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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第五章 1

 三善が一方的に語り始めて三日が経つ。

 初めそれを黙って聞いていた帯刀だったが、面会開始時から終了時までの間ほぼ休みなく、三日に渡りひたすら語り続ける三善を見ていたらだんだん悲しくなってきた。その内容もなかなかにひどいもので、順序も法則もあったものではない実に支離滅裂な状態だった。

 それでも初日に比べれば随分とマシになったものだ。初日と二日目の前半くらいまでは、楽しそうに話しているときもあれば突然泣き出したりと感情の起伏もまちまちで、非常に扱いに困る状況だった。しかし、三日目に突入したあたりから落ち着きを取り戻しはじめ、時々自ずから休憩を挟むようになってくれたのである。

 先に帝都に事情を話しておいたのが良かったのかもしれない。ほぼ毎日のように顔を見せる箱館支部の聖職者たちにこんな醜態を見せる訳にもいかず、徹底して人払いをしておいたのだ。おかげで三善も変に気負うことなく喋りに徹することができたようだ。

 それにしても、と今も淡々と話し続ける――今はどうしてか、雅歌のくだりについて妙に丁寧な解説をしている――三善をよそに帯刀は考える。

 帯刀が三善と知り合ったばかりの頃はもっと天真爛漫で、それを周りがきちんと見届けているような雰囲気があったのだが、あの件(・・・)があって以降の三善はとにかく人との接触を避けていた。それは勿論想定外の病気を患ったという理由もあるのだが、その頃からどうも彼は人との対話そのものを諦めていたようにも思う。

 ――今この時、『姫良三善』は必要ない。

 少し前に札幌で会った時のことを、帯刀は今でもはっきりと覚えている。

 だからこそ、今自分の前で言いたいことを全部ぶちまけている様は嬉しくもあった。

 そしてこうも思う。

 彼はすでに「一人きりでいること」に対して覚悟を決めているのだ。

 さて、今日も既に二時間くらい口を動かしていた三善だったが、突然せき込み始めた。帯刀が慌ててボトル入りのミネラル・ウォーターを渡すと、そっと声をかけた。

「少し休もう。まずはこれを飲んで」

「うん、ありがと」

 三善はキャップを開け、ボトルの半分くらいまで水を飲みほした。ふっと息をつくと、キャップを閉めながら帯刀の方を向く。

「それで、だ。話を続けるけど――」

「みよちゃん。ストップ」

 とうとう帯刀が三善の言葉を遮った。「俺は休もうと言った。だから休んで。その代わり俺がしゃべるから、少しだけ聞いていてくれるか。そうしたら退屈しないだろ」

 そう言うと、三善は納得してくれたらしい。彼は小さく頷き、ようやく口を閉ざしてくれた。

 さて、と帯刀は息をつき、彼のやや後方のベッドで大人しく本を読んでいるヨハンへと目を向けた。彼の姿はほとんど見えていないが、その気配でなんとなくなにをしているかは読み取れる。

 ここ数日の三善の長話を聞き続けているのは彼も同じだ。ある特定のワードに触れた時だけ微かに動揺し心拍数が上がるのは分かったが、それ以外は特に妙なこともない。

 昨日、三善が検査のために病室を離れた際に帯刀とヨハンは二人きりで話をした。

 そのとき、ヨハンは三善に話してやったのと同じことを帯刀に説明してくれたのである。

 拠無い事情でケファの身体にトマスの意識を乗せ換えたこと。その際に本人が気を失い、今年になってからようやく目を覚ましたこと。

 それでようやく帯刀は事の次第を理解し、それからひとつだけ彼に尋ねた。

 ――あなたが今このタイミングで姫良三善の前に現れた理由は『アレ』だろう。本当にできるのか。

 ――できるかどうかでなく、やるんだよ。大丈夫、この体の持ち主はもう五年も前から『このこと』に気がついていて、五年後、つまり今の俺たちが最低限楽に動けるように手を回している。俺はそれに乗っかるだけ。本当に、この頭脳は恐ろしいよ。だから殺されかけたんだけど。

 そう言ってヨハンは微かに笑みをこぼした。

 彼は『このこと』について三善にまだ説明していないようだが、たぶん説明したところで言うことを聞かないと踏んでいるのだろう。ならば野暮なことはしないでおくに限る。

 帯刀は暫し逡巡し、ゆっくりと口を開いた。

「そうだな、なにを話そうか……。ものすごくどうでもいいことを話そうかな」

「おれ、あの話が聞きたい。実家の猫の話」

「……、コナツのこと? それでいいの」

「それがいいの」

 喜んで話しますけど、と前置きしたのち、帯刀は実家の飼い猫の話を始めた。ここ数年実家に帰っていないためしばらく会っていないが、とてつもなく可愛いのだ。そんな内容をぐだぐだとしてやると、三善が楽しそうな表情で「それで、それで?」と続きを促してくる。なんだか昔の三善を見ているような気がして、内心安堵しつつ、帯刀は頭の片隅で別のことを考え始めた。

 先日、姉の秋子と春風に連絡を入れ、壬生の所在の予想を伝えている。それ以降彼女らからの連絡はないけれど、特に連絡がないということはうまくいっているということだろう。

 三善が口を開いた最初のタイミングで言っていた「“憤怒(Ira)”が大司教に会わせてやると言い始めた」くだりから、「なんとなく壬生が大司教と一緒にいる気がする」と思っただけなのだが、こういうときの勘はなんだかんだで当たるのだ。

「という訳でコナツは慶馬の背に乗って寝るのが趣味なんだが――」

 そこまで言ったところで、突然帯刀の携帯電話が鳴った。三善とヨハンがいる個室は携帯の使用を許されているため、念のため電源を入れっぱなしにしていたのだ。

 ちらりと帯刀がディスプレィに目を向けると、そこには珍しい名が表示されていた。

「あれ? ブラザーからだ」

 帯刀がブラザーと呼ぶのはホセただひとりである。

 今出るべきか否か。帯刀が少し悩んだのを三善は見逃さなかった。けろっとした様子で、

「出ていいよ」

 とそれを促した。

「ああ、ありがとう」

 失礼、と帯刀が電話に出る。「もしもし? ブラザー、どうした。今『聖都』にいるんだろ」

 電話の向こうでホセは苦笑しつつ、帰国するため空港に移動中である旨を告げた。そして、もしも三善が近くにいるなら代われるかと尋ねてきた。

「ああ、ちょっと待って」

 帯刀はそのまま携帯を三善に渡す。「ブラザーが代われって」

「ええ? あー、やっぱり携帯買わないとな……」

 電話を受け取り、三善が出る。

「はいはい。どうしたの」

『それはこっちの台詞です。早く携帯買いなさい、主に私がめんどくさいから』

 電話の向こうで、ホセは苦笑している。

「外出許可が出たら買うよ……」

 買いに行きたくとも行けないのだ。げんなりとした様子で三善は答える。

「それで? なんの用?」

『ええと、手短にお話しますね。私はこれから帰国しますが、先に本部に行って用事を済ませてから箱館に行くつもりでいます。ですので、二週間後のどこかで時間を下さい。大事な話をします』

「二週間後? ああ、うん。いいよ。空けておく」

『それから、少し大きな(・・・)お土産がありますので、心の準備をしておいてください』

 やけに意味深なことを言われたので、三善は数秒考え、恐る恐るこのように尋ねることにした。

「……おれ名義で壺でも買ったの? 元の場所に返してこい。今すぐ」

『買いませんよ、そんな役に立たないもの……。とにかく、そういう訳です』

 それから、とホセは前置きし、三善にひとつだけ質問を投げかけた。

『これはジョンからの質問でもあるんですが』

「うん? なにかあった?」

『因果律を再構築する釈義って、実現可能ですか』

 なんだか妙な質問をされた。

 三善は少し考え、このように返す。

「えーと。因果律って言っても種類があるけど、どれについてコメントすればいいの。デカルトの話? それとも物理的な話? 前者を指すならおれに聞くよりご高名な神学者に聞くのがいいんじゃないか。後者を指すなら、おれは無理だと思う。光の速さを超える情報の伝播はどうやっても存在し得ないからだ」

『ああ、そう言われるとどの意味でしょう……。たぶん、単に相対性理論の話をしたいだけだと思うんですが』

「なるほど。それなら後者と考えるのがいいと思う。無理。以上」

『ですよね。変な質問をしてすみませんでした』

 珍しい質問内容だったので、三善は不思議に思いながら曖昧な返事をする。そうしているうちに、ホセは気が済んだらしい。さて、と電話を切ろうとする素振りを見せた。

『何か食べたいものはありますか。日持ちのするものであれば持っていけますよ』

「まだ聖都にいるならシランを一瓶買ってきて。小さいのでいい」

『はいはい。ヒメ君はあのシロップ好きですもんね。じゃあ、切りますよ』

「おう」

 終話したのを確認し、三善は帯刀に電話を返そうとした。しかし、ちょうどその頃帯刀は別の電話に出ていたようで、なにやら神妙な面持ちで話していた。しばらく待っていると、彼にしては珍しく興奮した様子で、

「秋子姉でかした! さすが!」

と言い始めたので、どうやら電話の主は彼の姉らしいということまでは分かった。

 三善がヨハンへ目を向けると、彼は今まで読んでいた本を閉じ、帯刀の電話へ意識を集中させていた。たまたま三善と目があったので、彼は微かに苦笑して見せた。

 そうしているうちに帯刀が電話を終え、終話ボタンを押した。それからふたりへと向き直る。

「ちょっといいか。少し大事な話をする」

 帯刀が言う。「大司教の居場所を掴んだ。というか『捕まえた』」

 三善とヨハンはその瞬間、目が点になった。――今、彼はなんと言ったか。何か変なことを言わなかったか。

「えっ?」

 思わず問い質すと、帯刀は珍しく歯切れの悪い返事をしてくる。

「もっと言うと、ごめん。どうも俺の父が連れ回していたらしい」

 ということを踏まえて、と帯刀が話を続ける。

「とりあえず彼らを連れて帰国させることにした。うちの実家でしばらく匿う予定でいるけど、どうする」

 会いたいか? と帯刀が短く尋ねた。

 三善はじっと押し黙り、それからのろのろと口を開く。今までの様子からは想像もできないほど慎重な声色で、たった一言呟いた。

「……会おうと思えば会えるということか」

「ああ。でも、この前俺が言ったとおりだ。みよちゃんが別に会いたくないなら会わなくていい。ここでは客観的な損得を一切排除してほしい。みよちゃんの主観だけで、会いたいかどうかを判断して」

 そして帯刀はヨハンへと目を向ける。

「そっちも同じだ。もしもふたりが会いたいと言うなら、彼らには一度箱館まで出向いてもらうつもりだ。そうでなければ彼らには碇ヶ関(いかりがせき)の実家まで直行してもらい、それに合わせて俺も一度実家まで戻る」

 とはいえ、どのみち彼らが日本に到達するにはまだ多少の猶予がある。今すぐに返答する必要はないのだ。

 その旨を説明すると、唐突にヨハンが口を開いた。

「俺はどちらでもいいかな。ここから先、俺が大司教に接触するか否かは今後の話に影響しないから」

「そうか。じゃあ、みよちゃん。少し辛いだろうけど、二日くらいで決めてくれ」

 三善はゆっくりと頷き、それからぽつりと呟いた。

「……うん。少し、考えさせてくれ」

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