第二章 2
「け、ふぁ……っ?」
大きく見開いた赤い瞳の先に、あの日と同じ紫の瞳がある。
三善の心臓が跳ねた。
それ以上思ったように声が出ない。唾が渇き、喉に張り付く感覚がひどくもどかしい。無理やり何かを言おうとしてようやく口から出た声は、とてもじゃないが呼びかけとは言い難い。せいぜい独り言がいいところだろう。
三善のその頭の中では五年前の記憶が交錯し、どれが正しい記憶なのかその境界が曖昧になりつつあった。考えれば考えるほど、螺旋の渦に巻き込まれ身動きが取れなくなる。
ただ、その交錯した記憶の中にいる『あのひと』の姿が、今目の前でこちらを見つめている神父と同一だと思えた。ノイズがかってはっきりと思い出せなくなりつつある『あのひと』の面影が重なりあい、ゆっくりと境界線が溶けてゆく。
飛行機事故。開示された搭乗者名簿。
『あのひと』は振り返って、笑って名を呼んだ。最後の朝食の味はしなかった。
声を殺して泣く土岐野。冷静を装っていたが、隠れてひとり涙をこぼしたホセ。
『あのひと』ははっきりと言った。俺が信じる『正義』は、楽しそうに動き回るお前が、変わらずに存在し続けることだと。
死体のない奇妙な葬式だった。空の棺に入れられたのは、白百合と契約の十字架だ。
白い焔に包まれて、『あのひと』はそう言って笑った。
棺が燃やされる。赤い炎の熱が、白百合をくすんだ色の灰へと変えた。
互いの拳をぶつけ合う。
長い煙突から立ち上るは、白い煙。空の青に溶け込んで、ゆっくりと消えていった。
――いったい、どれが現実なんだ。
三善の中でやっとのことで培った現実が、今、音を立てて崩れていった。唯一残った僅かな理性の糸を手繰り寄せ、三善はぽつりと呟いた。
「……ちがう」
よくよく考えての結論だった。無理やりそう思いこんだ。
そこでようやく、三善の呪縛が解けた。ほぼ無意識に『いい子の仮面』をかぶり、にこりと神父に笑いかけることができた。ここまでの時間が恐ろしい程に長く感じたが、実際はほんの数秒の出来事だった。
「見ない顔ですね」
そう問いかけると、彼もようやく自然な微笑みを浮かべ、三善に声をかけてきた。その声もどこか『あのひと』に似ている気がしたが、三善はその思いから完全に目を背けた。
記憶とはひどく曖昧なものだ。だからこの感情も、妄想が生み出した産物に過ぎない。だから今、そんな妄想に振り回される理由はない。それは、必要ないのだ。
「はじめまして。ええと……、もしや、姫良三善司教ではないですか?」
彼はヨハン・シャルベルと名乗った。ドイツから赴任してきたばかりで、日本語も覚えたてだと言う。赴任してすぐに箱館支部へ挨拶に行ったが、あいにく三善は留守だったのできちんと顔を合わせたことがなかったのだそうだ。
なるほど、確かにここ数週間は支部を留守にすることが多かった。しかし、来客があればイヴがその旨を報告するはずだ。そもそも、新しく赴任する神父がいるとは聞いていない。
そうは思ったのだが、敢えて三善はそれを口にしなかった。なるほど、と納得して見せ、ゆっくりと頷いた。
「新しい土地で苦労することも多いでしょう。ブラザー・九条がいるので心配する必要はないと思いますが、もしも困ったことがありましたら、いつでも力になりましょう」
それは心強い、とヨハンと名乗る神父も笑う。そして、彼は左手を差し出した。どうやら握手を求めているようだった。初対面で、特に外国から赴任してきた聖職者は割とこのようなコミュニケーションをとりたがるので、慣れているし抵抗もない。しかし、どうしてだろう。いつもはためらいなくできる握手すらしたくない。極端な話、彼に触れてはいけないとどこかでそう思っていた。
「――ご、ごめんなさい。左手は、ちょっと」
やんわりと断ると、彼の紫の瞳が三善の左手を捉えた。白い手袋をはめ、直接触れられないようになっている。それをどう取ったのかは分からないが、「そうですか」と言ったきり彼は手を引っ込め、それ以降むやみに握手を求めようとはしなかった。
彼は一旦司祭館に行きこちらに戻ってくる旨を告げ、同時に、
「ブラザー・九条は奥のテーブルで休憩されていますよ」
と、これまた微妙な情報を教えてくれた。となると、おそらく橘も一緒だろう。人と話をするのが好きな九条だから、きっと紅茶とガレットを前に談笑しているに違いない。その光景が容易に想像できる。
それじゃあ、と彼は爽やかな笑顔で手を振り、司祭館へと向かって行った。
彼はすぐに背を向けてしまったので、それ以上の情報を得ることはできない。だが、三善は彼の姿をその目に焼きつけるようにしばらくじっと見つめていた。
***
中に入ると、ヨハンが言うとおり橘と九条神父はささやかなお茶会をしていた。簡素なテーブルに紅茶、ガレットが少々。本当に予想通りの休憩スタイルである。
どうやら長々と話を聞かされていたらしい橘だったが、三善が姿を見せたことで、その表情がぱっと急に明るくなる。
「センセ! 遅いです」
こっちこっち、と手招きしてくるので、三善は呆れた様子でその隣に腰掛けた。人懐っこい性格はとてもいいと思うのだが、そこまで世渡り上手でなくていい。それが彼の本質ならば仕方ないけれど、とぼんやり考えた。
その様子を、九条神父はにこにこと笑いながら見つめている。
「どうもすみません、うちのタチバナに任せちゃって。働きました? コレは」
「コレってなんですか? コレって」
瞬時に橘が反論する。
「お前はひよっこなんだから、コレで充分」
「ひどい」
喧嘩が勃発しそうなことを察知したのか、まあまあ、と九条が諫める。彼が仲裁に入ると、二人してそれ以上のことはできないのである。よって今回もあっけなく引き下がり、無駄な言い合いはやめようということで合意した。
「橘君はよくやってくれましたよ。力仕事はやっぱり若いのに任せるに限りますな」
「すみません、本来おれが行くべきところを。……まあ、タチバナが役に立ったのならよかった。安心しました」
ところで、と三善は突然真面目な表情になる。雰囲気が変わったことを察したのだろう、九条はぴくりと眉を上げ、続きを促した。
「ブラザー・ヨハンのことですが」
「ああ、彼か。いい子だよ、勉強熱心だし、よく働いてくれる。三善君、会ったのかい?」
「ええ、先程外で」
どうやら九条は、彼に少なからず好感を持っているようだ。あの風貌にあの雰囲気ならば、信頼を勝ち取るのは容易だろう。
胸が軋んだ。やはり、彼は他人なのだろうか。――否、そう考えるほうが普通なのだ。
死んだ人間が生き返るなんて、あり得ない。
思わず、三善の右中指が傷だらけの銀十字に触れた。ゆっくりとなぞると、彫刻によるものではない歪なくぼみを感じる。その行為は半ば無意識だった。
「センセ、大丈夫ですか?」
突然の橘の声に、やっと三善は現実に引き戻される。
「え? な、なに?」
「痛そうな顔、していますけど……どこか具合悪いんですか?」
そんな顔をしたつもりはない。しかし、橘も九条も何かただならぬものを感じ取ったらしい。九条に至っては焼きネギを首に巻くといいとか、しょうが湯がどうとか、そんなことを熱弁し始めた。橘は橘で「いつも腹出して寝るからいけないんですよ!」と主張し始める。風邪と勘違いしているようだ。まあ、それはそれで都合がいい。
大丈夫だから、と一言告げると、今にもネギを焼き始めそうな九条を止めにかかる。この人物、いい人には違いないのだが結構猪突猛進タイプだ。今でこそ落ち着いているけれど、きっと若い頃はもっと突っ走る性格だったのだろう。
しかしながら、彼らのそのずれた行動は今の三善にとって大きな救いとなった。
三善は思う。
あのひとのことは、よくない妄想だ。
きっと、妄想に、違いない。
***
ネギを焼くことは阻止できたが、しょうが湯だけは譲らなかったので、三善はそれを飲んでから支部に戻ることにした。橘は九条と共に司祭館の給湯室に行ってしまったので、その間三善は外でイヴに電話をかけることにした。
数回のコールの後、無機質なイヴの声が電話の向こうから聞こえてきた。
「ああ、おれおれ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
おれでは通じないとイヴが文句を言うので、三善は笑いながらそれをたしなめる。その身体に主人の肋骨がある以上、主の認識など容易いだろと反論する。
『それで、なんですか? 聞きたいことというのは』
「ああ、この一カ月くらいの間で、道南地区に異動になった聖職者はいる?」
『少々お待ちください』
教会のステンドグラスに夕陽がにじむ。きっと内陣から臨めば、素晴らしい光に満たされているのだろう。イヴが検索している間、三善はそれを想像して少しにやついた。中でかけることも考えたが、あの場所で携帯電話を使用するのはご法度だった。
『おまたせしました』
「おう。それで?」
イヴが淡々とその事実を告げる。同時にさっと、血の気が引いた。
なんだって、と言う前に、予想外の出来事が起こった。後ろから抱きすくめるように何かが三善の動きを拘束し、右耳に当てていた携帯電話を奪った。
「な……!」
振り向こうと三善の身体が動く。だが、その必要はなかった。その正体が誰なのか、三善はとてもよく理解していたためだ。
赤い瞳は先程のように揺れ動くことなく、ぴたりと静止している。瞬きすら忘れているようだ。睨めつけるような鋭さを孕んだ眼光が、背後の彼にじっとりと向けられる。
「……返してくれませんか、それ」
すでに通話は切られてしまったのだろう。彼――ヨハンの手の中で、携帯電話の白いボディが夕陽を反射している。白んだ光が目に眩しい。ふ、と深紅の瞳を細めると、視界の隅に映る彼の姿も同時に暗くぼやけるようだった。
「余計な詮索はしないでほしい。司教」
ヨハンがそう言いながら、すぐに三善の拘束を解く。そして、呆然とする三善の左手に奪い取った携帯電話を握らせる。そして、その手を両手で包み込んだ。
紫の瞳が何かを静かに訴えていた。冷たい両手がその訴えをひたすらに遮っている。
「その顔で、」
ようやく黙っていた三善が口を開く。
「――その顔で、そんなこと言うな。バカ!」
そしてヨハンの両手を振り払い、逃げるように司祭館へと走り出した。
どうしてあんなことを言ったのか、いまいち理解ができなかった。
全身であの人物を拒否しているのか。今まで作り上げてきた自分の中にある『あの人の贋者』が崩れゆく感覚が苦しいからか。おそらくそれもあるのだろうが、一番声を上げて叫びたいことはそれじゃない。
乱暴に司祭館の戸を開け、室内に飛び込んだ。閉じた扉に寄りかかり、喘ぐ息をゆっくりと抑え込む。まだどくどくと妙な拍動が身体を震わせ、新しい空気を求めていた。
白濁とする思考の中で、またあらゆる記憶が交錯してゆく。どろどろと溶け合い混ざり合い、鮮明さを徐々に失ってゆく。それでも、先程聞いた声だけははっきりと認識できた。
先程、電話の向こうでイヴが言い放った言葉はこうだ。
『道南地区には、主人以降新しい赴任者はひとりもいません。あなたがご存じの通りです』
ならば、あの男は誰なんだ。
『あのひと』の姿で現れたあの男は。敵なのか味方なのか、それすらも判断がつかない。否、三善はそれが重要だとは思っていない。それよりも、自分の知る状況とやらがいよいよ信用できなくなったのだということへの不安が何よりも先に駆け巡る。
「くそっ……」
あのひとは、まさか。
「変に……期待、させないでよ……!」
自嘲めいた乾き切った笑いがこみ上げてくる。どう考えてもおかしいじゃないか。分かっているのに。
それでも、頭に浮かんだひとつの疑問は消え去ることはない。
彼が近づいたときに感じた匂い。あれは、白百合の匂いだ。棺に入れたものと同じ、凛とした香り。彼の肉体の代わりに棺に入れた花だ。
忘れることなどできない。できやしないのだ。
本当に、あの日「ケファ・ストルメント」という名の人物は死んだのだろうか?