていることからも、三善が少なからず動揺していることは見て取れた。

 そうしているうちに、ヨハネスがのろのろと身体を起こす。

「今度はどれくらい眠っていた?」

「三週間です」

「そうか。意外と早く起きられたな……」

 彼はそう言うと、長く息をついた。目のかすみを取るために数回瞬きを繰り返す。そしてようやくヨハネスが三善の姿に気が付いた。

 彼は一度瞠目し、それから隣にいる壬生へと向き直る。

「お前、なぜ」

「猊下。『聖都』で約束した通りです。我々があなたに会わせたい人物は『彼』です」

 おいで、と壬生が三善に声をかけた。

 ――ついにこのときが来てしまった。

 様々な思いが脳裏を駆け巡る中、三善はそっと前へ進み出る。一体なんと声をかけるべきだろう。あれこれ考えていたが、ここまで来たらどうしようもない。

 三善は微かに眉間に皺を寄せ、それからゆっくりと口を開いた。

「久しぶり。この大莫迦野郎」

 最終的に口をついて出た一言がとてつもなくひどい。まさか自分でもそんなことを口にするだなんて考えてもみなかった。

 ヨハネス自身、まさか久しぶりに会う息子の第一声が罵倒から始まるとは思っていなかったのだろう。微かに息を飲んでから、彼はややあって固い表情を崩した。

「ああ、お前になら怒られてもいいかな」

 そしてヨハネスは鼻で笑う。「お前、勝手に『釈義』を盗んだろう。私が気づかないと思ったか」

「いつまでも寝ているほうが悪い」

 三善は吐き棄てるように言い、空いている左手で前髪をかきあげた。少し気を抜くと会話のペースを持っていかれそうになる。それだけはなんとしても避けたかった。

「構わんさ。どのみちこの釈義はお前に譲るつもりだったからな。手間が省けたよ。ええと、」

 ヨハネスはちらりと橘へ目を向け、それから再び三善を見上げる。

「ああ、なるほど。とんでもない子を連れてきたな、お前は」

「御託はいい。楔の権能を寄越せ」

「……、いいよ。渡そう」

 手を、とヨハネスは右手を差し出した。三善はその手を握り、ゆっくりと『解析』を始めた。ゆらりと紅玉の瞳が揺らめいた刹那、三善の脳裏にはいくつかの数式が立ち並ぶ。『時間遡行』の能力に比べたら大したことはない。というより、本質的なところはどうやら悪魔祓いのそれと非常によく似ていた。この程度であれば、わざわざ『解析』をせずとも済んだかもしれない。

 三善は手を離し、ふっと息をついた。

「使い方は分かるね?」

 三善は己の右手を何度か握り、開き……と動作を繰り返し、ひとつ頷いた。

「問題ない」

 力なく微笑んだヨハネスの瞼が重くなってきた。

 彼はこのあとすぐに眠りにつき、しばらく目を覚ますことはないだろう。それは短期間かもしれないし、永遠のように果てのない期間かもしれない。


 まだだ。三善は思う。

 まだここで果たすべきことは終わってはいない。


「最後に問う。この少年の『釈義』の意図は」

 三善の問いに、ヨハネスは短く答える。

「『契約の箱』に対する抑止だ。お前の想像通り」

「……、分かった。ありがとう」

 確認したかったことはこれで全てだ。

 三善が口を閉ざしたとき、ヨハネスがふいに口を開いた。掠れた声が名を呼ぶ。その瞬間、三善の肩が微かに震えた。

「私の長い旅は、これで終わりだ」

 それが何を意味するのかくらい、三善には分かっていた。三善はのろのろと瞼を閉じ、それから祈るように首に下げた銀十字に触れる。

「あとはお前がやれ。私が持てる全てはお前に託したつもりだ」

「たとえ一〇〇九四回目が来たとしても?」

「もう私が過去にも、未来にも現れることはないだろう。ああ、ミヨシ、もっと顔を見せてはくれないか」

 ぴたりとヨハネスの手が三善の頬に触れる。瞼をゆっくりとこじ開けると、眼前には男の顔があった。

 ――疲れ果てた男の顔だ。

「お前はあの方(・・・)によく似ているね。もう存在しない、あの、方の……」

 三善はその手に己の手を重ね、きゅっと目を細めた。おまえはどうせ彼女を利用したんだろう、と何度言おうと思ったことか。しかし、寸でのところでその言葉はせき止められ、代わりに別の言葉に挿げ替えられた。

「『白髪の聖女』はおれと一緒にいる(・・・・・)。だから安心して」

 そうか、とヨハネスは笑った。

「私は色んな罪を犯してきたが、あの方と、お前に会えたなら、……それでいいような気もしてきたよ。これでも一応は神の僕の僕だったのに、随分と不従順だったものだ」

 三善は無言のままヨハネスの背へ手を添え、ゆっくりと身体を横たえさせる。随分と軽くて小さな体だと思った。たった一人で苦しむだけ苦しんだなれの果てがそこにはある。

 なあ、と三善が声をかけた。

「――目的を達成したあと、」

「うん?」

「たとえおれが目的を達成したあとでも、あなたは本当に現れないのか」

「ああ。ないだろうね。私はこの世の理を捻じ曲げすぎた。これ以上は留まることをゆるされないだろうね」

「挑んだこともないのに断言するのか。あなたらしくない」

 三善はからからに乾いた喉から声を絞り出した。

「次に会うときは、『あの場所』で、だ」

 ヨハネスはその言葉に瞠目して見せたが、すぐに安心したような声色で言った。

「そんなところだけ、似なくていいのに」

 すう、とヨハネスの瞼が降りた。――穏やかな寝息が聞こえる。

 三善は乱れた布団をかけてやると、背後に控えていた壬生へ向き直る。そして、彼に対し深々と頭を下げた。

 そんな三善の肩を叩きつつ、壬生は穏やかな声色で言うのだ。

「間に合って良かったね」

 三善はゆっくりと顔を上げる。

「……あとは、私が」

 そう告げた三善の声からは、感情らしいものが一切感じられない。代わりに、底なしの暗闇が、彼の澄んだ瞳に潜んでいた。

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