第二章 4
帝都が言うとおり、どうも疲れてはいたらしい。
熱で火照る身体を数日ぶりの布団に沈めると、ふわふわとした眠気が三善に襲いかかる。
しかし、眠りたくなかった。
眠れば、また夢に『あのひと』が出てくるからだ。
枕の端をぎゅっと掴み、ぐちゃぐちゃとしたまま整理の付かない思考を何とか断ち切ろうとした。
昨夜もこんな感じであまり眠れておらず、明け方近くなってようやく寝ついたところだった。先程リーナが起こしに来たときは完全に爆睡していただけだったのだが、『あのひと』の夢を見ていたので寝起き一発目に思わずその名を呟いてしまったのである。
掴んだ枕により一層深いしわが寄せられる。
昨日会ったばかりのヨハン・シャルベルという神父――否、神父かどうかも甚だ疑問だが、まさか自分があんなに強い拒絶を示すとは思ってもみなかった。それに自分自身が驚いている。
――その顔で、そんなこと言うな。
自分が言い放った言葉に、罪悪感と迷い、それから羞恥に似た感情がこみあげてくる。しかし、あのときは確かにそう思ったのだ。人間頭が混乱していると訳のわからないことを口走るものだ。
「その顔で、か……」
『あのひと』の影響がこんなにも根深いものだとは。我ながら呆れてしまう。まるで呪いのようだとも思った。
三善は枕元に置いていた銀のイヤー・カフをつまみ上げた。窓から差し込む光を反射して、きらりと瞬いている。しかしそれは鋭い光などではなく、どこか柔らかいものでもあった。
もしもあのひとが生きていたとしたら。
あり得ないことだと分かってはいる。だけど。
もしも本当に生きていたら。
その時、戸をノックする音が聞こえた。三善はイヤー・カフを再び枕元に置き、「どうぞ」と短く返事した。
顔を覗かせたのはロンだった。
「どうよ、調子は。あ、起きなくていい。そのままそのまま」
「ああ、悪い。――まだ頭は重いけど、だいぶいいよ」
その辺から椅子を引っ張り出し、ロンはベッドの横に腰かけた。そして、じっと三善の赤の瞳を射るように見つめる。
「なによ」
「……みよさま。何かあったでしょ」
肉を抉り取るような、直球の質問だった。三善は瞠目しつつ、はぐらかすようにして目を背ける。おどけるような口調で口の端を吊り上げていたが、明後日の方向を見つめる目は全く笑っていなかった。
「別に、なにもないけど」
「何もない人が朝・昼と食事を抜きますか? インフルエンザをもらって来た時に野菜カレー大盛三杯食ったのはどこの誰だったかな」
痛いところを突かれ、うぐ、と言葉を詰まらせた。
「……ごめんなさい、おれが悪かったです」
「食べられないってことは、余程なんだろうとは思うけどさ。何でもひとりで抱えるのはよくないよ。そこまで君が図太い人間じゃないってことを、俺は知ってる」
うん、うん……と三善は何度か反芻するように頷き、ようやく決心した。このことを一番初めに相談したのが彼だということに対し少し微妙な気持ちになったものの、支部にいる人物の中では彼が適任だということもよく知っている。
「――あの、さあ。ちょっと変なこと聞くけど、いい?」
「いいよ」
「もしも、ケファが生きていたとしたら。お前ならどうする?」
ロンの思考が一瞬停止した。三善はそれに気が付き、内心「やっぱりね」と嘆息を洩らす。
今このひとは何を言っただろうかと、何度もその言葉を反芻する。字面は理解した、だがしかし、その真意がよく分からない。
彼が言うケファとは、あの事故で殉教した「ケファ・ストルメント」のことだろうか。しかし彼は死んだ。死体は見つかっていないけれど、確かに葬儀も済ませたし母国に墓標も立ててきた。
まさかこのひとは、それすらも納得していなかったのだろうか。
――ロンはおおよそこんなことを考えているのだろう。そう三善が考えていると、彼は予想通りの反応をしてみせた。
「みよさま。それ、どういうことだ」
「たとえばの話だよ。本気にしないでほしい。『あのひと』は確かに死んだ。それはおれだって理解できている。だけど、だけどさ。もしも死んだとみんなが思っているけれど、実は何かの手違いで、別の人間として生きていたら。そしてそんな人間が実際に今、近くにいたとしたら。おれは一体どうするべきだろう」
ロンは言葉を失った。
ここまで細かいたとえ話が出てくるということは、おそらく彼の体調不良の原因は『それ』だ。
昨日、何かの拍子に『あのひと』に似た人物と出会い、三善はそれを本人ではないかと錯乱しているだけのことだ。たった一日の間に予想外の出来事が起こり過ぎた。きっとそれが錯乱の大きな原因となっている。しかし、そんなことを言って彼をがっかりさせたくない。下手したらとんでもない事故が起こる可能性もある。
ロンは慎重に言葉を選び、結論を出した。
「俺は直接彼と交流があった訳じゃないから、そういう意味だとどうも思わないな。そうだなぁ、とりあえず事情を聞き出すだろうね」
「事情?」
「今までどうしていたのか、とか。今後どうするつもりか、とか。でもそれは、俺が異端審問官としての役目を果たすことを第一優先にしているからだ。みよさまには当てはまらない論理展開だろう。そうだよね?」
三善は促されるように、ゆっくりと頷いた。
「多分、みよさまが言いたいのはこういうことだ。本心としてはおかえりなさいと言ってやりたい。言って、自分が司教になったことを伝えたい。しかし、その仮の人物がケファ・ストルメントであるかは分からない。もしも彼の身に何か複雑なことが起こっていて、別の誰かとして平和に生きていたのだとしたらなおさら、――彼の今の生活を尊重すべきだと。あなたはそう考えるから行動にも起こせない」
三善は頷きながらも、まだ何か抱え込んだ表情でじっとロンの緑の目を見つめる。
しばらくの間の後、ためらいがちに「それだけじゃないんだ」と三善が言った。ようやく自分から何かを話したいと思ったらしい。その目は熱のせいか潤んで見える。感情がそれに比例して、過剰に高ぶっているのもよく分かる。
「上手く言えないんだけど」
「うん。ゆっくりでいいよ」
「本当にみんなが必要としているのは『あのひと』で、おれじゃない。おれは今でもそう思っている。だから、あの日以来おれは努めて『あのひと』になろうとした。『あのひと』になれるのはおれしかいないから。そうなるために膨大な時間を費やした。ようやく『あのひと』の代わりになれそうなところまで来た。代わりに、なれそうなんだ」
本当に訳の分からない言い分だが、これがおそらく今の彼の限界だろう。むしろそこまで言葉に置き換えることができたことを褒めてやりたい。
どう代弁しようか、とロンは悩む。
「つまり、アレか。『あのひと』になろうとして今まで取り繕っていたのに、いきなり本人が帰ってきた。そうしたら自分を帰結する場所が見いだせなくなって苦しい。どうすればいいのか分からなくて、路頭に迷ってしまったと。そういうこと?」
三善はゆっくりと上半身だけを起こした。伏せた目がどこを向けばいいのか定まらず、ただ己の白い指先を見つめているだけだった。ぴくり、と指先が震える。
「――こんなこと、異端審問官の君に言ってはいけないのかもしれない。だから『僕』は、異端審問官の君じゃなく、友人として君に話している」
「分かっているよ。今の俺は君の友人のひとりだ」
「本当に『あのひと』は、……『あのひと』は、死んだのだろうか」
ようやく核心を言葉にできた。言葉にしてしまえば、それが大きな重圧になり一層苦しくなると分かっているのに。それでも話さずにはいられない。どうしてそうさせるのかはよく分からなかった。
シーツを握る拳に涙がこぼれ落ちた。
「『僕』、本当はどうしたいのか分からない。『あのひと』に会いたいと思っているのは本当だ。もしもあの人がケファだったら、どれだけ嬉しいことだろう。でも、こう思う自分もいる。ケファが帰ってきたら、『僕』の居場所がなくなる。だって『僕』は、ケファの代わりだったんだから。本物がいれば、贋者は必要ない。贋者に価値はないんだ。ケファは二人も要らないんだよ! だから本当は、ケファは事故で死んだんじゃない。『僕』が『僕』の中で勝手に何度も殺しているだけなんだ」
落ち着いて、とロンが諭すような口調でいい、その細い両肩を抱いた。しかし三善の言葉は鋭さを増してゆく。感情が堰を切って、とめどなく溢れているのだ。そして荒れ狂う波のように押し寄せて、歯止めが利かない。
「『あのひと』を殺したのは『僕』だ! 自分のエゴを満たしたいがために『あのひと』の存在を何度も殺している! 何度も何度もっ……! あんなに大好きだったのに、今、大嫌いだと思ってる自分がどこかにいる……」
突然三善の両手がロンの腕を掴んだ。ロンは瞠目し、思わず息を飲む。
「ロン。『僕』を壊してよ。そうでなければ殺して」
「何を言って、」
「好きなんだろ? 仮面をかぶった僕が。中身はこんなに汚くて、自分勝手で。結局何もできなくて、でもどこかで擁護したいと思っている。ああ、虫唾が走るよ本当。今まではなんとか取り繕ってきたけど、もうその仮面も必要ないだろ! いいよ、お前の好きにしろ。これ以上ないってくらいに凌辱してくれて構わない。お前の好きに選ばせてやる。お好みの体位があればどうぞお好きに。希望には答えるつもりだ。そうすれば、この鉄仮面だって酸を食らったみたいに融けてなくなるだろうよ!」
「みよさま」
「っ、壊してみろよ、好きなら……、好きだって言うなら……!」
慟哭にも似た叫び。嗚咽に交じりながらも、『声』だけは止まらない。ここまで『自分』を強調してきたことのない人物だから、なおさら。これだけの気持ちをずっとしまいこんで、別の何かを被り続けて。
このひとは決して天才なんかじゃない。周りが天才にしてしまっただけだったのだ。そのイメージを壊さないよう、自分が知っている天才のイメージ像と思考を完全にリンクさせ、期待を裏切らないようにしただけだ。そしてそのイメージのお手本が、ケファ・ストルメントという名前の司祭だった。ただそれだけのことだ。
このひとが万人から背負わされた狂気はただの凶器だった。
どうして誰も見抜いてやれなかったのか。否、どうして自分が見抜いてあげられなかったのか。ロンは単純にそれが悔しかった。
「――うん、好きだよ。俺は今の君が好き」
びくん、と三善の身体が震える。「お望みの手段も、その気になればいつでも。そういう風に表現してみせろと言うなら、そうしてやってもいい。俺と君との間には教義なんか意味を為さない。俺たちはいつでも、共通の秘密を以て大聖教を裏切っている」
「……」
「でもね、俺の話もちょっとだけ聞いてほしい。俺は、今の君しか知らない。俺だけじゃないよ、リーナもイヴも、タチバナも。九条神父に帝都牧師もね、みーんな、今の君を『姫良三善』だと思っている。誰も『あのひと』のことを知らない。過去に君とどういうことを話して、どういう風に生きてきたひとなのか、みんな知らない。逆に聞くけど、司教試験を受けて合格したのは君でしょ。ブラザー・ケファじゃない」
ゆっくりと、首が縦に動いた。それを確認してから、再び言葉を紡ぎ出す。
「俺たちは君のことをどういう風に呼んでいるか分かる? ブラザー・ケファだなんて呼ばないだろ。『姫良三善』と呼んでる。ぶっちゃけ、別に俺たちは『あのひと』に執着もしていないし興味なんかない。心底どうでもいい。ここまではいい?」
「どうでもいいとか、言うな」
「言葉のあやだ。というか、そこが気になるの? 君は」
まあでも、細かい部分に目を向けているということは、きちんとすみずみまで話を聞いてくれているということだ。こんなに擦れてしまっても、三善が持つ本質自体を損ねている訳ではなさそうだ。それならば安心できる。
「おれたちは君に執着しているの。君の存在に価値を見出して、好きだと思って、一緒にいたいと思うから執着している。だから君が無茶をすれば全力で怒るし、倒れればうざいと言われるまで徹底して世話したくなるの。君が嬉しそうにしていれば俺たちも嬉しい。煙草を吸うのはやめてほしいけど、一緒になってバカなことしてくれる上司って君以外にいないんだ。君にとっては贋者でも、俺たちにとってはそれが本物なの。他はどうあろうが正直関係ないし興味ない。だって判断材料が他にないからさ。悔しかったら本性見せてみなよ、今ここで」
そして掴んでいた両手をゆっくりと解いてやり、立ちあがった。そして灰色の頭をぽんぽんと叩いて、にっこりとわざとらしい笑みを向けてやる。
――最後の仕上げだ。これできっと彼に火が点くはず。そういう確信を持って、ロンは言う。
「それを見て今までの君が贋者であると俺が判断したならば、ご希望通り徹底的にいじめてやりましょう。司教、俺への認識がちょっと甘いですよ」
捨て台詞が最悪だった。初めぽかんとしたまま口を開け広げていた三善だったが、次第に悔しくなってきたのか肩をわなわな震わせてきた。
刹那、白い手が枕をひっつかみ、力任せにぶん投げた。
「お前ほんっと最悪だな!」
しかしその枕は器用にもロンによってキャッチされ、威力は完全に削がれてしまう。ぽふんと情けない音がする。
「ほら、本性出た! いつも通りじゃん、ご希望に沿うことはできませんねー残念」
そもそも自分から言い出したのに最悪も何もないだろう。
ロンはそっと投げつけられた枕を返し、机の引き出しから錠剤をいくつか取り出して三善の手に握らせた。
「まだ昼の分は飲んでないでしょ。飲みなよ、少しは気持ちも落ち着くでしょう」
「……うん」
意外と大人しく頷いてくれたので、ロンは安心して肩をなで下ろす。
これ以上長居をすると余計な負担をかけそうだった。
ロンはドアノブに手をかけた。三善はまだ背後でぶつぶつ文句を言っている気もするが、それは聞かなかったことにしておこう。
そのとき、ロンはふと脳裏にひとつの言葉が過った。
「……あ、そうそう。みよさま、『DoubtingThomas(不信のトマス)』だよ」
唐突にロンが振り返ると、案の定三善は不機嫌そうな顔をしていた。
「ん? それがどうした」
「見る、見ないは俺たちの感覚によって物事を捉える認識方法。だけどそれって、往々にして騙される可能性がある訳ね。騙し絵なんてものが世に存在するくらいだ、理屈は分かるだろう。だから『見た』からといってその存在を信じるのは、疑うことに対して不徹底さが生じる。だからそこに根拠を置くのはちょっと問題がある。そもそも見る、見ないの差ってそんなに大きいものじゃないでしょう? だから疑っていいんだよ。疑うことさえ疑って徹底すれば、なにか新しいものが開けてくるはず。Doubting Thomasはそのまま、いつも疑っているトマスでいいんだよ。俺が言えるのはここまでだ。じゃ、ゆっくり寝てください」
「あ、おま、ちょ……!」
引き止めようとしていた三善の言葉を完全に無視し、ロンはさっさと居室を後にする。
戸を閉めてからロンはしばらく床の木目を眺めていたが、唐突に長ったらしい息をついた。
思いの外体力のいる会話だった。三善から本音を聞き出すのは心底苦労する。あれだけ狂気じみた思考を持っているのに、彼はうまく隠してしまうからなお理解しにくい。
しかしながら、あれだけ聞き出せたなら上出来だろう。
「それにしても、うちの司教を惑わせる『あのひと』のそっくりさんって誰だ」
思わず独り言を呟き、頭を抱えてしまう。三善の交友関係は意外と広い。その中から個人を特定するのは難しいだろうが、昨日の彼の行動さえ分かれば多少は絞れるだろう。
そのとき、橘が水差しを片手に歩いてくるのが見えた。
「あれ、こんなところでなにをしているんです?」
きょとんとしながら橘が声をかけてきたので、ロンはのろのろと瞳を持ち上げた。
「ああ、君の先生とバトルしてただけ。俺はもう疲れたよ。そうだタチバナ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんです?」
「昨日、みよさまは誰に会った? 俺が知っている人かな」
「え? ええと……」
橘は逡巡し、それからこう言った。「あのひとかな」
「うん?」
橘にはどうやら心当たりがあったらしい。
「九条神父のところに、新しい神父さんが来ていたんですよ。やたらキラキラした感じの……。センセ、そのひとのことを随分気にしていたみたいで」
「Good. とてもいい情報だ。名前は分かる?」
「ええと……ヨハン。ヨハン・シャルベル神父です」
「素晴らしい。上出来だ」
ロンはおもむろに立ち上がり、自室へ向かって歩き始める。あまりに唐突な質問だったためか、橘はそれを引きとめた。
「センセになにかあったんですか」
「うん? 何もないよ。ただ俺が一人で怒っているだけ」
うちの大事な司教を泣かせるとは、一発殴らないと気がすまない。何やら不穏な言葉を呟いたロンの目は笑っていなかった。




