第二章 3
「……みよさまが部屋から出てこない?」
別件の作業をしていたロンは思わず目を剥いた。
翌朝の出来事である。橘はいつも通り三時半に起き、いつものように読書課をこなした。しかし、昨夜支部まで一緒に戻ってきた三善の姿が見えない。彼が出かけるときは必ず事前にメールなどで連絡してくるのだが、今日はなにもなかった。念のため着信履歴も検索したが、昨夜から携帯が鳴った形跡すらなかった。朝食にも姿を見せず、結局彼は突如行方不明の人となったのである。困りに困ってイヴに居場所を特定するよう要請すると、意外や意外、三善は自室の中に引きこもっていたのだった。
三善の自室は扉の内側から閂をかけることができるようになっている。外からは開けられないので、中の様子を窺うこともできず。最終的に、橘は助けを呼びにロンの元へ向かうことにしたのである。
そして現在に至る。
「あれだけ食べるのが好きなひとが、朝食も取らずに部屋にいるなんておかしいです!」
それには同意したようで、ロンも頷きながら両手に抱えていた聖典を棚に戻した。
「うん、確かに。何があっても飯だけは食うもんな、あの人は」
この支部にやってきた一番初めの冬に三善はインフルエンザに罹ったのだが、そのときですら彼は野菜カレーを大盛三杯たいらげている。その前科があるせいか、「姫良三善が食事を摂らない」という事実が全く信じられないのだ。
ロンは暫し逡巡し、それからどこかに電話をかけ始めた。
***
「という訳で、私の出番ですか」
すっかり呆れ果てた様子のリーナが男二人に目を向け、残念そうに肩をすくめた。
「確かに出てこないのは心配だわ。ご飯を食べさせないと、さすがの三善君も干からびるでしょ」
リーナは己の銀十字を外し、『釈義』を展開させる。十字はその手の中で銀色の炎をまとい、次の瞬間には小型のピストルと化していた。
「面倒だから撃っちゃいましょう。今手元にスクリュードライバーもないし」
そして彼女はためらいなくドアを撃ち抜いたのだった。
爆音が三発、その場に轟いた。
その潔さに目をひんむいた男二人、やはりこういうときは女が強いのだと再認識していた。そしてこうも思う。決して彼女を怒らせてはいけない。怒らせた暁には、自分の命が危ない。
リーナが扉を開けると、簡素なベッドの上に布団の塊が鎮座していた。毛布が何重にも重なり、まるで巨大な団子のようになっている。
間違いない、これが部屋の主だ。
「三善君。いい加減起きなさい、今日は事務処理をするって言っていたでしょ」
容赦なくリーナはその毛布の塊を解き、中から出てきた三善を起こそうと肩をゆすった。
だが、彼はぴくりとも動かない。だらりと首が下がり、力という力が全て抜けたような状態だった。
その様子を目の当たりにしたリーナはすぐに状況を理解した。彼女は膝立ちになり、三善と自分の額に手を当てる。
彼女の手が少し冷えていたせいだろう、それにようやく反応して三善は体をぴくりと震わせた。
「……熱がある」
リーナは振り返り、後ろの二人に声をかけた。「橘君、悪いんだけど水とタオルを持ってきてくれる? ロンはブラザー・帝都を呼んできて。最悪の場合、本部からブラザー・ホセを呼ぶことも視野に入れておいて」
「はっはい」
「Got it.」
手早く指示を出され、慌てて男二人は部屋から飛び出してゆく。それを見送った後、リーナは改めて布団をひっぺがし、横になる三善に丁寧にかけ直してやった。そして昏々と眠りにつく三善を見つめると、ゆっくりと息を吐き出す。
彼が赴任してきたばかりの頃、一度だけ似たようなことがあった。
三善が突然高熱を出したと思ったら、丸一週間ぐったりとしたまま目を覚まさなかった。支部で医務を担当している帝都牧師でさえもお手上げで、困り果てた末に本部に助けを求めたのだ。
その時やってきたのが、かのブラザー・ホセである。彼は昏睡状態の三善を見て、すぐにその原因を察してくれた。その時彼が三善に対し何を施術したのかは分からない。人払いをされてしまったので、リーナやロンはおろか、他の神父一同誰も知る由がなかった。ただ、後に帝都牧師がホセに呼び出されていたので、彼はもしかしたら詳細を知っているのかもしれない。
もしも、あの時のようなことが起こったら。
その時、ぴくりと三善の瞼が動いた。
「三善君……?」
眉毛が震えたかと思うと、重い瞼がのろのろと開いてゆく。潤んだ赤い瞳が、ぼうっと天井を見つめていた。
「よかった、三善君。動けそう?」
できるだけ優しい声色で語りかけてやると、その声に反応してか、焦点の合わない瞳がリーナの姿を仰いだ。
そしてぽつりと呟く。
「ケファ……?」
リーナが目を剥くのと、三善がはっとして身体を起こしたのはほぼ同時だった。三善は右手で前髪を掻き上げ、掠れた声でリーナの名を呼ぶ。
「悪い、寝坊した。今起きるからちょっと待って。ああ、頭が痛いな……水が飲みたい」
布団から這いずるようにして出ようとした三善をリーナが制止した。熱があるのだと説明すると、それを聞いた三善はようやく自分の身に起こっている異変に気が付いたらしい。自分の額と首の裏に手を当て、「確かに」と短く呟く。
「そういう訳だから、まだ布団にいてちょうだい。今ブラザー・帝都を呼んでいるから」
「分かった。そうする」
それと、と三善は躊躇いがちに口を開いた。「おれ、寝ぼけて何か言わなかったか」
「……、いいえ。なにも」
リーナが答えると、三善はほっと肩をなで下ろす。
その時、ロンが帝都牧師を連れて戻ってきた。帝都は三善の様子を一瞥し、何かを悟ったのだろう。ロンとリーナに声をかけ、しばらく二人きりにしてほしい旨を伝えた。
ロンとリーナが外に出て、扉が閉まったのを確認すると、三善は帝都の鳶色の瞳を見つめた。そしてばつが悪そうに眉を下げて見せる。
「――ごめんなさい。またやっちゃったみたいです」
「あなたの身体はあまり丈夫でないのですから、無理はしないでください。症状は……、発熱くらいですか? いつもの薬は飲んでいますよね」
三善は首を縦に振り、「それと頭痛。薬は飲んでる」と付け加えた。
「熱はこれで測ってください」
帝都から体温計を受け取ると、三善はそれを右の脇下に挟む。そうしている間に帝都は三善の首筋に触り、微かに首を傾げて見せた。
「何かありましたか」
帝都が鋭い口調で尋ねた。三善はその一言に瞠目しつつも、のろのろとした口調で答える。
「何も、ないよ。何もないけれど、少し昔のことを思い出した。それだけだ」
「昔のことって、『あのこと』でしょう。それは何もないとは言いませんよ」
三善が息を飲んだ刹那、体温計が計測終了を告げる電子音を鳴らした。それを抜き取ると、電子画面には「三十九」と表示されている。三善はそのまま帝都に返した。
「三十九度……。今日は自室警備に専念してください」
「はい」
どうにも帝都には頭の上がらない三善である。その後喉の状態や肺の音を聴診器で聞いたのち、帝都ははっきりと言った。
「身体に異常は見受けられないので、過労かもしれません。食欲はありますか? なければ点滴を用意しますが」
「それは大丈夫そうだ。腹減った」
「むしろあなたが食べない状況になる方が一大事ですものね。今回は解熱剤を出しませんので、一日大人しくしていてください。ああ、いつもの薬は飲んでくださいね。あれは自己判断で止めてしまうのが一番よくないのです」
「分かった」
三善は左袖で汗ばんだ額を拭いつつ、力なく笑った。
「我ながら弱っちいと思っちゃうな。どうも昨日から記憶が交錯するんだよ。昔のことと今のことが全部ぐちゃぐちゃに入り混じって、どれが事実なのかいよいよ分からなくなってきた」
「昨日から? それを黙っていたんですか、あなたは」
突然帝都の眉が吊りあがった。しかしうつむいたまま話している三善はそれに気がついていない。うん、と短く返事した刹那、彼の頬に帝都の平手打ちが飛んだ。
驚いて三善は右頬に手を当てながら、動揺した瞳を向けた。
「もうあなたの身体はあなたのものだけじゃない。前にもそう言ったはずです、前も予兆はあったのにそれを黙っていて大ごとになった。忘れたとは言わせませんよ」
「あ……」
「次は予兆の段階で報告しろ、約束を違えたら平手打ち。そう言いました。だからこれはその平手打ちです。いろんなものに守られて生きているという自覚が根本的に足りないんですよ、あなたは」
ここまで言われてしまっては何も言い返せない。そもそも今回悪いのは自分なのだ。それは反省しなければならない。
三善はふっと力の抜けた笑いを浮かべ、小さな声で言った。
「ごめんなさい」
「三善君、あなたはもっと頼っていいんです。そうしてもらえた方が、私は嬉しいのです。今この支部の中でここまで深い事情を知っている人は私だけなんですから……。あなたの『箱』のことも、心の状態のことも。だからもっと私を使ってください。一緒に頑張らせてください」
「……、うん」
帝都が横になるよう促したので、三善はのろのろと布団にくるまった。
「大丈夫」
そして帝都は手持ちの冷却シートを三善の額に貼ってやり、微笑んで見せる。
「あなたが不安に思う必要などないのです。あなたにはたくさんの家族がいます」




