第三章 3
肌にまとわりつく湿気にひどくうんざりしていた。
べったりと背に張り付く服の感触が気持ち悪い。それでも喉だけはカスカスに渇いていて、唾の奥に張り付いた感触がある。
三善はゆっくり瞼をこじ開け、細く長く息を吐き出した。
釈義を展開した後のだるさと熱が全身を駆け巡り、思考がぼんやりと靄がかかっている。その視界に映るのは、血で赤く染まった聖職衣の袖と、灰色をした薄汚い床のみだ。釈義を展開したときに手袋も拘束具も適当に放ってしまったので、今は白い掌がむき出しになっている。それに色を添えるように、ところどころ赤い裂傷の華が咲いていた。左手をゆっくりと右腕に滑らせると、さきほど受けたはずの傷はどこにもなかった。ただ、右側の袖だけが真っ赤な水滴を吸いこんで重たくなっているだけである。
それから彼は視線を真上へと向けた。骨組がむき出しになっている天井は、床と同様、くすんだ灰色をしている。埃っぽさも変わらない。視線を真正面に戻し、今度は全体の広さを確認しようと首を動かした。どうやら、元々はなにかのテーマ・パークだったらしい。あちこちに色がはげた遊具が無造作に積まれている。風化した金属の人形や、馬。それらが死んだ魚のような眼光でこちらを睨んでいた。
「――」
動こうかと思ったが、身体が重くて思うように動けない。
――否、身体というよりは右足だけが猛烈に重いのだ。見ると、その右足に何か金属らしいものがまとわりついていた。その金属に触れると、緑の火花が散った。その光に視界を奪われ、思わず三善は目を背ける。
この金属が体のだるさの原因だろう。奈何せん、鉛でも練り込まれているかのように重い。念のため解析でもして成分を解析した方が、とも思ったが、唐突にロンの存在を思い出したので止めた。火花が散ったということは、ほぼ間違いなく“大罪”が関わっているということだ。ならばあまり下手に触らない方がいい。
次に三善は左耳・胸元を探り、愛用品の十字架を確認した。イヤー・カフも、銀十字も、確かに所定の場所にあった。それだけで、なんとなく安心する自分がいる。
「……ここは、どこだ」
そこでようやく、彼は普通一番初めに考えるであろう疑問にたどり着いた。
記憶によれば、確か一角獣に連れ去られたはずなのだ。何でそんな目立つもので……などと文句のひとつも言ってやりたいものだが、そこを追及したところで結果はさほど変わらない。
そこまで荒っぽいことをせずとも、ちゃんとした手順を踏めば話をするくらいの対応はするのに。
そう考えていると、静かに扉が開く音がした。
「あら、お目覚めのようね」
女性の声だ。のろのろと顔を上げると、東洋人の女性が口元に笑み湛えながらこちらに歩いてくるのが見えた。腰までの長さの黒髪は癖一つなく、すらりと細身の体に纏う漆黒のワンピースがとてもよく似合う。瞳は橙色である。変わった色をしている、と三善は思った。
珍しいものをじっと見すぎる傾向にある三善、今度ばかりはさすがにまずいだろうと判断したらしい。さりげなく目を逸らし咄嗟に『いい子の仮面』を被ると、気持ち悪いほどに穏やかな口調で言った。
「ええ。おかげさまで、とてもよく眠らせてもらいました。お気遣い感謝します」
「喜んで頂けて光栄ですわ」
彼女が破顔する。一般的に言う美人に該当するその顔立ちは、街中で見たら誰もが振り返るほどだ。このような完璧な笑顔を向けられたら、一瞬で心を奪われてもおかしくはない。
そう、これが普通の状況ならば。
「ええと、」
言葉に窮して、三善はちらりと己の足首で光る金属に目を向ける。「あなたは、おそらく“七つの大罪”の誰かだとは思うのですが……。どちらさまでしょうか」
確かめるように、三善は尋ねた。彼女はゆっくりとした足取りで彼に近づき、三善に密着するくらいの距離に膝をついた。彼女は眉を下げ、哀しそうな表情を浮かべていた。
「……あなたは分からないのね」
「記憶によれば、あなたは私の知っている彼らとはまた異なる容貌をしています」
そう、と彼女が呟くと、その細く長い指を三善の頬に沿わせた。僅かに見えた爪は丸く、桜貝のようである。柔らかな指先でゆっくりと滑るように撫でると、その親指が最後に行き着いたのは三善の唇だった。
女は唇の端に艶めかしさを湛え、そして瞳に怒りの炎を燃やす。
「これでも、私たちは血を分け合った兄弟のようなものなのに」
ぞくりと、体中の毛が逆立つような感覚が襲う。
その言葉の意味を考えるよりも前に、三善はその殺気にも似た気配に思わず頬を引きつらせた。まずい、と脳裏で警鐘が激しく鳴り響いている。三善は必死になってその気配から心当たりのある人物を思い浮かべ、ゆっくりと唇を動かした。
「“憤怒”、か?」
「あたり」
ふふ、と彼女――“憤怒”は声を漏らし、そして三善の身体を強く抱きしめた。
「前の身体は聖クリストフォルスに壊されてしまったから、『今のあなた』に会うのは初めてね。あなたのために、ようやく拒否反応の出ない身体を見つけたの。わざわざ綺麗な体を探したんだから感謝してよ。綺麗な人、好きでしょう?」
「……そうか、代替わりね。ならば顔を知らないはずだ」
苦笑しつつも三善は彼女の様子を探る。抱き付かれているため顔は見えないが、すぐに殺すつもりはなさそうだ。しかし、なるべく失言はしない方がよいだろう。彼女をむやみに刺激しないよう、三善は慎重に言葉を選ぶことにした。
「もうひとりはどうした? 一緒じゃないのか」
「うん? どうしてそう思うの?」
「足枷の火花の色が君のものと違う。おそらく君は“怠惰”と一緒のはずだ」
彼女はそのままぴくりとも動かなくなった。おそらく自分の頭の後ろの方で目を剥いているのだろう。
三善は様子を窺いつつ、彼女の両肩に手を乗せ、ゆっくりと引きはがした。こういう、パーソナル・スペースを無暗に縮めてくる人間は正直苦手なのである。“大罪”を人間と定義するかという点で多少の議論が起こりそうだが、少なくとも三善の中では同じカテゴリに分類されていた。よって、彼女もまた例外ではない。
「そう、ね。“怠惰”は確かに一緒にいたけど、今ここにはいない」
「そうか。分かった」
怠惰のアトリビュートは『緑の弓』。ほとんど出くわしたことはないけれど――おそらく、本人がその名の通り惰性で生きているからだろう――、確か“怠惰”は七種類の中でも珍しい能力を使うはずだ。何せ、彼のアトリビュートである弓は『弓矢』の弓ではなく、『楽器』の弓なのだ。戦闘要員でないことは明白である。
それならば戦闘特化した“憤怒”と共に行動する理由も理解できる。しかし、まだ納得がいかない。そもそも“憤怒”は今回の遡行では単独行動をしていたはずなのだ。何故今更『終末の日』否定派の“怠惰”と共に行動しているのだろう。
三善はしばらく考えて、その目を彼女へと向けた。
「おれをわざわざ眷属の一角獣まで使って連れてきたってことは、あれか。『契約の箱』の話でもしたいのか。無駄だ、あれをおれ自身の意思で開ける日が来ることはない」
「別にあなたがあなたの意志で『箱』を開ける必要なんてない。今回もまた『終末の日』は訪れる。……でもまぁ、今日の私はそんな話をするつもりなんかないのだけれど」
彼女の目は笑っていなかった。口元だけがつり上がり、奇妙な表情を浮かべている。
「あなた、ヨハネスに会いたくはない?」
心臓が跳ねた。
今、彼女はなんと言っただろうか。三善は咄嗟に理解することができず、ただただ呆けた表情を浮かべるしかできなかった。
「ヨハネス……?」
「あなたと私のお父様じゃないの。忘れるはずなんかないくせに。あなたが会いたいと願うなら、会わせてやってもいい」
そう思ったの、と“憤怒”は言い、妖艶な笑いを戸惑う三善へと向けた。
「ちょっと待て。確認させてほしい。あの人の所在を知っているのか」
しかし彼女は、肯定も否定もしなかった。質問が直球すぎるのがいけないのかと三善は思い、さらに頭を捻った。
「質問を変える。会いたいと望めば、本当に会わせてくれるのか」
「ええ。それは、できる」
「じゃあ!」
「条件はあるけどね」
当然でしょう? と彼女はあっさりとした口調で言い放った。
確かにその通りだ。そうそううまい話があってたまるか。
三善はしばらく考えて、彼女が提示する条件を想像した。いまさら教皇の話が出たということは、最終的に矛先が向けられるのは三善所有の『契約の箱』、または橘所有の『パンドラの匣』のどちらかだと思うのだが。
ふむ、と短く呟くと、最終的に、
「――おれの箱も、別の匣も渡せないが」
敢えて直球をぶつけてみることにした。それについては彼女も同意したらしい。首をゆっくりと縦に動かし、黒く長い髪をさらりと耳にかけた。
「だから、箱のことは今はどうでもいいと言ったでしょう」
「じゃあ何だ」
まずは思い出してほしいの、と彼女ははっきりと言った。
何を、と聞く前に、彼女の左手が伸びた。そのまま三善の頭を鷲掴みにしたかと思えば、三善の脳裏に強烈な量の情報が流れ込む。
「はっ――?」
***
またこのパターンかよ、と三善は思った。
前回は閉架十三階で。その前は“嫉妬”に似たようなことをされたと記憶している。つまりこれは前回の遡行の映像を見せられているのだ。
三善がのろのろと目を開けると、その両手はいつもの自分のものだ。聖職衣も、肩にかける緋色の肩帯も。ただし首に下げた十字架だけは、凝った作りの金色のものに変化している。右手の薬指にはかなり大きな同色の指輪がはめられていた。
三善は、震える声で言う。
「――失敗した」
その声は慟哭にも似ていた。
彼の眼前に広がるは、真っ白な光景と、その中に埋まるようにして倒れている何人もの人間だった。一面に広がる白い物体は、初め雪かと思ったが、どうやらそうではないらしい。三善が地面に手をついたときに気が付いた。これは、「塩」だ。
「失敗した失敗した失敗した!」
何度もその言葉を叫び続け、咽て、それでも彼は叫ぶのをやめなかった。まるでその声を誰かに届けようとしているかのようだった。
目に前に横たわる屍を前にして、三善がどうすることもできなかった。ただ、その事実だけを無理やり記憶に叩きつけているように叫ぶだけだ。
ふ、と三善は息をつき、それからもう一度、今度は囁くような声色で言う。
「――おい、全員『死んだ』ぞ、ヨハネス。どうせこの声も、お前は聞いているんだろう」
そして三善は左手で金の十字架をむしり取った。そして、忌々し気にその中央部に埋められた紅玉を睨みつける。
「なにが信仰だ、なにが神との関わりだ。結局『十三人目』がいる限り『終末の日』はやってくるじゃないか。もう疲れた。疲れたんだよ、おれは……!」
そして彼はいつくかの祝詞を唱えると、そっと目を閉じる。
金の十字架から零れ落ちる残酷な聖気があたりを満たしてゆく。それはあたかも、今この時を真っ白い絵の具で上書きしていくかのようだった。
それは『契約の箱』が開かれる瞬間でもあった。
最後に三善は、たった一言、聖典の一節を呟く。
それは『創世記』だった。
そもそも『創世記』とは、信仰の歌なのだ。かつてのバビロン捕囚の際、ユダ王国の住民がバビロニアに連行された。その際、絶望の中にいた住民が神との関わりを、言うなれば『信仰』を歌ったのである。
神との約束も崩壊し、あれだけ大事にしていた神殿をも崩壊した。全てが「崩壊」された世界で、それでも尚その約束を信じ、そして生きる意味を確かめる――
彼は今、この塩化された世界で、神との関わりを「崩壊」の中で確認しようとしているのだ。
――おまえだけは、ゆるさない。
そのときの三善は、確かにそう考えていた。
***
はっとして三善が目を見開くと、元の廃墟にいた。
荒く息を吐いている三善の前で、いつの間に出現させたのだろう、一振りの太刀を握る“憤怒”が無表情のまま彼を見下ろしていた。
「――思い出した?」
彼女は確かめるように言う。「これが『一九〇九二回目』の末路。あなたが望んで『契約の箱』を開け、自動的に次の遡行が行われた」
「……っ、」
三善は左手で額に手を当て、のろのろと頷いた。
確かに、あの光景には覚えがあった。なぜ今まで思い出せなかったのかが不思議なくらいだ。あの時に感じていた呪いにも似た感情は再び三善の思考を強く焦がし、どれが現実のものなのか正しく判断させまいとしている。
「つまり、真に記憶を持ち越せたのは私だけということ。他の“大罪”も、……八人目の“大罪”である『姫良三善』ですら正しい記憶を持ち越せなかった。すべてを忘れたうえで、あなたは再び同じ道を歩もうとしている。この際はっきり言うわ。あなたはとんだ大莫迦者よ」
「……うん。お前が『終末の日』を肯定する理由がなんとなく分かった気がするよ」
三善はのろのろと口を開いた。「『あんなもの』を見せられたら、少なくとも神を呪いたくもなる」
「私からすれば、あなたが聖職者でい続けることの方が不思議。あんなものを見せつけられておきながら、まだ信じようとしているのだから」
ひゅ、と空気の切れる音が耳を劈いた。
三善が状況を把握した時には、既に“憤怒”の刃が三善の首筋に添えられていた。切れそうで切れない、ギリギリの位置で銀がきらめいている。
しかし、三善はそのまま臆する様子は一切見せなかった。それどころか、ぴくりとも体を動かさず目線だけを“憤怒”へと向けている。
火の鱗粉を巻き上げながら一層激しさを増す紅蓮の炎。しかし“憤怒”の目にはその炎がただの飾りのように見えていた。見てくれでは判別できないような深い部分に、氷のような冷えた部分が隠されている。
“憤怒”は嗤った。
「私が思うに、あなたの存在自体が『悪』だ。あなたはこの後起こる『塩化現象』も『契約の箱』開匣も止められない。それは私が真に望む『終末の日』ではない。あなたの存在は邪魔でしかないの」
「だから死ねと。ああ、本当にお前は狂気の塊だな。逆に感心してしまうよ」
立つよ、と三善は声をかけ、ゆっくりと腰を上げた。冷えた左手にそっと触れる。乾いた血が指先でざらついていたが、これくらいの汚れならば釈義展開に支障はない。
「あなたが勝てば、無条件でヨハネスの居場所を教えてあげる。こっちの手の内を見せてあげてもいい。ただし」
「お前が勝ったら、おれのことは好きにしていい。切り刻むもよし、『箱』持ちの奴隷にしてもよし。これ以上のおいしい状況はないだろ」
「交渉成立」
三善は小さく頷き、己の釈義を展開した。全身からほとばしる『契約の箱』の釈義が濁った空気を瞬時に中和してゆく。肌をびりびりと刺激する容赦のない聖気は、心地良さのかけらもない。禍々しいと表現した方がしっくりくるほどだ。その作用に耐えきれなかったのか、今まで三善の足首でずしりと重みを与えていた枷が緑の火花を散らしながら爆ぜた。
胸元で十字を切る。その軌跡が真っ白な炎を生み、三善の前で勢いを上げた。莫大な神気を放ちながら燃え盛る炎がぐにゃりとねじ曲がり、やがてひと振りの剣と化す。自分の剣を使うのは、本当に久しぶりだった。
金の光彩を放つ柄、そして鋼の気を纏う刃。何年も会っていない友人に出くわした時のような気持ちだ。
さあ出番だ、『契約の箱』。
はっきりとした口調で三善は言い放つ。
「――おまえの罪を清めてやるよ。“憤怒”」