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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第三章 1

 ぽかぽかとした陽射しの下、三善と橘はのんびりと自転車を押しながら歩いていた。風もさほど強くなく、絶好の散歩日和である。

 結局あの後三善が復活するまでに丸二日を要したが、回復自体はものすごく速かった。本人も二日目になると案の定「暇だ」と文句を言い出したので、さすがの帝都牧師もこれには呆れてものも言えなかったという。

 それよりも気にかかるのは橘の方である。二日前――三善が倒れた日である――、サルヴェ・レジナ終了後の支部で貧血を起こして倒れてしまったらしい。その対応をしたのはリーナだったが、彼女曰く「橘を発見し連れてきたのはヨハンという名の見知らぬ神父だった」らしい。その話を事後報告として聞いていた三善は、なんとなく嫌な予感がしていた。

 そんな橘も翌日には回復していたので、あまり気にする必要はないのだろうが。

 ――この漠然とした不安はなんだろう。三善は内心そう思っていた。

 さて、彼らが二人で移動するとき、大抵は自転車を使っている。

 たくさん用事を抱えている場合は猛スピードで漕ぐ必要があるが、今日は本当にやることがなかった。実に暇だった。だから二人は少々のんびりと歩きながら、橘の洗礼に備え聖典の暗唱を手伝っていた。

 三善は旧約、新約問わず、思いついた箇所について質問を投げかけている。

 そのいずれについてもあっさりと答えた橘は、全部言い終わった後にさりげなく疑問をぶつけていた。

「俺は『創世記』だけでいいんですよね。全部覚えろなんて言いませんよね」

「もちろん。でも、覚えるに越したことねえだろ」

 洗礼のために旧約部分を全暗記した姫良三善、弟子にはなぜか新約部分までやらせる徹底ぶりである。少々スパルタ気味なのは言うまでもない。

 ところがこの橘、最近になってようやく気付いたことなのだが、実はものすごく暗記は得意らしかった。長期記憶となると話は別だが、三日程度ならば一字一句違わずに覚えている。それが何だか面白く、皆が思い思いに知っていることを教えてしまうのだった。

 三善だけではなく、その他の神父たちも一様に自分の専門分野についてあれこれ吹きこんでしまうものだから、彼と話をすると大抵の分野について精通しているため話題には困らない。彼は言うなればマルチ・プレイヤータイプなのだ。

 だからこそ橘は心底苦しい思いをしているようだが、決して「嫌だ」と言わないところが彼のいいところでもある。

「こんな感じで、本当に大丈夫なんでしょうか……」

「いや、間違ってもいいんだよ。別に暗記大会をやりたい訳じゃないし。教会側としてはね、『創世記』の意味を改めて考えてもらいたい。ただそれだけなんだよ」

 そう言うと、三善はふっと口元に笑みを浮かべた。

「意味、ですか?」

「世の中無意味なことはないの。そもそも、うちの宗派は意味性を重んじている訳だからね。ちょっとだけ考えてみてよ。それで大分違うと思う」

 そうか、と橘が何やら考えだしたので、三善はそのまま口を閉じ、静かにしていることにした。

 こちらはこちらで考えるべきことはたくさんあるのだ。

 例えば、あの男のこと、とか。

 橘が倒れた話の詳細を本人に尋ねてみたところ、彼は首を傾げつつ「ヨハンって誰ですか?」と返答したのが妙に引っかかる。先程も述べた通り、橘の記憶力は平均以上だ。それにも関わらずあの男についてだけ記憶から抜け落ちていることが心底気持ち悪い。

 初めは“七つの大罪”に関係のある人物なのだろうかとも思ったが、記憶を消す能力を持つ“大罪”などいるはずがなかった。何せ、大罪の能力に関しては己がよく知っているつもりだ。膨大な記憶を、それも整合性を保ちつつ一部だけ消すだなんてややこしい処理を行えるほど彼らの能力は複雑でない。そしてそれ相応の体力も時間も必要になる。労力と結果が全く見合わないことをする必要など、彼らにはないはずなのだ。

 まさか、『パンドラの匣』と何か関連があるのだろうか。

 そう考えた刹那。

 今まで晴れていたはずなのに、突然辺りが陰った。同時にぼたぼたとなにか液体が降り注ぎ始める。べったりとした粘着質のそれは、異臭を放ちながらコンクリートを溶かしてゆく。

 あ、と思う間もなく、二人が押して歩いていたはずの自転車にもそれが見事にかかり、金属が溶けてしまった。まるで溶解炉にぶちこんだかのような有り様である。

 こんなに呑気な描写が何故できるのかというと、影に気付き見上げた段階で三善は橘を引きつけ、液体の射程範囲外へと逃げたからである。俵のように担がれた橘はこの手のものに弱かったようで、顔面蒼白のまま声にならない声を上げていた。

 そこで三善は気付く。そういえば橘が箱館支部にやってきてから旧型の“七つの大罪”はほとんど出没していない。それに『パンドラの匣』が釈義に反応しても困るので、なるべく釈義を使用するときは橘を近くに置かなかった。

 つまり、橘にとってはこれが初の「未知との遭遇」なのだ。

「そりゃあ、こんなものが出てきたらトラウマものだよなあ」

 既に慣れっこになっている三善はぽつりと呟き、素早く左手の拘束具を解いた。

「せ、せせせ、センセ! あれって何、なんですか!」

「“七つの大罪”第三階層ですけど。タチバナ、虫は平気?」

「嫌いです!」

「おお、それは残念」

 そして手袋も取り去り、その辺に放る。日焼けしていない細い掌が露わになった。

「『釈義(exegesis)展開』」

 釈義の熱が身体をゆったりと満たし、巡り始める。まるで血液が体内を循環するように。時折痺れるような感覚が指先を走るのは、『契約の箱』が放つ聖気の影響だろうか。橘のいる状況で『これ』を使うことはできない。

 三善はぽつりと呟く。

「『聖ペテロの恩恵を給いし釈義(exegesis)に変換、再装填(re-exegesis)開始』」

 痺れを伴う強烈な熱が変化し、すぐに心地の良い温もりに包まれる。これが『あのひと』の力だ。『あのひと』の釈義は元々自分が持つものなんかとは比べ物にならないくらい、やさしい炎で満たされている。『あのひと』の人柄をそのまま現しているような気がして、とても安心できる。

 がんばれと言っている気がした。

 それが夢の中の一言と一致し、気持ちのいい高揚感に満たされてゆく。単純にその一言が嬉しかった。

 第三階層はその巨体とは裏腹に機敏な動きを見せ、こちらにその刃を向けてくる。するどい牙がきらりと光り、橙のプラズマが切っ先にまとわりついている。

 まずい、と咄嗟に三善は橘を担いだ。

「『深層(significance)発動』!」

 その刃が二人を捉えるほんの少し前に、かろうじて彼らは字の如く飛び上がった。ひゅん、と高い空気抵抗の音がする。

 三善の視界を掠めるのは、灰混じりの白いかけらだ。橘はというと、堅く目を閉じていた。身体も面白いくらいに固まっている。やれやれ、と思ったかどうかは知らないが、それを見て三善は担いでいる反対側の手で橘の額を軽く小突いてやった。

「痛っ」

「もう、目を開けてもいいよ」

 言われるがままに、橘はおそるおそる黒の瞳を開ける。視線の先には、空の青。足元には地面などなかった。

 ――風を感じる。

 彼の眼下にはミニチュア化した街並みが悠々と広がっていた。港には白い色をした船が浮かび、汽笛を鳴らしながら海を進む。石造りの坂道に、いつも自転車で通っている教会群。大きな十字架の形をした建物が視界に飛び込んできて、「本当に空から見ても十字なんだ」とつい感心してしまった。

 ところで――、どうして今、自分は空中にいるのだろう。橘は顔を上げた。

「あ」

 そして、思わず声を上げた。そしてそれ以上の言葉が咄嗟に出てこなかった。

 今己を担ぎあげている三善の背に、純白の大翼が生えていたのだ。ばさりと羽ばたくたびに細やかなかけらが飛び散り、きらきらと光を纏いながら大地に降り注ぐ。その姿はまるで天使のそれと紛うほどだった。

「センセ、天使様なんですか……?」

 思わず尋ねてしまうあたり、橘らしいと言えばその通りである。

「そうだったらいいけどさ、あいにく違う」

 三善はのろのろと答える。「どっちかっつーと、多分おれは悪魔、だろうな」

 さて、と彼は足元をうろつく第三階層を睨めつけると、空いている左手で首に下がる銀十字に触れた。初めは優しく撫でるように指で傷をなぞる。そののちにぎゅっと力強く握りしめた。

「『深層(significance)発動』」

 白炎を纏う銀十字。それを間近で見てしまった橘は再び目を剥いた。十字はみるみるうちに巨大化し、光が消え去った時、それは見事な大剣と化していた。

 ちりちりと肌を刺すような鋭い聖気が三善自身から噴き出ているのを感じ、橘は少し気分が悪くなった。しかし当の三善はある意味いつものことであるので、気にせずに聖十字の剣を振りかぶる。ひゅん、と鋭い音が耳を劈く。

「タチバナ、歯、食いしばっといて」

「え?」

 しかしその問いかけに三善が答えることはなかった。

 突然の急降下。

 脳を貫くような激しい耳鳴と冷たい風。ろくに目を開けていられずに、橘は目をぎゅっと閉じた。ジェット・コースターが落下していく時のように、ざわざわとしたものが背筋を這っている。

 ざ、と小気味よい音がした。

 三善が第三階層の真上からその剣を突き立てたのだ。数拍置いてから妙な色をした体液が噴き出し、べったりと肌が湿ってゆく。滑る掌を一度聖職衣の裾で拭ってから、三善はその剣を引き抜いた。なかなか抜けなかったので、ゆっくりと時間をかけている。ず、ず、ず、と何度か肉を斬る生々しさを残してゆく。そしてようやく、剣が抜けた。

「『釈義(exegesis)完了』――『Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruatcaelum.』」

 ようやく地上に降り立ち、橘を降ろした三善はすぐに別の祝詞を唱える。

 橘が顔を上げると、三善は橘に対し背を向けていた。今は美しかった翼は生えていないが、どうしてだろう、その背中が大きく見えた。

「『秘蹟(Sacramentum)てんか、』っ、タチバナ!」

 刹那、橘の視界が一瞬ブラック・アウトした。

 鈍い痛みが走り、重力に導かれるままに橘の身体が地面に倒れ込む。コンクリートと衝突したとき、橘はようやく自分が突き飛ばされたのだと気が付いた。ゆっくりと打ち付けた腰をさすりながら上体を起こし、顔を上げる。

「あ……!」

 橘の前に立ち塞がるのは、紛れもなく三善だった。そしてもう一体、未知の生物がいる。

 額の中央に一本の角を生やした馬だ。橙のプラズマをまとうそれは鋭いまなざしを三善へ向けている。元は白い毛並みが美しい馬なのだろうが、今この時、その身体には真っ赤な液体が滴り落ちていた。

 額の角が三善の右腕を貫いている。そう気づくのに時間はかからなかった。

「センセっ、」

「行け、タチバナっ……!」

 三善の声に今までの余裕が感じられなくなった。震えの中に微かな怒気が宿っている。

 でも、と橘が首を横に振った。恐怖で足がすくんで身動きが取れないのだ。

それを叱咤するかのように三善が哮る。

「支部に行って誰か呼んで来いって言っている! ひとりでやらせる気か、ばか!」

 怒鳴りながら三善は刺さった角を力任せに引っこ抜く。風穴が開いた袖が、みるみるうちに赤く染まってゆく。生地が吸いきれなかった分は、そのままひたひたと地面にしたたり落ちていった。まるで赤い糸が数本垂れ下っているようにも見えた。

 血濡れの角に橙の火花がまとわりついている。その光に目が眩み、一瞬三善が顔を背けた。本来彼の赤い瞳は、光に以上に弱いのだ。

 刹那、一角獣が鋼の如き鋭い角を振り、再び彼を突こうとした。避け切れずに三善の左脇腹から飛沫があがった。右手で何とか受け身を取るも、焼けるような左の痛みは確実に感覚を鈍らせる。

「早く!」

 橘は走り出した。これ以上彼を傷付けてはならない。なんとしても助けを呼ばなくては。

 背後から凄まじい爆音と焼ける空気が吹き付けてきたが、彼は決して振り返らなかった。

 心臓が大きく跳ねる。

 脳裏に焼き付いて離れない、血液の色。臭気。染まってゆく白。赤。白。赤。白。

 喘息交じりの呼吸に、何かが引っかかる。しかし橘がその正体を思い出すことはない。温んだ思考には、ただ一つ、己の師を救うことだけが浮かんでいた。

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