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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第四章 1

「で、これが伝書鳩ならぬ伝書鷹」

「普通にメールじゃあ駄目なの?」

「郵便制度ってものを考慮してもいいのでは」

 数日後、三善の元に集まったロン・リーナ・橘の三名は、彼の肩にとまり瞳を閉じている鷹を目の当たりにし、このようにコメントした。

 三善は小さく息をつくと、肩で大人しくしている鷹の嘴に触れた。

「メールも郵便も足がつくからなぁ。あれ? もしかしてロンもリーナも初めて見る? 橘が知らないのは分かるとして、おれが赴任してから何度か使っているはずなんだけど」

 知らない、とふたりが同時に首を振ったので、三善は再び肩を落とす羽目になった。

 三善は一旦鷹からバッテリーを外し、ドライバーで腹部を解体した。そしてUSBケーブルを用いてノートパソコンと接続すると、エディタを立ち上げてデータを書き換え始める。

 その間、ロンもリーナも「どうせ分からないから」と洗濯物をまとめたりお茶を淹れに行ったりしている。橘だけが、三善の横でずっと流れる記号の羅列を見つめていた。

「――あのさあ、タチバナ。もしよければ、お前にこれをあげようかと思うんだけど」

「俺に?」

 この、鷹を? と目を丸くしたので、ばつが悪そうに三善は眉を下げた。

「きちんとした技術者がつくったものじゃないから、溶接も下手だし綺麗じゃないし、色々粗末なんだけど。おれはしばらく入院だし、お前の側にいてやれないだろ。だからそれまでの護衛みたいな感じで……その。嫌ならいいんだけど。そもそも鳥が好きかどうか全く分からないんだけど、そのへんどう?」

「いや! 有り難く頂戴します! 鳥は好きですし」

「そっか」

 ありがとう、と三善が笑うと、橘もおどおどしながらも笑った。どうやら彼は「自分のせいで三善が怪我をした」と思いこんでいるようだ。

 それは違う、怪我をしたのは自分の不注意だと説明をしたところで、彼は決して譲らないだろう。だから三善は敢えて何も言わないし言わせようともしなかった。そもそも、言葉にすれば残酷だと分かるものも存在する訳で。

 少なくとも『A-P』を橘の近くに置いておけば、なにかあってもすぐに察知できる。三善は心のどこかでそのように確信していた。

 通常『A-P』は認証鍵として使用者の肋骨を一本入れることにしている。しかし、遊びで作った範囲の代物にそんな大層なものを入れる訳にもいかない。だから三善はほんの少しプログラムを書き直し、橘の声だけで操作できるように改造することにしたのだ。それくらいなら元々搭載されている機能に手を入れるだけで済むので、さほど難しくもない。

 三善は橘にミニマイクを渡し、いくつかの指示語を話してもらった。それらをデータベースに登録してやると、作業は完了する。

「よし、じゃあこれは今日からお前のものだ。デバッグはしていないから、おかしな動作をするようだったら教えて。すぐ直すから」

「はっはい。……あの、センセ」

 橘が言う。「名前、つけてもいいですか」

 構わない、と頷くと、橘は嬉しそうに目を輝かせた。

 ああ、そういえば彼の姉である雨も物に名前をつける性質だったなあ、と三善は思う。

 どうしよう、と呟いた橘が、ふと思い立ったらしく顔を上げた。

「じゃあ、ええと。ユズ」

「ユズ?」

「うん。前に飼っていた犬の名前なんです」

 犬を飼っていたのか、と尋ねると、橘はゆっくりと首を縦に振った。

 彼曰く、土岐野家は愛犬家だそうで、これまでにも何匹か飼っていたらしい。ユズはその三代目、柴犬だったそうだ。とても橘に懐いていて、散歩が好きで、それからよく食べる犬だったと橘は楽しそうに言う。

「そっか。じゃあそれも覚えさせておくよ。簡易的なものとはいえ、結構賢く作ったつもりだから。いい相棒になると思うよ」

 三善は橘に簡単に使い方を教えると、橘はすぐに覚えてくれた。飛ばさずにできることをひとしきりやってみせたのち、

「面白い」

 目をきらきらさせながらそのように言い放った。

「タチバナってこういうの興味ある?」

「こういうのって、プログラミングとか?」

「そう」

 三善の問いに、橘は微かに悩んで見せ、それから、

「……うん、嫌いじゃないです。やったことがないからはっきりと言えませんが」

「十分だ。よければ触ってみる? このまま端末貸すよ」

 ほら、と三善は橘にノートパソコンを渡す。「アカウントは好きに作っていいし、必要なものは全部入っているから」

「え、でも、」

 橘はごにょごにょと、歯切れの悪い口調で何か言っている。「壊すかもしれない」

「壊したら直せばいい。タチバナが勉強になるならそれでいいよ」

 そこまで言われると橘も引き下がる訳にはいかず、結局ノートパソコンごと持ち帰ることとなった。

 橘が鷹――ユズと共に病室を出て行くのを、三善はひらひらと手を振りながら見送る。そして重い引き戸が完全に閉じられた瞬間、その表情ががらりと変わった。

 諸々の仕事を終え戻ってきたロンもリーナも、これには驚いた。二人は近くの椅子に腰かけながら、ためらいがちに話を切り出す。

「それで……みよさま。どうして俺たちを呼んだの。その、傷のこと?」

 ああ、と三善は頷いて、右手で腹部を擦った。今はそこまで痛くないが、痛み止めが切れるとまた地獄なのだ。よほど傷が深かったのだろうとは思うけれど、三善は敢えてそれについては触れないでおくことにした。きっと隣のベッドで飄々としている『彼』ならば具体的に教えてくれるだろうが、そんなことで小さなトラウマを増やしたくなかった。

「ブラザー・帝都には、この傷のことは“大罪”にやられた、ってことにしてあるんだけど。正確にはちょっと違う。おれ、あの時“憤怒(Ira)”第一階層に拉致されていてさ」

 予想外の告白に、ロンとリーナはぎょっと目を丸くした。当然、事件当事者のヨハンはベッドの向こうで平然としている。

 ロンがそれを横目に確認していると、ひどく動揺しているリーナが声を荒げた。

「じゃあ、三善君。“憤怒(Ira)”は――」

「ああ。浄化したよ」

 だけど、と三善は付け加えた。「いろいろと予想外、というか」

 すべてを話す訳にもいかなかったので、三善は暫し逡巡し、一度話を整理することにした。その様子に、ロンはぽつりと尋ねた。

「隣の彼のことは」

「ん、気にしなくていい。彼は『当事者』だ」

 よし、と三善はようやく顔を上げ、事の次第を説明し始める。

 肝心なところは省きつつも、三善が“憤怒”に拉致されたこと、どうやら現在の“憤怒”は“怠惰”と共に行動していたらしい、ということを伝えると、ロンとリーナは納得したように首を縦に動かした。

「それとは別の話になるけど、この間ブラザー・ジョンから連絡があった。本州第七区・菖蒲十条(あやめじゅうじょう)市、第四区・東西(やまとかわち)市に塩化現象が発生したらしい」

 それを聞いてロンが「うん?」と首を傾げてきた。何か腑に落ちないことがあったようだ。

「アヤメジュウジョウと、ヤマトカワチ? そこって確か『聖戦』の時に国内で唯一“七つの大罪(DeadlySins)”が手を出した地域だよね」

「ああ、その通りだ。『聖戦』の時に狙われたのは聖所があることが理由だろうけど、今回の件とどう結びつけていいのか正直分からん」

 さて、どうしたものだろうと三善は二人に問いかけた。

「『塩化』も根本原因を突き止めないといけない。この流れだと、おそらく次は箱館の番だろう」

 現に、今の箱館には橘がいる。彼の存在が今後どういう影響をもたらすのか想像がつかない以上、迂闊なことはできない。少なくとも、これだけは言える。

 彼に『その光景』を見せてはいけない。

 それを見せたら最後、橘は御陵市の件を思い出してしまうだろう。その瞬間に彼が今の彼(・・・)ではなくなってしまうのではないか。三善は漠然とそう思っていた。

 三善はゆっくりと息を吐き出す。

「とにかく、この付近に“怠惰”がいるのは本当らしい。ロン、支部に戻ったら科学研に行って、なにかいい案がないか考えてもらってよ。リーナは何が起こってもいいように、いつでも釈義を使えるようにしていて。本部に連絡して臨時でプロフェットを派遣してもらえるようにしておくから」

 それと、と三善はリーナへ向けて声をかける。

「ごめんな、いつも負担かけちゃって。もっと楽させてやりたいんだけど」

 あとはおれがなんとかするから、と呟くように言うと、ふたりはゆっくりと頷いた。

 その後二人はすぐに支部へと戻って行き、元の静寂が病室を包み込んだ。

 重い扉が、閉まる。

 今この空間は三善とヨハンの二人だけのものとなった。時計の針が動く微かな音だけが聞こえている。

 三善が横になろうと身体を動かしたとき、ヨハンがぽつりと囁いた。

「あの方たちには、『匣』のことは言っていないのですね」

「……、うん。言える訳ないだろ」

 しばらく衣擦れの音だけがしていたが、やがて、それはぴたりと止んだ。


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