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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第五章 4

 本州十二区、碇ヶ関。

 東北地方に位置するこの場所は、天正十四年から明治四年もの間津軽藩の関所が設けられたことで有名である。そんなことを橘が言っていたので、三善は思わず首を傾げながら尋ねた。

「天正十四年っていつ?」

「一五八六年のことです。徳川家康が豊臣秀吉の臣下となった年ですね」

 三善は微かに眉間に皺を寄せ、それから普段使わない知識を振り絞って答える。

「バートリ・イシュトヴァーンが逝去した年……?」

「……、センセ、ちなみに歴史の勉強は」

「教会史を少々。それと世界史をかじったくらいかな。一応高卒認定は持っているけど、ほとんど忘れちゃった」

 ちなみにバートリ・イシュトヴァーンとはトランシルヴァニア公国の統治者のことだ。

 それはともかく、三善は橘が意外と日本史に強いらしいということを知り、妙に感心してしまった。それは少なくとも自分にはない要素だ。せっかくなので、今度一緒に箱館市内を歩いてみようと思った三善である。

 このやりとりと目の当たりにしたヨハンは、微かにがっかりした表情を浮かべていたが、それを三善が気づくはずもなかった。

「ああ、そろそろ駅に着くね」

 三善は腕時計に目を落とし、それから車窓越しに流れる景色を見つめた。

 いよいよ碇ヶ関上陸となる。相手が帯刀なのだから、もっと都心に近い場所に居を構えているのかと思いきや、実はそうではなかった。よくよく考えてみると、ここ数年の帯刀はすっかり流暢な標準語を話していたけれど、三善と出会ったばかりの頃はところどころ訛りが目立っていた気がする。

「センセ、忘れ物がないようにお願いしますね」

「お前こそ」

 何故かお互いを牽制し合い、二人は荷物をまとめ始める。

 道中あまりに暇なので、ヨハンはその姿をのんびりと眺めることにした。

 ――つーか、面倒見てる子供と思考レベルが同じってどういうことだよ。司教。

 思わずトマス寄りの思考が脳裏を掠めるくらいに、彼は心底呆れている。

 彼らは本当に大司教に会いに行くつもりでいるのだろうか。遠足か何かと勘違いしてはいないだろうか。

 様々な思いが脳裏を駆け巡る。そういえば、出掛けにロンとリーナが駅まで見送りに来てくれたが、二人とも口を揃えてヨハンに対し「うちの司教をよろしくお願いします。たぶん放っておくと迷子になるので」と言っていたことを思い出した。

 ――ある意味愛されているということにしておこう。

 そういうことにして、ヨハンは席を立った。


***


 三善らが改札から出ると、入り口で慶馬が待機していた。こちらの姿を捉えると、ぎこちない素振りで片手を挙げる。

「ああ、美袋さん」

 三善が微かに頬を緩ませると、慶馬はゆっくりとした口調で声をかけた。

「お疲れ様です。疲れたでしょう、このあたりは乗り換えが難しいから」

 確かにその通りではあるのだが、三善は敢えてコメントせず苦笑して見せた。

 慶馬はトランクを開け、三人分の荷物を載せてやると、後部座席の戸を開ける。

「乗ってください。うちまでは少し遠いので」

 三人が乗り込むと、車はゆっくりと発信する。駅前はぽつぽつと民家が立ち並んでいたが、しばらく走るとそれらは見えなくなった。代わりに見えてきたのは豊かな森林である。

 興味深そうに三善が景色を眺めていると、慶馬が口を開いた。

「このあたりからうちの敷地なんですが、自宅に到着するには当分かかります」

「なるほど、ゆき君がブルジョアなのは本当だった訳だ」

 聞くところによると、帯刀家と美袋家は同じ敷地内に建てられているのだそうだが、少しばかり距離があるため互いの家を行き来するのに車を用いることもあると言う。

「まあ、身を隠すには最適なんですけどね」

「今更だけど、美袋さん家って何をして生計を立てているんですか」

「……、少なくとも、堅気ではないです」

 三善は敢えて聞かなかったことにした。

 そこからさらに車を走らせること数十分、ようやく停車したかと思えば、目の前には立派な日本家屋が鎮座していた。そもそも一般的な住宅というものをあまり見たことのない三善だが、それでもこれは豪邸の類であると認識できるくらいには素晴らしい造りをしている。

 それは橘も同感だったようで、呆けた表情のまま固まっている。ヨハンだけは例外で、豪邸を前にしてもさほど気にも留めず淡々と荷物を車から降ろしていた。

「でかい、なんだこのでかさは……」

 思わず呟いたその時、引き戸が開いた。

 中から現れたのは茶色の巻き髪の女性だった。独特の薄氷色の瞳をこちらへ向けると、それから馴染みの名を呼ぶ。

「慶馬、着く前に連絡しろって言ったでしょ」

「別に昨日のうちから準備していたんだから、今更慌てなくてもいいだろう」

「そういう訳にもいかないの。ったく、……、ああ、あなたが姫良司教ですね」

 はじめまして、と彼女は礼をする。「帯刀秋子と申します。遠いところから御足労いただき、ありがとうございます。愚弟とも親しくしていただいているようで」

「いいえ、こちらこそ大人数で押しかけてしまい申し訳ありません。姫良三善と申します。ええと、こちらがヨハン・シャルベル神父。こちらが土岐野橘です」

 彼女にふたりを紹介すると、秋子は穏やかそうに微笑んで見せた。

 今回は各々に客間を用意してある旨を秋子が説明し、三人を屋敷に通した。帯刀家も美袋家も大所帯のため、共用で使える浴室があるが……、と彼女が言うと、

「……すみません、私は、ちょっと。背中に見せられない模様があるので」

「私はまだ腹の傷が完全に癒えた訳ではないので」

 三善とヨハンがすぐさまそれを断った。

 通された客間に荷物を置くと、三善らは帯刀がいるという広間へ向かうことにする。

「ああ、みよちゃん、みなさんも。遠いところをわざわざありがとう」

 ちょうど膝に黒猫を抱えていた帯刀が、その気配に気づきぱっと顔を上げた。

 それを見て、おや、と三善は思う。ほんのわずかだが、帯刀の視線がずれたような気がしたのである。彼はなるべく人と目を合わせて会話をしようとするので、こんなことはほとんどないはずなのだが。

 ふむ、と微かに唸った三善の様子に、帯刀はとうとう反応することはなかった。

 ふかふかのソファに三善らが腰掛けたところで、慶馬が緑茶と茶菓子を運んでくる。帯刀が短く礼を言うと、代わりに抱いていた黒猫を慶馬に預けた。猫はちらりと三善を見たが、すぐに慶馬の胸に顔を埋めてしまう。

 やはり動物には嫌われる性質らしい。内心三善ががっくりと肩を落とした。

「さて、さっそくで申し訳ないけれど、今回の事情を説明する。前大司教は今離れで休まれているが……正直、いつ目覚めるか分からない」

 急遽碇ヶ関まで三善らを呼んだ理由がこれだった。

 聖都から日本まで移動している間に、ヨハネスは再び深い眠りについてしまった。こうなってしまうとヨハネスは少なくとも二週間は目覚めることがない。この五年でそれを学習した壬生は、日本に到着してすぐに知り合いのプライベートヘリを借用しこの場所までヨハネスを輸送することにしたのである。

 そんな事情もあり、ヨハネスを連れて箱館まで移動することは最早困難。そう判断した帯刀は、病み上がりで申し訳ないと思いつつも三善らをここまで呼ぶことにしたのだった。

「ヨハネスの対価は『眠り』だからな。彼は今までに何万回も時間を戻してやり直しを図っている。そろそろ対価の限界なのだろう」

 眠っている状態でよければ会うか? と帯刀が尋ねた。「みよちゃんの目的を果たすだけなら、条件としては足りると思うけど」

「……、うん。むしろ起きているときだとかえって面倒かも。おれだけで行くよ」

 それで構わないだろうか、とヨハンと橘へ目を向けると、彼らは強く頷いて見せた。

 離れはこの広間から少し離れたところにあり、途中、一本道の渡り廊下を通っていくこととなる。

「みよちゃん」

 帯刀がその名を呼んだ。「たぶん、次に大司教が目を覚ましたらそれが『最後』だ」

 歩くたびに板張りの床が微かに軋む。

「彼にはもう、自分のために使える時間はほとんど残されていないんだ。そんな気がする」

「……、うん。そうだね」

 ここだ、と帯刀が離れの戸に手をかけた。音を立てぬようそっと扉を開けると、部屋の中央に簡素なベッドがぽつんと置いてあるのが見えた。

「俺はここにいるから。済んだら戻っておいで」

 三善が部屋に入ると、帯刀はこのように言い、そっと戸を閉めた。

 今この時、かつての大司教と三善だけが離れに残された。

 耳を澄ますと、穏やかな寝息が微かに聞こえてくる。三善はそのままぼんやりと立ち尽くし、その寝息に聞き入った。

 なんとなく、近づくのが怖いと思ったのだ。そして、どんな顔をして会えばよいのか分からない。なにしろ相手は一時期「自分の身体を用いて好きに動き回っていた人物」だ。この世のどこにそんな奇妙な体験をする人間がいようか。しかしながら、いつまでもその場に立ち尽くす訳にもいかない。

 悩みに悩んで、三善は音を立てぬよう、そっと彼に近づいた。

 老齢の男性が静かに身体を横たえている。胸のあたりが微かに上下しているのを見て、それでようやく彼が深い眠りについているのだと分かるくらいに穏やかな姿だった。

 三善は彼の姿を見下ろすと、頬にかかる髪を梳いてやった。

 ――どうしてだろう。

 いつか彼に会う日が来るのなら、文句の一つでも言ってやろう。そう思っていたのに、今はどうしてもその言葉が出てこない。

 どうしてだろう。

 三善は瞼をゆるゆると細め、短く息を吐く。そして彼の手を握り、ゆっくりと釈義を身体に巡らせた。

 ゆらりと揺れる、炎を纏う瞳。徐々にその色が変色し、黄昏の空のように滲んだ朱へと変貌する。

 脳裏によぎるは世界の理を変える数式だ。

 三善はそれをひとつひとつゆっくりと吟味し、記憶し、頭の中で何度も何度も反芻する。随分残酷な数式、というのが三善の感想だった。一部よく分からない引数が使われていたが、全て読み込んだ後で再び思い返し、それがようやく“弾冠”を行うためのものだということに気がついた。

 なるほどそれは非常に合理的である。つまりヨハネスによる『時間遡行』は単純に時間が戻るだけではなく、現在の自己の脳が持つ「認知」と「それを軸とする行動基盤」を過去の自分の脳に上書きしているのだ。だから過去に戻ったとき、ヨハネスは今までの試行結果を把握していたのだと言える。

 全てを読み終えた三善がそっと手を離す。額には脂汗が浮かんでいた。軽い息切れをもよおしつつその場にへたり込むと、三善はポケットに入れていたハンカチで汗を拭う。

 三善は唐突に理解した。

『終末の日』を避けるためには、“七つの大罪”が持つ能力――特に“弾冠”の能力――が必要不可欠である。そのため、万が一の保険をかけようとしたとき「確実にその能力を引き継がせる」ことが重要になるのだ。

「だから『姫良真夜』を選んだのか、あんたは」

 それだけではないように思えるが、現在知りうる状況だけ見ればそうとしか考えられない。このひとはなんということをしでかしてくれたのだ。三善は思う。これは、どう考えてもひどい。ひどすぎて罵倒の言葉すら浮かばない。

「――最悪だ」

 しんと静まり返る室内に、寝息だけが聞こえている。

 どうしてこんなにも呑気に寝ていられるのか、この男は。たくさんの人を犠牲にしておいて、なぜこの男はのうのうと生きていられる。

「最悪だ」

 三善はもう一度、今度は侮蔑を含んで言った。

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