第一章 6
「内密に……?」
三善が怪訝そうな声色で問う。「それはどういう意味だ」
「言葉通りの意味だ」
いよいよ橘は、隣の司教が犯罪者になるのではないかと肝を冷やしている。帯刀が持ちかけている話、内密にという部分をやけに強調しており、それがより不信感を煽るのだ。
橘が三善へ目を向けると、彼は思案顔のままじっと押し黙っている。そして、どうにも決めかねているといった様子で尋ねた。
「それは、こいつが聞いていても大丈夫な話だろうか」
「構わない。というか、その子は今後みよちゃんと行動を共にするんだろう? であれば、逆に聞いていた方がいいと俺は思う。みよちゃんが彼に聞かせたくないのなら話は別だが」
「……、いいよ。このまま聞こう」
三善は判断し、そう返答する。帯刀は短く頷くと、彼独特のさっぱりとした口調で言い放った。
「近々、“七つの大罪”がこちらに攻め込んでくると見ている。対象は“憤怒”および“怠惰”だ」
ぴくりと、三善の眉が動く。帯刀の話に興味を示したらしい。赤い瞳を帯刀へ向け、じっと腹の内を探っている。そしてそれをごまかすべく作り笑顔を浮かべたのを、帯刀はぼんやりと曇る視界で感じ取っていた。
「面白い。聞かせてくれないか」
「ああ。五年前に俺が“憤怒”を一度行動不能にしているが、ここ数か月でようやく彼に動きが見られた。とはいえ、まだ大っぴらに動いている訳じゃないんだが」
帯刀は暫し逡巡し、それからこのように言った。
「みよちゃんは、“七つの大罪”が内部的に仲違いしているのは知ってる?」
「む」
三善は首を横に振る。「いいや、知らない。というか、何でそんなことになっているんだ」
「既に五年前の段階で“傲慢”と“憤怒”、その他五人という関係になっていた。昔、聖職者だけを襲う連続通り魔っていたろう。あれの正体が“憤怒”なんだけど」
「ああ、それはトマスから聞いた」
「そうか、なら話は早い。"憤怒"の真の狙いは『終末の日』を引き起こすことだ。その他五人は逆に、『終末の日』を阻止しようとしている。“傲慢”は……、この際どうでもいい。今生のうちは現れることはないだろう」
これが前提、と帯刀は言う。
三善はじっと彼の話に耳を傾け、時折ゆっくりと瞬きをした。その頭の中で彼の言うことを整理しているのだろう。いつにも増して真剣な面持ちでいる。
「当時“憤怒”は俺から『契約の箱』の所在を聞き出し、それを扱うことのできるみよちゃんを誘拐するつもりでいたらしい。最終的に『契約の箱』が手に入った段階でみよちゃんにそれを開匣させ、『終末の日』を到来させる。ざっくり言うとこんな感じのシナリオだ。ところが、俺がそれを妨害したため、しばらく“憤怒”は動けなかった」
「……、なんとなく分かってきた。次に“憤怒”が行動を起こすときは、別の手段で『契約の箱』を開匣させようとする。そういうことだろ」
「ああ」
帯刀が頷く。「そこで登場するのが、今エクレシア内で話題に上っている『パンドラの匣』だ」
そのとき、まるで話の腰を折るかのように注文していた料理が並び始めた。
色とりどりの野菜が用いられた前菜だ。視覚的に食欲をそそるそれを目の当たりにしたところで、三善はようやく空腹を思い出したらしい。胃が小さくきゅるきゅると鳴った。
「し、失礼」
三善、思わず赤面する。
「いいよ、長距離の移動をしてきたんだ、お腹も空くだろう。気を遣わせて悪かった」
「ゆき君も美袋さんも、今回は札幌から出られないんだから仕方ないでしょう。そういうことならおれはいつでも駆けつける」
話は一旦打ち切られ、手を合わせたのち四人は食事に手をつけ始める。
食事のときは仕事の話をしない。これが三善と帯刀の間にある暗黙のルールで、それを理解している慶馬も必要最低限の話しかしないように心がけていた。手袋をはめた左手がフォークに伸びる。一度妙な震えを起こしたが、ゆっくりと指をフォークの柄に乗せ、そっと取った。
帯刀はそれを見て見ぬふりをしている。
「ところで、ええと。橘君と言っただろうか。君の話を聞きたいな」
黙々と二人の顔色を窺っていた橘は、帯刀に唐突に話を振られ思わずどきりとした。握っていたフォークを一旦置き、ためらいがちに答える。
「え、俺……僕の、ですか?」
「俺、でいいよ。みよちゃんと一緒にいるってことは、結構苦労しているんじゃない?」
「ゆき君」
間髪入れず三善が口を挟む。「それ、どういう意味?」
「そのままの意味だ。みよちゃんは昔から破天荒で……」
「む……」
なぜこの場所でホセのような小言を言われなくてはいけないのか。三善は小さく息をついた。
***
外にちょっとした庭があることを教えると、慶馬は案内がてら橘を連れて席を離れてしまった。この席に残るのは、今、帯刀と三善の二人だけである。彼らの前に置かれ湯気を立ち昇らせているのは、琥珀色をした食後の紅茶である。
「……さすが美袋さん。空気を読んだね」
三善が苦笑しながら目の前の帯刀に笑いかけた。張り付いたような、わざとらしい笑いである。その証拠に目は笑っていなかった。
「席を外してもらった方が都合がいいのでは? さっきの反応でそう思っただけなんだが」
「本当に、ゆき君には何でもお見通しだなぁ」
そう、できれば残りの話はこの二人だけで進めたかったのだ。
慶馬ならともかく、この場に橘がいることは不都合だった。帯刀が『パンドラの匣』について触れた瞬間、三善は何故かそう思ってしまった。
彼の前で、『パンドラの匣』――件の御陵市の話をしてはならない。
それに気づかない帯刀ではない。だからこそ、さりげなく会話で誘導し彼らに席を外してもらったのだった。
「橘君が『パンドラの匣』の所有者なんだね。いい子じゃないか」
薄く微笑みながら、帯刀は紅茶に口をつける。その様子を、三善はじっと見つめていた。
「それで……、『パンドラの匣』と“憤怒”がどう関係するの」
帯刀はそっとカップをソーサに置くと、それからゆっくりと瞼を持ち上げた。
「『契約の箱』には、絶対に近づけてはならない釈義がある」
帯刀は、はっきりとした口調で言った。「『契約の箱』が開匣するタイミングは二種類あるんだ。一つ目は、その箱の持ち主が自分の意志でそれを開いたとき。そして二つ目が、その『近づけてはならない釈義』の影響を受けたとき、だ」
三善は暫し逡巡し、それから、「ああ」と苦悶にも似た声を上げた。額に手を当て、一体どうしたものかと長く息をつく。
「ようやく君が言わんとしていることが分かってきた。つまり『パンドラの匣』がその『近づけてはならない釈義』である可能性が高い、とでも言いたいんだろう」
「可能性、じゃないな。これは既に確定事項だ」
帯刀はすぐさま三善の言い分に反論した。「だから君があの子をここに連れてきたとき、正直俺は『終わった』と思った。この時間軸はまた『終末の日』を引き起こす。必ずだ」
三善は低く唸りを上げ、「それでも、それでもだ」としきりに呻いている。
「それでもおれは、あいつを見捨てることができない。どうしても」
「そう言うと思った」
だから手を組んでほしいのだ、と帯刀は言った。
「その様子だと、みよちゃんは今の時間軸が大司教による『一〇〇九三回目』のやり直し途中だということを知っているな」
三善はのろのろと頷く。
「ああ、知っている。もしも今回失敗したとしても、もしかしたらやり直しができるかもしれない、とも思っている」
「……そうか。いいか、みよちゃん。これから“憤怒”は近いうちに『パンドラの匣』を奪取しに来る。ただ奪うだけではない。彼は“怠惰”の能力を用いて『パンドラの匣』保持者から正常な判断能力を奪うだろう。その状態でみよちゃんと彼を突き合わせるつもりだ。だからみよちゃんがやらなくてはいけないことはふたつある」
ひとつは、『パンドラの匣』所有者と“七つの大罪”を可能な限り遠ざけること。
もうひとつは、なるべく早いうちに『大司教』と会うこと。
それを耳にした三善が怪訝そうに眉をひそめた。
「大司教に会う? 一体なぜ」
「そうだ。大司教のことは、今、俺が探しているところだ。見つけ次第彼と会ってほしい。今この状況の総ての手綱を握るのはあのお方だ。来る『終末の日』への歯車を止めるとは言わない。せめて速度を緩めることができればと俺は思う」
三善はふと、かつて閉架十三階で耳にした言葉を思い出した。
――あの人をさがして。あなたがあの人に会えば全て終わる。
ああ、そういうことなのかと、そのとき三善はようやく理解した。
「話は分かった。俺も自分の父親には会ってみたいと思っていたしね……。一体どうして“七つの大罪”との間に子を為したのか、小一時間くらい問い詰めてやりたい。たくさんの人が犠牲になりつつも、それを止めようとしなかった真意も知りたいし」
「じゃあ……」
「ゆき君。ひとつだけ条件がある」
三善の紅き瞳が帯刀の薄氷色の瞳を睨めつけた。
「タチバナのことだ。おれは“七つの大罪”からは守ってやれる。だけど、もしも今後タチバナの存在が件の御陵市塩化の首謀者として一般人に露見してしまった場合、おれの手ではどうすることもできない。きっと報道の連中は大げさに書きたてるだろうし、大衆はそれだけの脅威になる。そうなったら、タチバナの心がだめになってしまう。なんとか彼の存在を隠蔽して、“情報”という観点から守ってやってくれないか」
自分の非力さ故の願い事。こればかりはどうしても、自分ではどうしようもないことを切に訴えていた。
この潔さが、三善を気に入った理由のひとつでもある。帯刀はゆっくりと瞳を閉じ、首を縦に動かした。
「約束する」
その返答に、ようやく三善は緊張の糸を解いた。ふうっと長く息を吐き出し、リラックスした態度で顔を崩した。よかった、と言わんばかりの表情である。
それを見て、帯刀の方も安心したらしい。
「よかった。やっといつものみよちゃんになった」
「……おれはね。そうは言われても、もう元に戻る気はないよ」
そして三善は冷めた紅茶に口をつけた。
「贋者でもいいんだ。みんなが本当に必要としていたのは『ケファ・ストルメント』だから。『契約の箱』の時でさえも、あの莫大な力を抑えたのは『僕』じゃない。聖ペテロの釈義だ。それに、ケファに関わりのある人たちと何度か話したけど、やっぱり、そう思う。幸い、『僕』はペテロの釈義を引き継いでいる。『あのひと』の代わりになれるのは『僕』だけだ。ならば、『僕』はそう在るように努めるべき。今この時、『姫良三善』は必要ない」
こんな話をしたのはゆき君が初めてだ、と呟きながら、その赤い瞳を窓の外に向けた。いよいよ夕日が沈むところだった。ほの暗い藍色の空に、瞬く金星が眩しい。
「『僕』がどこから来て、何者で、そしてこれからどこへ向かおうとしているのか。……もう考えるの、疲れちゃったんだ。それよりも、『僕』は残された人々に『あのひと』が存在すると思わせることのほうがよっぽど重要に思える。だから『僕』は『僕』でいることをやめた。もう戻らない。それでいいと納得している」
左耳に揺れる銀のイヤー・カフが、帯刀の目に飛び込んできた。“あの日”以降、彼が欠かさずに身につけている僅かな遺品である。彼はその小さな十字架に誓いを立てたのだろう。
どう考えても悲しい誓いだった。彼はその自分の行為に捕らわれ、もがき苦しんでいるのに。それでも己が縛り付けた縄を決して解こうとはしないのだ。
帯刀は目を伏せた。
「……そうか」
彼がそう言うのなら、気が済むまでそうさせてやろう。
でも、と思う。
帯刀が好きなのは、演技する三善ではない。いずれその歪みが取り返しのつかない傷になることも、知っている。だからこそ、願わくは。
これ以上壊れることのないよう。そう願う他なかった。