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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第三章 5


 その後三善はもうひと眠りし、夕方頃にようやく覚醒した。

 自分でナース・コールを鳴らすと、しばらくののち帝都自らやってきた。そこで軽い問診を受け、腹の傷以外は特に問題がなさそうだと分かると、帝都はようやくほっと肩を撫で下ろす。

「念のため、明日精密検査を行いましょう。それにしてもあなたときたら、熱を出したかと思えば今度は大怪我して帰ってきて。子供ですか。ブラザー・ヨハンに感謝するんですよ。あのひとがいなかったら、あなたは完全に失血死していたでしょうから。そもそも自分が珍しい血液型だと分かっているなら、なるべくそういう事態を招かないようにしてください」

 それから、あれから、と帝都の長いお説教が始まった。大好きな優しい表情を浮かべた彼は、たいていその直後に嫌いな小言を口にするのである。しかし慣れたものなので、三善はほぼ上の空で、時折聞いているふりをしながら適当に相槌を打っている。それも実にタイミングよく、ああうん、そうねえ、と。

 見兼ねて隣のベッドで内職をしていた――九条神父が勤める教会の入り口には、聖典の一節が書かれたおみくじが置いてある。彼は印刷してもらったおみくじの紙を一枚一枚折って、シールで留める作業を行っていた――ヨハンが、目線は手元に向けたまま声だけを帝都へと投げかけた。

「ブラザー・テイト。司教(ファーザー)はどこかよその国に行っているみたいですが」

「あってめっ、ヨハン!」

 やはり聞いていませんでしたね、と帝都は嘆息を洩らし、目を泳がせている三善に声をかけた。

「どうせ年寄りの小言ですから、聞いていなくても全く気にしていませんけど。三善君、私はこれから一旦支部に戻ります。なにか欲しいものはありますか?」

「欲しいもの? ええと、」

 そう尋ねられ、何かあっただろうかと三善は考える。着替えはあるので、せいぜい財布、筆記用具、印鑑、朱肉くらいだろうか。頬に手を当てながら、ふと思いついたものを伝えた。

「おれの自室に携帯が一台置いてある。あれを持ってきてほしい」

「普段使っているものではなく?」

「ああ。あまりに古すぎて型落ちしたやつ」

 そう伝えると、帝都はゆっくりと首を縦に振る。にこりと笑うたびに目尻に皺が寄り、ああ、このひとも相当歳だなぁとばんやりと考えてしまった。年上に丁寧語を使われること自体はすっかり慣れてしまったが、やはり違和感があるものだ。

「……ああ、そうそう。ついさきほどブラザー・ホセから連絡を受けまして」

 そこでなにやら思い出したらしい帝都は、ぽんと胸の前で手を叩いた。

「ホセから? 直接おれに言えばいいのに」

「電話が繋がらないからって言っていましたよ。だから支部に連絡してきたみたいなのですが」

 ああなるほど、と三善は納得した。例の件で私用携帯はまっぷたつになり、再起不能の状態にあるのだ。入院している以上買いに行くこともできないし、人に頼むこともできない。もう一台の番号はホセには教えていないので、完全になすすべのない状態に陥っていたのだった。

「それで、あいつはなんだって?」

「『今すぐそちらに向かいたいところですが、ちょうど所用で聖都にいるので当分は帰国できません。私がそちらに行くまで、ちょっとした遣いを寄越します』と。それだけ言えば分かる、と仰っていましたが」

 分かるかい? と帝都が尋ねてきたので、三善は曖昧に頷いた。

「遣い、ねぇ……。まだ使えるんだろうか、アレは」

 帝都に窓を大きく開けるよう頼むと、三善は左指で小さな輪を作る。そしてそれを口元に当てた。

 ひゅううん、と、高らかな音色が彼らの耳を貫いた。――指笛である。

 はじめ帝都もヨハンも一体何のことだかよく分からないといった様子で首をかしげていた。ただ、その音色は夕暮れの彼方に消えてしまっただけだ。しばらく張り詰めた空気が病室を満たしていたが、何かに気が付いた三善は声を上げる。

「お、来た来た」

 すぐに帝都に窓から離れるよう指示を出すと、彼はその右腕をまっすぐに伸ばす。

 その時だった。

 びゅん、とかまいたちの如く素早い「何か」が窓から飛び込み、三善の右腕に留まった。大きな翼をぱたぱたと何度か震わせると、その「何か」はゆっくりとそれを折りたたむ。

 その正体は、鷹だった。

 三善は「お疲れさん」と声をかけてやりながら、その鷹の嘴をそっと人差し指で撫でてやる。鷹は三善に随分と懐いているようで、甘えたように目を細めている。

 一体何が起こったのか分からずに、帝都とヨハンは思わず目を剥いた。

「あの、司教(ファーザー)

「三善君、それは? 鷹匠だったの、君」

 そんな二人をよそに、三善はけろっとした様子で鷹の首に巻きついている暗い色をした首輪をいじっている。よくよく見てみると、その首輪には大聖教の印が入ったプレートが付いていた。つまり、これは大聖教公認の所有物ということだ。

 三善は小さく首を動かし、ぽつりと言った。

「ただの『A-P』だよ。ああでも、これは……おれが本部勤務だったときに遊びで作って、そのままにしていたやつだな。ジョンが改造した跡があるけど、あのひとは一体何を仕込んだんだか」

 さも当たり前のような口ぶりだが、なんだかとんでもないことを言っている気がする。

 そもそも『A-P』を遊びで作るというその部分が信じられない。あの仕組みは専門の技術者でもなかなかに理解し難いものがある。そんな大それたものを、一年そこら勤務しただけで軽々と作れるレベルまでになっていたというのか。

 我が子とも言える鷹と戯れている本人をよそに、また新たな三善最強説が二人の間に浮上していた。

 そうしているうちに、三善は鷹から首輪を外し終えていた。銀色のプレートにはいくつかのボタンと小さなスピーカーが付いている。その正体をようやく理解したらしい三善、一番端についている再生ボタンを無造作に押した。

 すると、機器の真横についているランプが緑色に光り、ばかでかい声が聞こえ始める。

『あ……あーあー。録れてるかな。おーいチビわんこ! 俺だ、元気かー』

 やたら呑気な男性の声が聞こえ、思わず三善は脱力する。

「チビわんこじゃねえよ、もう。しかも新手の詐欺か」

『チビわんこじゃねえよ、って言ってそうだな。言い返す元気があるなら大丈夫だろう。“大罪”に腹を刺されたんだってな。司教失格。そもそもお前は根本的に注意力が足りない、覚悟も足りない。どうせまた最後でためらったんだろ』

 痛いところを突かれ、ぐっと押し黙る三善。その横で帝都は「あの司教を黙らせている」と声の主に尊敬の念を示し、ヨハンはと言えば何とも言えない複雑な表情をしていた。

『お前は良くも悪くも優しいからな、それが命取りになるってことを身を以て理解したんじゃないかと、まあ期待しておく。さて、お説教はここまでだ。本題に入る。チビわんこ、お前が寝てる間にちょっと大変なことになったぞ。例の“塩化”が別の場所で発生した』

 思わず心臓が跳ねた。

 例の“塩化”――すなわち、御陵市の一件だ。まさかとは思うが……、と三善は脳裏に彼の姿を思い浮かべていた。

 橘だ。

『パンドラの匣』が何かの拍子に開きかけたとでも言うのだろうか。

 焦燥感に駆りたてられている三善の耳に、ジョンの言葉が焼きつけられてゆく。一字一句忘れぬように、ありったけの集中力を費やしているようにも見えた。

『場所は本州第七区・菖蒲十条(あやめじゅうじょう)市、第四区・東西(やまとかわち)市。どちらもまだ小規模で人的被害はないが、ただ、土地は塩害でだめになっているみたいだ。今はジェームズが対応に回っている。もしかしたらお前のところに送った黒猫の少年にも何か異変が起こっているかもしれない。こちらでも対策は練っているが、最悪の場合、俺たち“十二使徒”はお前の元へ集まらなきゃいけないだろう。チビわんこ、覚悟しておけ。以上』

 十二使徒の、召集――。

 三善はしばらくその無表情のままじっと、鷹が身に着けていた首輪を見つめていた。録音データはそれで終了らしく、緑のランプは数回点滅したのち、ふっと消えてしまった。

 そのままじっと、三善は黙っている。まるで彫像にでもなってしまったかのようだ。

 ヨハンも帝都も彼の様子を窺いつつ、思考の邪魔にならぬようただただ静かにしているしかなかった。時折聞こえる鷹の機械音だけが静かに響く。

 おもむろに三善が口を開いたのは、それから間もなくのことだった。

「……帝都。申し訳ないけれど、少し席を外してもらえるかな」

 帝都は短く返事すると、速足で病室を後にする。引き戸の硬い回転音が完全に停止したのち、三善はヨハンへと視線を向ける。

 ヨハンは相変わらず、内職に勤しんでいた。いつもの穏やかな表情ではなく、どことなく哀愁を帯びた目線をじっと己の指先に向けている。

「悪い。騒がしいだろう」

「いいえ。構いませんよ」

 それより、と彼は遠慮がちに呟いた。ようやく、今まで動かしっぱなしだった彼の指先が止まる。三善は静かに口を閉ざし、彼の次の言葉に耳を傾けた。

「……私は、ここにいてもいいのでしょうか」

 その時の彼の表情は、なんとも言い難いものだった。

 三善には、何となくその意味が単純に「この場所にいてもいいのかどうか」というものだけではないような気がしたのだ。根拠は全くないけれど、その一言はきっと簡単に聞き流してはいけないものだ。

「好きなだけいればいい。おれはあなたの存在を否定したくない」

 だから三善はこう答え、小さな鷹の頭を撫でた。

 逆に目を見開いたのはヨハンの方である。この返答に随分と驚いたのだろう。すぐに三善へとその紫色の瞳を向けたが、三善の目は銀のプレートに向けられたままで、こちらを見ようとはしなかった。

 それと、と三善が消え入りそうな声で呟いた。

「――おれは、あなたのことをとてもよく知っている」

 ヨハンの肩が微かに震える。

 三善はのろのろとそのまなざしをヨハンに向け、そっと呟いた。

「ケファ。……いや、これは正しくないな。今のあなたはトマスだろうか」

 暫しヨハンは呆けたまま三善の紅い瞳を見つめていた。暫しの逡巡ののち、彼は微かに口元を緩ませて見せる。

「やっぱりお前は騙されないんだな」

 そのフレーズは過去に何度も聞かされたものだ。三善は肩を竦めると、背中を枕に押し付け楽な体勢をとる。

「ケファの身体を乗っ取っておきながらよく言うよ。しかも“憤怒(Ira)”戦の時、完全にボロが出ただろ。俺が知っているトマスは、それほど詰めが甘くなかったと思うけど」

「あー、そうね。あれは完全に『あいつ』のせいだからな……」

 そこまで言いかけて、ヨハン――否、トマスは長く息をついた。その様子に三善は詰問するような口調で問いかけた。

「ケファは死んだんじゃなかったの」

 ああ、とトマスは頷き、左手の親指を立て自分を指して見せた。

「結論から言うと、生きている。この身体が証拠だ」

「でも、飛行機が……」

 あの日、ドイツに向かおうとしていた彼は飛行機事故に巻き込まれてしまったはずだ。助ける余地なんかどこにもなかったはず。なぜこのような結果になったのかが理解できない、といった風だ。

「だから、あの日俺が助けたの。正確には、コイツがそう願ったから生かしてやった。体と引き換えにね」

 そもそも、とトマスは顔を上げる。「お前、“大罪”第一階層が“弾冠(シュート)”を用いて代替りをするときに何が起こるか知ってる?」

 三善は即答した。

「本人の人格が上書きされるんだったか」

「そう。脳科学的に言うと、認知とそれを軸とする行動基盤を『上書き』する、の方が正解かな。ここでは敢えて『意識』と呼ぶことにする。しかし、それをやってしまうとこの体の持ち主本来の『意識』が壊れてしまう。だから本人にお伺いを立てた訳。飛行機が海に墜落したときに」

 そう。確かにあの飛行機は墜落して、多数の死者を出した。それは事実である。彼の記憶の中にも、確かに記憶として残っている。


 ――流れに翻弄されつつ宙を仰ぐと、己の唇からこぼれ落ちる銀の水泡と共にきらめく白金の天井が見えた。混じりっ気のない、無垢な光である。その光は雲の間から降りる天使の梯子のように細い帯となり、水流によりかき乱された。

 がぼ、と妙な音がした。口の中に海水が侵入したのだ。塩辛い味と氷のような冷たさが一気に身体に流れ込む。

 その時ようやく、己の中に恐怖という名の感情が浮上してきたのだった。

 最高のディープ・ブルーの中、沈んでゆく身体。

 まだ、ここで死ぬ訳にはいかないのだ。

 わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし――

 その時、伸ばした手に触れるものがあった。同じ人間の掌だった。驚きその正体へ目を向けると、彼は銀の光彩を纏う不思議な眸で、こちらをじっと見つめてくる。

 まだ、ここで終わってはいけない。そんな声が聞こえた気がした。

 己の手を必死に伸ばし、なんとかその掌を掴む。

 やれ、と声にならない声を上げた。


 この瞬間、沈みゆくケファ・ストルメントの身体に対しトマス・レイモンは“弾冠(シュート)”を行使し、自己の『意識』を無理やりねじこんだのだった。


「俺の体はもう腐っちまって使いものにならなかったしな。ただひとつ誤算だったのが、『上書き保存』でなく『名前をつけて保存』みたいなことをしたものだから、一時的に脳のキャパが越えて本人が気絶しちまったことくらいだ。だから向こうを責めないでやってくれないか。あいつが起きたのは今年の八月八日だからな」

 あいつはまだ勝手が分からないんだ、と付け加え、トマスは口に煙草を咥えた。火を付けずに、ただ咥えているだけである。

 三善はじっと押し黙り、何かを逡巡しているようにも見えた。

「つまり、トマスは同じ飛行機に乗っていたんだね」

「ん? ああ、まあな。そのときはさらに別の体――本物のヨハン・シャルベルの身体を使っていたが。『前回』のこともあったから警戒しておこうと思ったらこれだよ、まったく」

「『前回』?」

「そう、今回、お前も知っている『一〇〇九二回目』とまったく同じことが起こったんだ。ケファ・ストルメントは、理由こそ違えど同じ手段で前回命を落としている。だから出国するまでの一カ月間、ずっと張り込みさせてもらっていた訳ですよ。何かあったらいつでも助けられるように、って。少しは俺のことを見直してくれると嬉しい」

「そう。……そうか、うん。事情は分かった」

 三善は何度か頷くと、もう一つ尋ねた。

「おれの声って、今『あのひと』に聞こえるかな」

「大丈夫、聞いているよ。なんなら代弁してやってもいい」

「そうか。じゃあちょっとだけ、『あのひと』に向けて話すよ」

 トマスが困り顔で頷いたのを見て、三善はその双眸をいっそう鋭くした。

「この際はっきり言う。ケファのバカ! 大嫌いだ!」

 その言葉にはさすがの彼も驚いたらしい。微かに動揺の声を上げたが、三善はそれを完全に無視し、より語調を強くする。

「車の運転だけじゃなく、嘘までへたくそなんだから。本当に、最悪だよ。こんなにひどい人は見たことない! いまさら何しに来たんだよ。五年も経っちゃっただろ。おれ、成人しちゃったし、司教にも昇格しちゃったよ。今やここの支部長だっつーの。そもそもあんたの墓標、すんごい立派なやつ、奮発して建てちゃったじゃないか。わざわざ渡仏してさあ! あれ、どうしてくれるの。いや、確かに中身は入ってないけど! ものすごく無意味なことしちゃったじゃん! 無意味と言えば、二日前の熱だって出さなくてよかったし、情けないくらいぐだぐだ悩まなくてよかった訳だ。おれの悩んだ分の時間を返せ! つーかあれだろ、あの日枕元にいたのケファだろ!? なぜ起こさなかった! まるで! 意味が! 分からない! その気がないなら思わせぶりなことするんじゃねぇよ! ああもう、遅い遅い、遅すぎる! 全てにおいて遅すぎるんだよ!」

 怒鳴ったことで腹の傷が微かに痛んだが、そんなことは関係なかった。三善はそれ以外にも数分に渡り怒りと不満をぶちまけ、さすがのトマス――否、もしかしたら本人かもしれない――が呆れ始めた頃。

 三善はふっと笑い、それから囁くような細い声で言った。


「――おかえり」


 こんな状況でなければ、もっと別の結末があったかもしれない。

 それでも、今言わなければならないことがあって、今やらなければならないことがあった。ふたりの時間の埋め合わせは、それからでもいい。

「おれからは、以上。今後おれからはこの話はしないことにする。あなたはヨハン・シャルベル。そう扱わせてもらう」


 今、この瞬間。

 三善の中で、彼に対するひとつの結論が出たのだった。

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