第五章 3
翌日、夜間に抜け出したことを帝都からしこたま怒られた三善は、げんなりとした表情のまま院内を歩いていた。
気持ちを落ち着けるべく一度喫煙所に行ったものの、このときになって初めてポケットにライターが入っていないことに気が付いた。もしかしたら昨日窓から飛び降りた時に落としたのかもしれない。しかし、今更探すのも億劫だ。色々考えた結果、三善はライターの捜索を諦めることにしたのである。
何たる不幸だ。自分が何か悪いことをしただろうか、と半ば恨み言のようなことを考えていると、突然聞き慣れた声が耳に届いた。
「センセ」
橘だった。彼はその手にボストンバッグをひとつ携えており、肩にはユズが止まっている。よくその状態で看護師に止められなかったと妙に感心してしまう三善である。
「ああ、タチバナ。来てくれたんだ」
声をかけると、橘は早足で三善のもとへ近づいた。外が少し寒かったせいだろう、微かに頬が赤らんで見える。
「ここ三日くらい面会謝絶状態だと聞いていたんですが、なにかしたんですか。まさか悪いものでも食べたんじゃあ」
「おれの信用は最底辺かよ」
とはいえ、その実態は三日に渡り帯刀相手に話し続けていただけだ。自分がしでかしたことではあるが、己の情緒不安定さを恥ずかしく思った三善はそっと橘から目を逸らした。
「大丈夫、だぞ? この病院、買い食いもできないし……」
「それが可能だとしたら絶対変なもの食べるでしょう、センセ」
橘は呆れたように嘆息を洩らしつつ、そっと三善の手を引いた。「行きましょう。洗濯物を取りに来たんです。それから、色々なものを支部から預かってきているんですよ」
確かに立ち話をする理由はない。三善は橘に手を引かれるまま、元の病室に戻ることとなった。
重い引き戸を開けると、すでに帯刀も病室へ到着していた。なにやらヨハンと話をしていたようだが、三善と橘の登場にはっと口を閉ざす。それを少しばかり怪訝に思った三善だが、ここでは敢えてそれを指摘することはやめておいた。
「ああ、戻ってきたのか。おはよう」
帯刀が橘の存在に気づいた瞬間、眉がぴくりと震えた気がした。
三善はそれに対し、はっきりとした口調で答える。
「いいんだ。タチバナも一緒で」
その言葉に帯刀はなにかを感じたのだろう。それ以上この件について追及しようとはせず、代わりに小さく頷いて見せた。
橘だけがただひとり困惑したような表情を浮かべており、今にも病室から退散しようとしているのが見て取れた。三善はふむ、と短く呟いたのち、橘の手を取った。
「お前はおれと一緒だ。今まで放っておいてごめん。自分のことでいっぱいいっぱいになっていたんだ」
そして、三善は帯刀に対しゆっくりと口を開くのだ。
「――ゆき君。おれ、会うことにした」
誰に、とは決して言わなかった。しかし、その一言だけで十分だった。
帯刀は微かに瞠目し、恐る恐る事の真意を確かめようとする。
「……ほんとうか」
「ああ。ただし、」
その時、三善はちらりと橘へ目を向けた。「タチバナも連れていく。これ以外の人員で『あのひと』に会う気はない」
「はっ?」
予想外の言葉に、帯刀は瞠目を通り越し目が点になった。
三善が何を意図してそのように言い放ったのか、帯刀にはさっぱり分からなかったのである。『あのひと』に会うとしたら、三善ひとり、もしくはヨハンと共にふたりだと帯刀は考えていたのだ。そして、これ以外の選択肢はないとも思う。橘が『パンドラの匣』所有者だという時点で、『あのひと』との接触を避けるべきだ。それを三善が分からないはずがない。
当の橘本人ですらぽかんと口を開け放つ様は、なんだかとても異様な光景に見えて仕方がない。
しかし三善はただひとり、凛とした面持ちで口を開く。
「昨日の夜考えたんだ。そもそも、タチバナは本来釈義の能力者である可能性が高いという理由で箱館に滞在してもらっていた。そろそろちゃんと調べた方がいいんじゃないかと、そう思う」
「それとこれとは話が違うんじゃあ」
「違わない。ゆき君、おれはタチバナの釈義の正体を知っている。そしてその件については、『あのひと』から直接言質をとる必要がある。そうしなければ何も始まらない」
「でも、そうすると……!」
そこでようやく、今まで頑なに口を閉ざしていたヨハンが声を上げた。
「ブラザー・ヨハン。あなたが言いたいことは分かる。その通りだ。だからこそ会うんだ。というか、……そういう理由付けをしておかないと、おれ、途中で放り投げるかもしれないし」
そういう意味で自分を一番信じていないのだ、と三善は苦笑する。
思わず言葉を失うヨハンに、なにやら神妙な面持ちでいる帯刀。そんな彼らに挟まれる形で、橘だけがただひとり困惑した様子で互いの顔を見比べている。
それに気がついた三善は、橘へ向けて微かに微笑んで見せた。
「なあ、少し難しい話に付き合ってくれないか、タチバナ。お前の話をしよう」
***
三善は昨夜まとめた考えを帯刀とヨハンに伝えた。“怠惰”と接触した話は少しだけ触れたが、彼のことは約束通り浄化したことにしておいた。まさかあの“怠惰”が余生を猫として暮らそうとしているだなんて、到底言えることではなかった。
三善がひとしきり話すと、
「――つまり、」
ヨハンが言葉を選びながら言う。「“怠惰”が、『大司教に会うなら橘君を連れて行くのがよい』と言った、と」
「そう」
それに対し帯刀が口を挟んだ。
「どういうことだろう。前回の状況からすると、前のみよちゃんは大司教に会っていない。橘君もまた同様だ。会わないといけない理由があるのだろうか」
何も説明していない状態で橘にこの内容を聞かせるのはずいぶん酷な気もしたが、もう諦めた。三善が橘にそっと「細かい説明はあとで、だ」と囁き、とりあえず話だけ聞いてもらうことにする。
ヨハンがのろのろと口を開いた。
「なんとなく理由は分かりますが、“怠惰”がそこまで考えているとは到底思えません」
「ん? どういうことだ」
意味が分からず、三善は首を傾げる。しかしヨハンはその怜悧な表情を一切崩さずに、その発言をばっさりと切り捨てた。
「本人を前にして言うべきことではありません」
「……ヨハン。お前は一応『箱館支部に身を置く侍祭』という設定だから、容赦なく言わせてもらう」
三善がその名を呼ぶ。「言え。司教命令だ」
短い一言にえげつないほどの威圧を込めた。三善がわざわざこのような言い回しをすることなど滅多にない。
その雰囲気にとうとうヨハンが折れた。彼はものすごく言いにくそうにため息混じりに口を動かす。
「怒らないで聞いてください。そもそも私が箱館を訪れたのは、橘君を保護するためです」
「……、保護?」
「ええ」
三善の問いに、ヨハンは小さく頷いた。「当初の予定では、橘君を預かるのは私の役目でした。ところが、何故か『あのバカ』があなたに紹介状を渡したものだから、私は公に手を出せなくなったのです」
一瞬彼の地が見えた気がしたが、それは聞かなかったことにしておいた。言葉尻に微かな苛立ちが見え隠れしていることからも、今のこの状況はかなりの想定外なのだと思い知らされる。
ヨハンはさらに続けた。
「司教。あなたのところに橘君を預けた場合、橘君が正しく釈義を身につける確率はゼロに等しい。橘君はその力に呑まれ、身動きが取れなくなります。要するに、これが前回の『終末の日』発生の原因です。それを回避するには、橘君が正しく釈義をコントロールできる状態を作ればよい」
「そこで『あのひと』の登場か」
はい、とヨハンが頷いた。
つまり、彼が言いたいことを要約すると以下の通りとなる。
橘が釈義――『パンドラの匣』を正しくコントロールできるようにするためには、かつての三善と同じことをすればよい。以前の三善が『楔』を用いて大司教と繋がっていたように、三善が橘に対して『楔』を穿つことで橘の能力は三善の支配下に置かれる。
もちろんそれには危険が伴う。
三善の現在の釈義は『契約の箱』に由来する。それを橘に近づけることで『パンドラの匣』と影響し合い、最悪の場合『契約の箱』が開く可能性もある。
諸刃の剣とはまさにこのこと。完全にリスク回避することはできないのだ。
「“怠惰”が言いたいことはおよそこういうことだと思われます。ただ、リスク管理がなっていない現状を鑑みると、やはり私は慎重に判断すべきだと思います」
「……、うん、なんとなく言い分は分かった」
三善は暫し逡巡し、それからひとつ納得したように頷いて見せた。「何にせよいちかばちかということだ。おれは腹を括ることにする」
「え」
「まずおれは『あのひと』に会い、その釈義を“解析”する」
ぴたりと帯刀とヨハンの動きが止まった。『あのひと』――大司教ヨハネスの釈義と言えばひとつに決まっている。『時間遡行』だ。
「もちろんこれは万が一の場合の保険だ。本当に使う気はさらさらない。しかし、その後の過程で『契約の箱』が開く瞬間が訪れることになれば」
三善はその言葉を口にするのを一瞬躊躇した。しかし、どうしても元の状況に戻ることなどできやしないのだ。そのように己を鼓舞し、さらに言葉を続けた。
「――おれが時間を戻す」
自分が何を言っているのか、分からないはずがなかった。こんな滅茶苦茶なことをしようとするなど、神に対する冒涜でしかない。
大聖教の時間に対する考え方はあくまで『直線的時間』。人間がそれに挑もうなど烏滸がましいにもほどがある。しかし、すでに『契約の箱』は一〇〇九三回開匣され、そのたびに時を戻されている。
何度も、とはいかないだろうが、それが少しでも『正解』に近づく行為なのであれば喜んで受け入れよう。
そうだ、地に堕ちる人間は己一人だけでいいのだ。
三善は微かに痛む胸をきゅっと押さえ、小さく息を吐き出した。
その時だった。ヨハンが三善の名を呼んだのは。はっとして三善が顔を上げると、ヨハンは三善の前にそっと何かを差し出した。
「頑固なのは相変わらずですね」
ヨハンが苦笑している。「これは、『あなたの先生』が五年前に残したものです。持っていなさい」
それは小さな鉄製の小箱だった。表面に何か文字が刻まれているが、錆び付いてよく読み取れない。見た目は随分重そうなのに、手にしてみたら意外と軽かった。
「本当に困ったことになったら、それを開けるのです。少しは助けになるでしょう。それと……もしも、あなたが時間を巻き戻し過去へ行くことになった場合。過去の世界で『あなたの先生』に会ったならば、こう伝えてください」
ヨハンは言った。
「『Je ne peux pas vivre sans toi.』」
聞きなれない言葉だと三善は思った。表情からそれを悟ったのか、ヨハンは優しい声色で続ける。
「日本語で『あなたなしには生きられない』、です。これを聞けば、あのひとは司教が時間遡行をしたのだと理解するでしょう。おそらくブラザー・ホセにも同等の効果が得られると思います」
ふむ、と三善は微かに唸って見せ、それからゆっくりと頷いて見せた。
「わかった。覚えておく」
さて、とここでようやく三善は橘へ向き直る。
「ところでタチバナ。イスカリオテのユダとは」
「はっ?」
三善が何か支離滅裂なことを尋ねてきた。意図がさっぱり読めないが、橘はしどろもどろになりながら答える。
「えっと、一二番目の使徒……イスカリオテのシモンの子ユダのこと」
「正解。その補充要員がマティアだ。さすがタチバナ」
それが分かっていれば特に言うことはない。三善はそう言いたげに微笑んで見せ、それから帯刀へと向き直る。
「……という訳だ。完璧なリスク回避はもうしないことにした。ごめん、迷惑をかける」
それに対し「仕方ない」と苦笑したのは帯刀だった。改めて三善が相当の頑固者だということを思い知らされた瞬間でもある。
しかし、腐った状態のままでいるよりはずっといいのかもしれない。ようやく気持ちが上向きになってきたところなのだ。今は三善の選択を尊重するほうが上手く事が運ぶ気がする。帯刀は不思議とそんな気にさせられていた。
「ああでも、俺からひとつ、残念なお知らせだ」
帯刀の発言に、「ん?」と三善が首を傾げる。
「当初『あのひと』たちを箱館に呼ぼうと思ったんだけど、ちょっとトラブルが発生した。だからみよちゃん、悪いんだけど、おれたちが碇ヶ関に行こう」
予想外のその言葉に、一同目が点になったのは言うまでもない。
「……えっ?」