第二章 1
『橘のことなんだけど』
夜の帳が街を暗く濁らせる。しかしながら、暗褐色の空気はこの街の純度を高める上で最高の要素でもあった。
それはなぜか?
この街は夜においても、生き生きとしたまばゆいほどの輝きを見せるからだ。そう、昼間の穏やかな景色から一変、この街の夜はきらきらとした生命の彩りに満ちるのである。その『明かり』によって。
昼間が自然の世界だとすれば、夜は人工の世界。
ほんの二年前までは、夜はヒトならざるものの世界だった。おかげで街は夜になるとまるで死んだように活気を失い、正体の分からぬ敵に怯えたものだ。
その状況をここまで変えるために、二年を費やした。長いようで短い、二年。
きらびやかな景色を窓越しに眺めていた三善は、携帯を耳に当てながら桟に腰掛けた。先程まで風呂に入っていたので、灰色の髪はまだぐっしょりと濡れており、肌もまた湿気を帯びている。暑かったのか、黒いシャツを一枚、前を開けた状態で羽織っていた。
三善はタオルで頭を拭きながら、ぼんやりとその声を聞いていた。彼の耳に飛び込んでくるのは、彼がよく知る女性の声だった。
「ああ……、ホセから聞いたの?」
そう尋ねると、曖昧に電話の向こうの彼女は答えた。
『ええ、まあ……。ブラザーは“パンドラの匣”……を、持っているって。それくらいしか教えてくれなかったけれど。三善君の“箱”と似たようなものなの?』
「そういうことらしい。おれも詳しいことは分からないけど」
『ねえ、三善君。あの子、無理してないかしら』
不安げな声が返ってくる。三善はしばらく月明かりに照らされた床の木目をじっとなぞるように見つめていたが、それをやめて唐突に顔を上げた。声色だけはやたらはっきりとしていて、それが自分でもおかしいと思った。
「無理は……していると思うよ。タチバナがここに来てから一カ月。平気そうな顔はしているけど、慣れない環境で相当の負担になっていると思う」
『そうよね。……私がそうだったもの、多分辛い思いはしているでしょうね。橘はああ見えて繊細なところがあるから。私が言うのもおかしい気がするけれど、三善君』
「うん?」
『橘を、よろしくお願いします』
電話の向こうから、真剣な声が届いた。そりゃあそうだ、実の弟がまさか自分と似たような状況に陥るなど、彼女は思ってもみなかったのだろう。心配で心配でたまらないはずだ。本当は今すぐにでもこちらに飛んでいきたいが、現実はそうもいかない。
だからお願いするのだ。この人なら、きっと彼のことを大事にしてくれる。そう信じて。
その気持ちがなんとなく理解でき、三善は小さく頷いた。優しい声色で、宥めるような口調で。ゆっくりと言ったのだった。
「うん……絶対に守るよ。雨ちゃん」
ぽたり、と髪から滴が落ち、床に丸い跡を残した。
***
ゆっくりと手を伸ばす。震える指。
真上に掲げた己の手を仰ぎながら、橘は今から身長を伸ばす方法を真剣に考えてしまった。場所はエクレシア箱館支部――を離れ、本日は市内の教会を訪れている。ここに勤める九条神父が、書庫の整理をしたいので人手を貸してくれないかと連絡してきたのである。
この九条神父、三善がこの地にやってきたばかりの頃から何かと工面してくれており、本人曰く「何から何までお世話になりっぱなし」の人物なのだそうだ。そんなこともあり、正直三善は彼に頭が上がらない。
だからその連絡を受けた時は三善が自分で行くつもりでいたのだが、緊急で入った用事を優先しなければならなくなった。おかげで三善は市内中心部から離れなくてはならなくなり、指定された日に作業をすることが難しくなってきてしまった。日を改めることも考えたが、相手の都合もあるだろう。困った末に、三善は橘を派遣したのだった。
用が済んだらすぐに行く、と言い放ち、愛用の自転車に跨り出かけてしまったのを橘はよく覚えている。
そんな訳で、橘は今、教会の奥にある書庫の整理をしていたのだった。
九条曰く、ここには貴重な文献・資料などが立ち並んでおり、それが彼にとっての自慢なのだという。しかしその言語が何語なのか分からない橘にとっては、正直あまりその価値が分からなかった。
結局どうやっても手は届かなかったので、橘は小さくため息をつくと、その場に一旦腰掛けてしまった。彼はそこまで背が低いという訳ではないのだが、いかんせんこの本棚の高さが半端ない。脚立を使い、ぎりぎりまで手を伸ばしてやっと上から二段目の棚に手が届くくらい。一番上の棚は指先がかすりもしなかった。
せめてセンセくらいに身長があればなぁ、と思う土岐野橘・身長百六八センチメートル。比較対象になっている三善と比べてもたったの三センチ差なのだが、この三センチが意外と大きいのだ。
その時、ふと書庫に人の気配を感じた。橘は立ち上がる。もしかしたら早く用を済ませた三善かもしれない。
「センセ?」
軽く呼びかけると、返事はない。しかし彼はすっかり三善だと信じ込んでしまったので、一方的に話しながらその気配に近づいていった。
「遅いですよ。手が届く範囲は終わらせたので、申し訳ありませんが上の方をお願いしてもいいっすか……、おわ」
そのまま本棚の角を曲がると、真正面から誰かにぶつかってしまった。最初に飛び込んできたのは、黒い聖職衣。
「Ach! Entschuldigung!」
そして聞き慣れない声と知らない単語が頭上から降ってくる。驚いて目を剥いていた橘は、ようやく声の主を見上げた。
見知らぬ神父なのは確かだった。背は自分よりもはるかに高く、短い金髪は後ろに流すようにまとめられている。銀縁の四角い眼鏡は知的な印象を与え、橘の少ない語彙で表すと「やたらキラキラした人」だった。もしも彼が俳優か何かだったならば、確実に熱烈なファンができそうだ。それほどまでに、現実離れした美しさだったのだ。
そこまで考えたところで、ようやく橘が彼の白い肩帯を引いていたことに気が付いた。
「ご、ごめんなさい。違う! そーりー?」
慌てて離れ、再び頭を下げる。もう恥ずかしくて恥ずかしくて、頭の中が爆発しそうだった。混乱状態もいいところで、よく謝罪の言葉がすんなり出てきたと思う。
「ああ、こちらこそごめんなさい。前をよく見ていなかったから」
彼は優しい物言いでそう言い、橘の両肩をぽんぽんと叩く。
「怪我はなかったかい?」
「は、はい」
その神父は橘の返答にほっとしたのだろう。綺麗な紫色の瞳をゆっくりと細め、優しく微笑んだのだった。その物腰の丁寧さといったらない。同じ男である橘も、ついつい見惚れてしまうくらいによくできた所作である。
彼はどうやら本を探していたらしく、棚に目を向けると、一冊拝借してすぐに出て行ってしまった。その背中をいつまでもぼうっとした目線で追う橘である。
きれいな人、だなあ。
あの神父の左耳。三善がイヤー・カフを付けているのとちょうど同じ場所に、白い石のピアスを付けていた。それがどうにも三善のイヤー・カフを連想させるのだ。おかげでふと脳裏に浮かんだ三善の姿を思い浮かべた橘は、ついつい「真逆だ」と苦笑する。
自分の先生も悪い人ではないし、他所で見せる穏やかな表情も物腰も確かに感心してしまうほど丁寧ではあるのだが、いかんせん素がぶっきらぼうだ。あの脅威の二重人格を踏まえると、やはりあの神父の方が人間性的にもよくできているのではないかと思ったりするのである。
「どうですか、橘君」
穏やかな老齢の声が聞こえた。奥から九条神父がひょっこりと顔を覗かせる。そして棚が整然と片付いているのを見て、嬉しそうににっこりと笑った。
「ああ、すごくきれいだ。ありがとう、この歳になると力仕事が辛くてね」
「いいえ、こういうことでしたらいつでも言ってください。俺、掃除は好きなんで」
それは心強い、と九条神父は橘の頭を優しく撫でる。彼はその年齢もあるのだろうが、橘のことをまるで孫のように可愛がっている。ちなみに三善は息子扱いしているという少々度胸のある彼だが、橘自身も祖父ができたような気分で、大変嬉しく思っていたのである。
なんとなく、三善が彼を慕う気持ちが分かる気がした。
「あっ、九条神父。ところで、先程知らない神父様に会ったのですが……」
そこで橘は先程の金髪の神父のことを突然思い出した。ここにやってきたということは、九条も間違いなく知っている人物だろう。なにせこの書庫は九条が直接管理しているものだ。利用許可も当然彼が判断しているはずだ。
彼は一度きょとんとして首をかしげたが、すぐに思い出したらしく、ああ、と頷いた。
「ヨハン・シャルベル神父のことかな。先週から教会の手伝いをしてくれているんだ。元々エクレシア勤務だったはずだから、もう知っていると思ったのだけれど……」
「ええと、それは、俺がまだちゃんと位階を得ていないからかもしれませんね。あとでセンセに聞いてみます」
そうかもしれないね、と九条は笑う。そして、休憩にしようかと持ちかけたのだった。
***
その頃、三善は九条神父の教会裏に自転車を停めていた。きちんと二重ロックにし――こういうところだけ彼は几帳面である――、額から流れ落ちる汗を袖口で拭う。
急いで用事を済ませ自転車で字のごとくかっ飛ばしてきた三善である。信頼できる九条の元に橘を預けたけれど、やはり不安でたまらなかった。昨夜の土岐野との電話もその原因のひとつだろうが、できるだけ目の届く範囲に彼を置いておきたいのだ。
喘ぐ息をゆっくりと吐き出し、暑さで鈍る思考を冷ますべく何度か深呼吸した。肺に清浄な空気が満たされて、乱れる心音も徐々に落ち着きを取り戻してゆく。
「……さて」
あいつを迎えに行くか。
最近風が冷えてきたので、クールダウンするにはちょうどいい。肩からずり落ちそうになっている緋色の肩帯をかけ直し、自転車のハンドルに掛けていた黒の鞄を引っ掴む。
――いっそタチバナが司教にでもなってくれたら、司教見習いとして違和感なく連れまわすことができるのに。
三善はかなり無理やり且つ強引なことをぼんやりと考えた。自分もできるなら彼もできるのでは、と内心思うのだが、後々無理が生じるだろうと容易に想像ができる。すぐにこの考えは却下した。
そんな大した利益にもならないようなことを延々と考えながら角を曲がり、戸口にその赤い瞳を向けたときだった。
戸口からちょうど、誰かが出てきた。
九条神父だろうか。
そう思い、声をかけようと三善はにこやかな笑みを浮かべ片手を挙げようとする。――だが、しかしそれは結果叶わなかった。
「――っ!」
出てくるはずの言葉が、『彼』の姿を見たと同時に霧散してしまったのだ。
そこから出てきたのは、すらりとした背の高い神父だった。黒い聖職衣に白い肩帯を下げており、その恰好から一般神父だと推測できる。短く後ろにまとめられた金髪に、銀縁の眼鏡。左耳に見えるのは、白っぽい石のピアスだ。
彼の穏やかな表情には、どこか既視感があった。
心臓がばくばくと激しく動き出すのが嫌でも分かる。心臓の音がこんなに大きいものだとは思っていなかった。やたらうるさいその音は、その他の音を全て瞬時に打ち消してしまった。
どうして?
叫ぶ拍動の向こうで、長い間「しまいこんでいた」記憶が再生される。
――最後くらい笑え。ばか。
やめてくれ!
脳裏に焼き付くその優しい声に動揺し、三善はとうとう鞄を落とした。どさり、と重たい音がする。その音がまるで鐘の音のように延々と木霊して聞こえ、記憶の中の『あのひと』の声と共にぐらぐらと揺れた。
――本当に、一緒に来なくていいんだな。
己を惑わすその問いが、耳にこびりついて離れない。
三善の身体は硬直し、そのままぴくりとも動けなくなる。指先が凍るように冷たい。口が妙に渇く。どうしてだろう、喉すらもきゅうっと締め付けられるように苦しかった。
拍動と、共鳴する声。それを必死に打ち消そうと、三善は何度も別のことを考えようとした。だが、考えれば考えるほどその声は大きくなる。
堰を切ったかのように溢れだす。淀みない音の川が激しくせめぎ合う。
どうして、目の前の神父は。
どうして、『あのひと』に似ているんだ。
鞄が落下する音により、目の前の彼がこちらに気がついた。彼の眉が僅かに震える。そして、のろのろと彼は三善にその瞳を向けるのだ。
心が叫んでいる。やめてくれ、と。しきりに悲鳴をあげ、慟哭にも似た濁音が脳天に響いている。警鐘とも紛うほどの鋭さが、そこにはあった。
紫水晶を思わせる瞳が、三善の姿を捉えた。
やめてくれ、これ以上幻覚を見せないでくれ。甘い期待を抱かせるな。
なぜならもう、自分が望む『彼』はいないのだ。冷たい冬の海にその身を沈め、泡となって消えたはずなのだ。
これは――そう、幻だ。
そう思っても、呼ばずにはいられない。その姿形、どれをとっても『あのひと』そのものなのだから。
「どう……して、」
どうして、こんな幻想を見せるのだ。どれだけ試したら気が済むのだろうか。
「け、ふぁ……っ?」
――神様。