第二章 5
――ま、そう簡単に嫌いにはならないだろうな。
『 』は笑い、三善のふわふわの頭を撫でた。無骨な手に似合わない、優しい撫で方だった。
これは己の記憶ではない。それは理解しているつもりだが、奈何せんその境界線は極めて曖昧なのだ。もしかしたら、単純に記憶を違えているだけで自身が実際に体験したことなのかもしれない。確かめる術がない以上、そう言い切ることは決してできないが。
『 』はベッドで安らかに眠る三善を見つめ、そっと右手をふわふわの灰毛に添えた。別の誰かの記憶のように。確かこんな感じだった、と確認するかのように。
ゆっくりと頭を撫でてやると、微かに三善の睫毛が動いた。起きるかと思った。しかし、暫しののち彼は再び眠りの世界に旅立っていた。すう、と静かな吐息だけが聞こえている。
安堵の息をつくと、『 』は下がりかけた眼鏡を左の中指で押し上げた。
昨日の彼は己の姿を見てひどく動揺していた。今まであんなに強い拒絶を示されたことはなかったから、こちらも驚いたけれど。
しかしその左耳に在る、確かな痕跡が。
『 』が彼と共に在ったという、確かな痕跡が嬉しかった。
「――がんばれ、三善」
今はそう簡単に戻ることができないくらいに、ずっとずっと遠くにいるけれど。絶対に迎えに行くから。
だからそれまでは、三回だけ、嘘をつかせてほしい。
***
――しあわせな夢を見た。
三善が目を覚ますと、室内はほの暗い闇に包まれていた。窓から差し込む白っぽい色の光がその中に一筋の線を残し、光と闇の境界線を生み出す。まるで何かの道標のようだった。
彼はそのまましばらくぼうっと天井を見つめ、ゆっくりと赤い瞳を閉じた。
まだその夢に浸っていたかった。それが例え残酷な願いでも、彼にとっては幸せ以外の何物でもない。
部屋には己の体臭のみが漂っていた。今もひとり、己の海の中にいる。波間に漂い、思考だけが空気を求めて水の空を求めている。心地良かった。肩、指先、膝、つま先と、ゆっくり全身の力を抜いてゆく。息苦しさすら愛おしい。そして最後に、長い吐息を吐き出した。
現実へ戻ってきた。
徐々に思考回路が明瞭になってゆく。まるで大きな部屋の明かりを端から順番に点けていくかのような。ゆっくりとだが確実にスイッチを入れ、そして全ての明かりが灯る。もう大丈夫だと判断した。ようやく彼は夢の余韻から這いあがり、その右手を枕元へと伸ばす。そして安っぽい銀色の時計を掴んだ。
時刻は午後五時。今日は週日日程のはずだから、今頃は皆晩の祈りを捧げ、夕食を食べ始めている頃だろう。
きゅう、と小さく腹が鳴った。そういえば、昨夜少しだけ食事をとったきり何も口にしていない。どうして人間は腹が減るのだろうか。億劫ではあるけれど、食べなければもっと身体が悲鳴をあげることだろう。
それは後々どうにかするとして、今日のサルヴェ・レジナは誰に任せようかと思案していると、控えめなノック音が聞こえてきた。
「センセ、ご飯食べますか?」
橘の声だった。すぐに身体を起こし、三善は入室許可を下した。
おずおずとした様子で橘が入ってくる。その手には水と食器が乗せられている。
「ああ、ごめん。わざわざありがとう」
「多分足りないだろうけど、ってみんな口を揃えて言っていましたけど。なにか他に必要なものはありますか。俺、持ってきますよ」
「いや、これで充分だ。お腹空いてきたところだったんだ、さすがタチバナ」
とりあえずその盆をサイドボードに置いてもらうと、三善は思いっきり身体を伸ばした。かなり眠ったので気持ちがいい。こんなに寝たのは本当に久しぶりである。
「あーすっきりした。大分よくなったから、ちょっとだけ仕事しようかなぁ」
「ダメです。もうすぐ就寝時間ですから、黙って休んでください」
確かにもうすぐ就寝時間ではある。だが、もう充分というくらいに眠ってしまったので、脳が覚醒してしまっている。
ふむ、と三善は悩み、とりあえず食べてから今後を考えることにした。
「タチバナはなにか食べた?」
「ええ。今日はシチューだったんですよ」
「何、本当か」
「センセは元気になったら作ってもらってくださいね」
「……そんなことだろうと思ったよ。現実は甘くないな」
いただきます、と手を合わせ、三善は散蓮華で白粥を掬った。ふわりと白い湯気が立ち上る。甘い澱粉独特の香りが何だかこそばゆく感じられた。
橘はその様子を横でしばらく眺めていたが、ふと窓際にあった写真立てに目を留めた。わざわざ伏せられており、それに一体なにが写っているのかは分からない。
「センセ、あれは?」
「ん? ああ、」
口に含んでいた粥を飲み込み、三善は答える。「見ても全然面白くないよ」
「覗いても?」
「いいけど」
そ、と橘の手が写真立てに伸びる。ゆっくりと触れ、その木枠を返す。
橘は思わず息を飲んだ。
食べることに集中している三善は、それに全く気が付いていない。ただ黙々と食べ続け、時折手を止め休憩したりしている。
橘が見つめる写真には、三人の人物が写っていた。ひとりはよく知っている。今よりも大分若いが、独特のアイボリーの瞳がその正体を表している。ホセ・カークランド司教だ。そしてその隣にいるのは、かなり背が低い赤目の少年。ふわふわの灰毛から察するに、これは持ち主本人だろう。今もたまに着ているプロフェット用に拵えた聖職衣と黄色の肩帯。ということは、三善が助祭の時に撮ったものだろう。
そして最後の人物。橘を驚かせた理由はこれだった。
「これ……」
そこに写っていたのは、ヨハンだった。
否、正しくは「恐ろしくヨハンに酷似した人物」である。自分が知っているヨハンを「白」とするならば、写真のヨハンは「黒」だ。彼はどことなく気性が激しいような、そして神経質そうな表情を浮かべていた。金色の髪は目にかかる程度。眼鏡はかけていなかったが、その代わりに三善が身につけている十字のイヤー・カフが左耳に宿る。
三善は手を止め、振り返った。
「それ、おれの家族写真」
「ああ、だからブラザー・ホセがいるんですか」
「うん。だから正確には、親権者を欠いた未成年と後見人その一・その二ってところだろうな。女々しいとは思うんだけど、それ以外に三人で撮った写真なんかなくてさ」
大事なんだ、と一言付け加え、再び黙々と食べ始めた。時折啜るような濁音が聞こえてくるが、橘の頭にはその音は認識されていなかった。
たしか昨日、三善がヨハンのことを口にした時は初対面のような素振りを見せていたと思う。それならば、この写真の人物は誰だ。もしや、これが三善を動揺させた原因なのだろうか。
もしかしたら、聞いてはいけないことかもしれないけれど。橘の心臓がとくんと跳ねた。
「センセ」
「うん?」
「あのひとって……センセを追い詰める『あのひと』って、この人ですか?」
からん。
食器に散蓮華が投げ出された。その音が存外大きく聞こえ、橘は思わず身体を震わせた。怒られると思ったのだ。
「……追い詰める、か。まあ、そう見えなくもないね」
しかし降ってきた言葉は、それほど強いものではなかった。むしろ優しすぎた。橘が三善へ目を向けると、三善は皿を見つめながら何やら考えごとをしているようだった。
「多分、そのひとで間違いないよ。自分でも馬鹿だと思うくらいに引きずっている。好きすぎたんだろうな。子供の気持ちってのは恐ろしいよ、本当に」
三善は、橘に机の引き出しから書類ケースを出すように指示した。言われるがままに、橘はその引き出しを開ける。中は相当散らかっていたが、その書類ケースだけはすぐに見つかった。透明なプラスチックのケースで、桃色の留具がついている。クリップで左端を留めてあるいくつかの紙束、白い封筒などが乱雑に入っているのが見えた。
「前にちょっとだけ話したけど、おれの後見人がホセだ。だけどあいつは当時海外出張ばかりでろくに帰ってこなかったから、実際に一緒にいたのは横にいるもうひとりの方だった。ケファ・ストルメントという」
「ケファ……?」
「アラム語で『岩』という意味の名前だ。その名の通り頑固で厳しくて、結構スパルタだったけど、優しくて料理上手で頭がよくて、最後までおれのことばかり考えてくれた人。おれはあれ以上の人を知らない。正直ホセも彼には劣る。それくらい、大好きだった」
書類ケースを橘から受け取ると、三善はその中から小さな茶封筒を取り出した。随分汚れた封筒である。その封筒から数枚の紙を取り出しながら、三善は続ける。
「三年くらい一緒にいたけど、途中で転勤が決まってね。その時におれ、『あのひと』と約束したんだ。どっちが先に司教になるか競争だ、って。次に会った時に、イヤー・カフは返せって。そういう約束をして、『あのひと』は次の赴任先のドイツに行った」
「……そのひとは、今どうしているんですか?」
三善は封筒の中身を橘に渡した。
新聞記事のスクラップだった。何枚もあるということは、おそらく複数の新聞記事を集めたものだろう。そこには大規模な飛行機事故の記事が書かれていた。他のスクラップを覗くが、どれも同じ内容の記事らしかった。
はっとして橘は三善を見た。彼は笑う訳でも泣く訳でもなく、ただ無表情を貫いていた。その手の中にあるのは、いつも彼が身につけている傷だらけの銀十字。鈍い光を纏った冷たい金属。それを触る仕草が、なんだか悲し気に見えた。
「――ものすごく大きな事故でさ。それに乗っていた人のほとんどは身体が見つかっていないと聞く。冬の海はさぞ冷たかったろうに……」
暫しの沈黙。それ以上橘は聞きたくなかった。何て残酷なことを尋ねてしまったのだろう。俯き足元に目をやると、脳裏に微かな声が聞こえる。
あなたも同じなのだ、と。
あまりに無意識すぎて、その言葉の違和感にすぐに気が付くことはなかった。数回その声を脳内で反芻した時、突然三善が口を開いた。
「しあわせな夢を見たんだ」
沈黙のカーテンをはぎ取った彼は、ひどく穏やかな表情を浮かべている。瞳の赤にたゆたう感情は、一体何を意味しようとしているのだろう。このときの橘には理解できなかった。
「こうして眠っていたら、あのひとがやってきてさ。頭を撫でながら言うんだ。『がんばれ、三善』って。目が覚めたら頭に感触が残っていた。そんなはずないのにね。でも、すごく嬉しかったよ。夢でもよかった。あのひとがここに居たんだ」
それはそういう写真だ、と締めくくり、三善は器を盆に返した。
***
盆を片手に橘は部屋を後にした。
しんと静まり返った廊下は暗く、漆黒に塗り潰されていた。大分長居してしまったものだ、おそらくもう晩の祈りは終えてしまったと思われる。
ふ、と息を吐き出すと、三善が最後に言っていた言葉を思い出す。
しあわせな夢を見た、と。
彼がそう言った理由を、橘は知っている。
食堂の下膳台へと向かっていると、背後から突然声をかけられた。橘はゆっくりと振り返り、その声の主を確認しようとする。暗闇の中でじっと目を凝らしていると、徐々にその姿が露わになる。
「ああ、ブラザー・ヨハン」
そう、彼だった。彼は支部に書類を提出するため、たまたま今日ここにやってきていた。そこで出会った橘から「三善が寝込んでいる」旨を聞くや否や、彼は心配だから見舞いさせてくれないかと頼んできたのである。そのことに何も疑いがなかった橘は、彼をすんなりと三善の部屋まで案内した。それがつい二時間前の出来事だ。
――だが、『あの話』を聞いた今なら、それはもしかしたら間違いであったかもしれないと思ってしまうのだった。
「道に迷っちゃって。もしよければ出口まで案内してくれないかな」
「ああ、いいですよ。ちょっとこれを下げてくるので、待っていてくれませんか?」
そう言って手にしていた食器を指す。
ヨハンがついて行くと言い出したので、橘は彼と共に歩き出した。
「ここの支部は広いですね。前にいたところはこんなに入り組んでいなかったし」
「前はええと……ドイツ、でしたっけ?」
「はい」
彼がいた支部では主に生命に関する研究を行っているそうだ。その中で彼は一般部門に所属し、地道に修業を積んでいる。この歳にして未だ助祭にも満たないけれど、本人はそれで納得しているようだった。
そのように話してくれる彼はとても穏やかな表情を浮かべていた。なぜこのようなしっかりした人が昇進できないのか甚だ疑問であったが、それについては敢えて触れないことにした。きっと、誰でも触れられたくないことのひとつやふたつあるはずだ。
橘は気を取り直して、明るい口調で言った。
「ドイツと言いますと、イヴが造られた場所ですよね」
「イヴ?」
「ああ、『A-P』っていう、ウチの秘書ロボットですよ。もう充電をしに中に入っちゃいましたけど」
それを聞き、ぴくりとヨハンが眉を動かした。すごいですよねー、と一方的に話している橘をよそに、彼は何か思案しているようだった。
「そうか……別の許可が下りたのか」
「え?」
「いや、なんでも」
にこ、とヨハンが破顔した。
「それにしても、君の先生はよほど優秀なんだね。私なんかよりずっと若いのに、司教として過ごしていらっしゃる」
「放蕩者ですけどね。喫煙するわ逃げるわ、結構大変です。でも、優秀なのは本当みたいですよ。俺はいまいちよく分からないけど。きっと、あの人と一緒だった人が相当すごい人だったんだろうなーって。そう思います」
ヨハンはきょとんとした顔で、その真意を尋ねた。
「センセの先生らしいです。すごく優秀だったって、本人が言っていましたから――でも、」
「でも?」
にこにこしながら話していた橘の表情が若干変化したのを、ヨハンは見逃さなかった。
ただの笑いではない、その中にはどろどろとしたあらゆる感情が渦巻いているようにも見える。橘は、少なくともその『先生』とやらにあまり良い印象を持っていないらしかった。
「もしもどこかで出会うことができたなら、俺はその人を一発殴ってやりたいです」
ぴたりと、ヨハンが足を止めた。橘はそれに気が付いていないらしく、話しながら先を行く。
「センセを苦しめるのは、どんな理由があろうと許せないです。俺としては……あ、すみません」
先に行っちゃって、と橘は振り向いた。だが、その瞬間橘の視界が真っ暗になる。両目を覆うように何かが当てられていた。突然の出来事に橘は動揺し、それ以上の身動きが取れない。
瞳を覆い隠していたのは、ヨハンの手だった。
「――君には悪いけど、その記憶はなかったことにしてもらう」
刹那、脳天を貫くような激痛が走る。悲鳴を上げることもできなかった。
ブラック・アウト。
思考回路が強制的に断ち切られた。
ぐらりと橘の身体が傾き、前のめりになってゆく。
すぐにヨハンは右手で橘の身体を支えた。数拍置いて、器が床に転がる音が響き渡る。
橘は瞳を閉じたままぴくりとも動かなくなっていた。彼の身体を覆うように、白いプラズマが走る。
――意図的に失神させたのは悪いとは思う。こんな子供に使うような能力ではないということも。
だが。
「君の先生に告げ口されても困るんだ」
そう呟いたヨハンは、微かに悲しげな表情を浮かべていた。




