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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第五章 2

 深夜。

 三善はそっと上体を起こし、左へ目を向けた。眠るときは薄いカーテンで仕切りを設けるようにしている。微かに聞こえる寝息。それを耳にし、三善は彼が深い眠りについていると判断した。

 ベッド脇の引き出しから羽織を一枚取り出すと、三善はするりとベッドから抜け出した。院内を歩くのに使っているサンダルを履き、軽く身体を伸ばす。微かに傷が痛んだが、普通に動きまわる分には問題ない。むしろ箱館に来てからの二年間、ここまでじっくりと休んだことがなかった三善である。休みすぎて身体が変に強張っているので、そろそろ軽い運動をしたくなってきた頃合いだ。

 静かに窓を開けると、冷えた風が三善の白い頬を撫ぜていく。

 地上を見下ろすと、意外と高さはないということに気が付いた。

 ――ならば、『釈義』を使う必要はない。

 三善はゆっくりと桟に足をかけ、勢いよく地上へ飛び降りた。軽やかに着地すると、数拍置いて頭上に羽織が落ちてくる。それをもそもそと肩にかけながら、おもむろに空を見上げた。

 暗い色をしたビロードの夜空に、上弦の月がぽっかりと浮かんでいる。それが眩しくて、三善はその赤い瞳をきゅっと細めた。

 ゆっくり息を吐き出すと、白い靄が視界を濁らせた。あとひと月もすれば、この街に冬が訪れる。三善にとって三度目の冬だ。

 途中目に留まった自販機でしるこドリンクを買い、それをカイロ代わりにしながら三善はのんびり歩き出す。ちょうどこの近くに馴染みの公園があるのだ。一人になりたいとき、三善は決まってこの公園に足を運んでいる。特に何かをする訳ではなく、ぼんやり煙草を吸ったり携帯で漫画を読んだりするだけなのだが、意外とそれが心地よかったりするのである。

 さて、三善がその場所に訪れると、さすがに日付が変わる頃合いということもあり、辺りには誰もいなかった。街灯の下に小さい木製のベンチがあり、ミルク色に照らされている。そこに腰掛けると、三善は手にしていた缶のプルタブを引いた。

 ――もうぐだぐだと悩んでいる場合ではないことくらい分かっている。

 しかし、と三善は思う。

「ああ、もういい加減にしてくれよ……」

 おれを悩ませるな、と理不尽な一言を洩らし、缶の中身を一気に煽る。胃に流れ込んでくる甘ったるい液体のように、今抱えている悩みごとを全部消化してしまいたかった。現状、消化しようにも胃もたれ必至。どうにもしつこくて敵わない。

 帯刀に考えていることを全て聞かせているから、少しは頭の整理はついている。だからこそ困っているのだ。今本当に必要なのは、自分と同じ思考レベルで会話が成立する人。できれば、そう、過去に対峙した“嫉妬”あたりだと都合がいいのだが。

 その時、三善は足元に何か柔らかい感触のものがすり抜けて行ったのを感じた。目を落とすと、それは体の小さな黒猫だった。

 珍しい、と三善は思う。

 理由は分からないのだが、三善はとにかく動物に嫌われやすい。ここまで近くに、動物が自ら寄ってくることなど滅多にないのだ。

 驚かせないようにそっと観察していると、猫は突然三善の姿を仰いだ。そしてベンチへと軽やかに飛び乗る。

「おお」

 こんなに近くまで来てくれるのか。

 という驚きにも似た気持ちで三善は黒猫を見つめた。

 もしかしたら触れるかもしれない。できれば、人生のうち一度くらいはふかふかの毛並みに触ってみたい。

 三善は音を立てないようにそっと缶を置く。そして、驚かせないよう慎重に手を差し伸べてみた。

「おいで。怖くないから」

 無駄に指先をわきわきと動かして見ると、驚いたことにその猫は大人しく撫でさせてくれた。ふかふか、もふもふの触り心地。これぞまさしく本物の手触りだ。首周りを触ってやると、猫はとろんと目を細めた。

「ああ、かわいい……。やわらかい……あったかい……最高……」

 謎な発言をするくらいに、三善はその魅力的な触り心地に酔いしれていた。

 と、その時。猫が唐突に『口を開いた』。

「そこじゃない。お前撫でるの下手だな」

 三善の頭上にクエスチョン・マークが浮かんだ。何だか知らない男の声がしたと思うのだが。思わずあたりを見渡したが、園内はがらんとしており、三善以外の人物は見当たらない。誰かいるならば気配を感じるはず。三善は思わず首を傾げてしまった。

「ここだ、ここ」

 再び声がした。随分近くにいるように聞こえる。再度きょろきょろとあたりを見回す。

「ここだっての」

 唐突に猫が三善の指を甘噛みした。

 ――まさか。

「え、普通の猫って喋るの? どういう仕組み?」

 我ながら変なことを言っている気がする。

 しかしながら思わず本気の返しをしてしまうくらいには、今の三善は妙に頭が冴えていた。

「喋る猫なんかいたら世界規模のニュースだぞ」

 猫が妙に渋い声色でそう言うものだから、三善は思わずぐっと言葉を飲み込んだ。

 ――そういう君自身が『猫』ではないか。

 本当はそう言ってやろうと思ったのだ。しかし、三善は気づいてしまった。目の前に座り込む猫の瞳が、ぞっとするほどに美しいエメラルド・グリーンであることに。

 この色には覚えがある。

 三善は暫しの逡巡ののち、のろのろと口を開く。

「もしかして、おまえは“怠惰(Acedia)”か」

「あたり」

 猫――もとい“怠惰”はのんびりとあくびをしながら、三善の隣で香箱座りをした。

「君、少し感が鈍ったんじゃないの。俺が噂で聞く君は、もう少し聡明だったと思うけど」

「仕方ないだろ。今まで本物の動物には決して好かれなかったのに、いきなりかわいい顔して寄ってこられたら嬉しいに決まっている」

 中身が“七つの大罪(DeadlySins)”であれば納得だ。少し残念だったが、念願の毛皮に触ることができたので良しとする。言葉が通じる分、少しは得なのかもしれないとそう思うことにした。

 それで? と三善は尋ねる。

「お前はなんでそんな恰好をしているんだ。“憤怒”と一緒にいたんだろ」

「ちょっとへましてね」

 “怠惰”は言う。「“憤怒”の監視をするために一時的に猫の身体に“弾冠(シュート)”したら、もともと使っていた身体が死体と勘違いされた。気づいたら警察に処理されていて、どうすることもできなかった訳。しかし、この体はいいぞ。ひがな一日ごろごろしていても怒られないし、ちょっとかわいいポーズを取るだけで結構いい飯が食える。これは天職かもしれない」

「ああ、そう……」

 呆れてそれ以上コメントができない三善だった。

 大聖教における“怠惰”とは本来「怠惰」と「憂鬱」のふたつが融合してできた考え方だ。今の彼のどこに憂鬱の要素があるのか。甚だ疑問である。

「本当は“憤怒”の味方をするふりをして『パンドラの匣』を連れ去るつもりでいたんだけど。君がいい感じに浄化してくれたから、本意でない仕事をしなくて済んだ。礼を言う」

 少し前に帯刀が三善に説明した内容を思い出した三善は、それを聞いてようやく合点がいった。要するに、“怠惰”はその能力を用いて橘から正常な判断能力を奪うつもりでいたのだ。またしても帯刀の推測が当たったことを知り、三善は胸の内で密かに感動している。

「おれはそういう目的であいつを浄化したんじゃないんだけど……まあ、いいか。礼は受け取っておく」

「そうしてくれ」

 ああ、と“怠惰”は短く欠伸をする。

「君とまさかこんな風に話す日が来るなんて夢にも思わなかったよ」

「おれもだよ、“怠惰”。それにしても、なんでお前はおれの前に現れたんだ? この際はっきり言うと、おれはお前に話しかけられるまでお前のことをただの猫だと信じ切っていた。わざわざ正体を明かさなくてもよかったじゃないか」

「少しだけ、話をしようかと思っただけさ」

 その微妙な言い草に怪訝な顔をした三善だったが、すぐにこう返した。

「なに? まさか、余生を猫として過ごすことにしたから死んだことにしてくれ、とかそういう話でもする気?」

 その時、ぴたりと“怠惰”の動きが止まった。そして心底驚いたような声色で、

「なぜ分かった」

と抜かしてきた。

「まさかの図星かよ……」

 冗談だったのに。

 三善は長く息を吐き出し、それから右手で困ったように首筋を掻いた。

 しかし、本音で言うとそういう人生もありなんじゃないかと三善は思うのだ。彼は一〇〇九三回も強制的に人生のやり直しを命じられており、どうあがこうが最終的に全てをなかったことにされている。今後『やり直し』を続けるにしても、そのうちの一回くらいは自由にふるまってもばちは当たらないだろう。

 むしろ、彼にはそうする権利がある。彼は己の父親に巻き込まれた被害者でしかないからだ。

「いいよ」

 三善ははっきりと言った。「おれだってむやみにお前らを浄化したくない」

 しかし、と三善は考える。

「その嘘って、他の“大罪”にはばれたりしないの?」

「今回のうちに分かることはない。次回が訪れた時に分かるくらいかな……」

『契約の箱』による『時間遡行』が発生した場合、それまでに起こったすべての出来事が“大罪”へと伝えられる。この仕組みのことを彼らは『記憶の引き継ぎ』と呼んでいるらしいのだが、そこに至るまでの間は特に監視されている訳ではないのだと言う。

 そこまで言った“怠惰”は、ふと何かに気づいたらしい。短い沈黙ののち、「あー、そうか、いいこと考えた」とぶつぶつ何かを呟いている。

 最終的に彼はのろのろと顔をあげ、三善にこう言い放った。

「君、今から俺を“解析(トレース)”しろ」

「はっ?」

 こいつは何を言い出すのだ。三善は思わず目を剥いた。

「姫良三善。君が俺の能力をコピーすれば、俺となんらかの形で接触したという証拠になるだろ。俺の能力は『人から正常な判断を奪うこと』。簡単に言うと、相手方に対して一時的に脳疲労を起こす能力だ。決して役に立たない能力じゃないだろう」

「そりゃあ、そうだけど……」

「好きに使うといい。つーか手切れ金だと思え」

「本当にあんたは自由人だな。羨ましい限りだ」

 三善はそっと“怠惰”に触れ、ゆっくりと深呼吸した。刹那、彼の双眸がまるで炎のように揺らめく。この能力を使うのは五年ぶりだが、自然と身体が覚えていた。頭に流れ込んでくる複雑な数式をひとつひとつ読み解き、片っ端から記憶していく。

 しばらくそうしていると、全て読み取り終えたのだろう。突然三善が長く息を吐き出した。

「なんだこの、めちゃくちゃな能力は! あり得ない!」

「すごいだろ。数式が破綻してるんだぜ」

「ああ、だから脳疲労を起こすのか……。最悪だ。こんなの、普通の人間が喰らったら軽い洗脳状態に陥るに決まっている」

 頭を抱えながら三善が言う。「しかもこれをタチバナに使おうとした、だと? こんなのを使ったら『パンドラの匣』が開いて終わりだ。今このタイミングでそれはない、絶対にない」

「……、あのさあ。もしかして、だけど」

 “怠惰”が呟いた。その声に反応し、三善はのろのろと瞼をこじ開ける。

「君、『パンドラの匣』の正体がなにか、知ってるだろ。“憤怒”に聞いたのか」

 どきりとして三善はその動きを止めた。

 声が出なかった。なんと話せばいいか分からずに、三善はその眼を“怠惰”へと向ける。猫だ。ただの黒猫が、こちらを鋭いまなざしで睨みつけていた。

「――ああ。知っている(・・・・・)

 決して忘れるはずがない。

 あの日、“憤怒”を浄化したとき。

 静かな炎に灼かれる彼女は、抱きしめる何かを欲してゆっくりと両手を伸ばした。橙の瞳が、切に訴えていた。それに答えてやろうと、三善が彼女の身体をゆっくりと、きつく抱きしめてやった。

 ふと、耳元で細い息遣いが聞こえてきた。彼女が――否、“憤怒”が彼女の身体を借り、なにかを言おうとしているのだ。

 ――よく聞け。『パンドラの匣』の正体は、……だ。

「へえ。あーそうか、なるほどね……だから君はあの子供に『A-P』のできそこないを渡したのか」

 三善の言葉に対し、“怠惰”はいくつか首を縦に動かした。三善は何も言わなかった。その代わり、恨めし気に隣に座る猫を見下ろし、小さく舌打ちして見せる。

「じゃあ、悩める姫良三善にもうひとつ助言をしよう。もしも父親と会う機会が今後あるようなら、会った方がいいぞ。絶対にだ」

 三善は怪訝な表情のまま、その言葉の真意を尋ねた。“怠惰”はそれ以上、細かいことは何ひとつ説明しなかった。ただ、やけにさっぱりとした口調でこう繰り返すのだ。

「会った方がいい。もしも迷っているなら、確実に会った方がいい。そしてできれば、『パンドラの匣』も一緒に連れて行くことをお勧めする」

「それは、過去の経験則?」

「それはどうでしょう。俺が言えるのはこれくらいかな」

 さて、と“怠惰”は立ち上がり、小さな体をぶるぶると震わせた。そして大きく伸びをすると、三善へエメラルド・グリーンの瞳を向ける。

「俺はもう行く。一〇〇九四回目の試行が発生しない限り、もう会うことはないだろう」

「ああ」

 三善は短く頷いた。「頑張れよ、兄弟」

「兄弟? これはまた、不思議なことを言う」

「“憤怒”はおれのことを“狂信”と呼んだから。違うか」

 三善の言葉に、“怠惰”は微かに唸って見せた。僅かに逡巡したのち、彼はこのように言った。

「いや、お前の名は“狂信”じゃない。“正義”の方が合っていると思うけど」

 そして“怠惰”――否、黒猫は去っていった。

 三善は猫が消えた夜闇をじっと見つめ、それからのろのろと己の手に目を向けた。見慣れた傷だらけの手がそこにはある。

 唇の端から白い息が漏れ、ゆったりと立ち上っていった。

「……“正義”、か」

 八番目の名を唱え、三善はそっと瞼を閉じた。

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