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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第一章 5

 その時、奥の部屋からのっそりと三善が出てきた。未だ寝ぼけているようで、その赤い瞳は通常の半分程度しか開いていない。しかし、その出で立ちが白の聖職衣から暗い色をしたスーツに変わっているということは、一応出かけるつもりではあるらしい。

「ほら、噂の張本人が起きてきた」

 茶化すようにロンが言う。橘はつくづく、このだらしない風貌をした司教の本性が詐欺に見えて仕方がない。

 寝ぐせの付いた頭をかき上げながら、ぼーっとした口調で三善はロンに声をかけた。

「ちょっと出かけてくる。今日中には戻るつもりだけど、場合によっては明日まで帰れないかもしれない。その時は神楽(かぐら)の家にでも泊まるから、そのつもりで」

「えっ? みよさま、今日は非番じゃあ」

「こういうときじゃないと動けない用があるの。ミサはいつも通り、別の司祭に頼んでおいてくれないか」

 そこまで言うと、三善はふと橘の存在を思い出したらしい。その赤い瞳を橘へ向けると、彼の名を呼んだ。

「タチバナ、一緒においで。ここにいても暇だろ?」

 そう言うや否や、机の引き出しから車の鍵を取り出した。そして立派な造りをした鞄をひったくるようにして持つと、呆けている橘の首根っこを掴んだ。

「じゃ、あとはよろしく。何かあったら連絡ちょうだい」

 ロンは片手をひらひらと振り、二人の外出を見送る。橘はと言えば、三善に文字通りひきずられるしかなかった。

 まるで、新手のひとさらいである。


***


 正直なところ、三善は車の運転が好きではない。

「免許証それ自体が自分にとって都合のいい身分証明になる」とホセに説得され、渋々普通自動車の免許を約半年前に取得した。だが、日常生活において車を運転する用事なんかほとんどなく、はっきり言って宝の持ち腐れとなりつつあった。

 支部で所有している数少ない公用車の一台に乗るように促すと、三善は車体の前後に若葉マークを貼りつけた。その光景を見て、思わず橘は肝を冷やす。

「せ、センセ。大丈夫ですか」

 失礼と思いつつもついつい聞いてしまう橘だった。三善は別に怒りはしないのだが、妙に曖昧に頷いた。その反応がさらに橘の恐怖心を煽っている。

「多分、大丈夫。ちなみに札幌までお付き合いしてもらうつもりだから、そのつもりでお願いします」

「ど、どれくらいの移動時間なんです?」

「五時間くらいかな」

 おれたちはー運命共同体ー、と調子外れの歌まで歌うものだから、完全に橘が真っ青になっていた。しまったからかいすぎた、とは思いつつも、今更どうすることもできない三善である。あまり飛ばさないようにしようと思ったのは、一応三善なりの誠意ではあった。

 ゆっくりと車が発進し、支部を後にする。

 流れてゆく景色。見知った建物がどんどん遠ざかり、彼らを未知の場所へといざなってゆく。不思議なものだ、橘はこの場所に来てまだ二日しか経っていないのに、もう随分長くいたような気になっていた。

 免許取り立てにしては意外と運転上手だったので、橘は内心安心していた。ふと前を見据えている三善の横顔を見ると、その耳に銀の十字架が瞬いている。初めて見たときはこの飾りが威圧の対象としか思えなかったが、今はその優しい光にほっとしている自分がいる。

 本当に不思議な人だ。掴みどころがないと言えばそれまでだが、まあ悪い人ではなさそうだ。

「……ところで、ロンから何やらレクチャーされていたみたいだけど。君はどこまで聞いたの?」

 おもむろに三善が口を開いた。先程ロンが懇切丁寧に説明した例の件を、どうやら彼も扉の向こうで聞いていたらしい。別に隠す必要もないと踏んで、橘はそれとなく答えた。

「あなたが……次期、教皇だというところまではなんとなく」

「ふぅん。そっか」

 さも興味がなさそうに返答すると、三善は丁寧にハンドルを切る。「どう思った?」

「どう、というのは?」

「ふざけるなとか調子に乗るなとか頭が高いとか。いくらでも言ってくれて構わない。おれも正直、そう思うからね」

 口調も表情も先程から変わらずに淡々としている。しかし、棘で覆われた言葉の片鱗に、どこか哀しげな印象を纏っているのは気のせいだろうか。

 橘の黒い瞳が三善の横顔を見つめる。

「正直……突拍子もないと。そう思いました」

「ふむ。それで?」

「それでも、不思議ですね。納得しちゃった自分が今、ここにいるんです。ブラザー・ホセやブラザー・ロンが言うことから考えると、どうやら他の人はあなたを天才だと思っているみたいですが。俺は違うんじゃないかなって、思うんです。天才の質が根本的に違うと思うんです」

 面白い、と三善は笑う。

 少しだけ気を良くしたようで、彼から感じられる雰囲気がわずかにふんわりと優しくなったことに橘は気が付いた。ただそれだけ、それだけのことなのだが、橘は自分が口にしたことはそれほど的外れではなかったのだと理解した。

「ロンはともかく、ホセが言うことから導き出した答えだと言うなら、その通りだろうな。あのひとはそういう洞察力だけはあるから」

 かねてより疑問だった。

 本部に連れて行かれたとき、混乱する橘を根気よく世話してくれたのがホセであった。そのときでさえ、他の神父は彼のことを名ではなく位階で呼んでいたことをはっきりと覚えている。このことから、ホセという神父が相応の地位のある人物だということを知ったのだが、この三善だけはなぜか名だけで呼んでいる。

「センセ。ブラザー・ホセは……」

「ああ、おれの親父だ。見た通り義理だけど」

 あれが本当の親父だったら最悪だ、と三善はぼんやりと呟いた。

「正確には未成年後見という制度で、おれの財産を管理していたのがホセ。実際はホセとケファが二人で――」

 はっとして、突然三善は黙りこんだ。自分の言ったことにかなり動揺したようで、目線を前に向けたまま唇を震わせている。

 センセ? と橘に顔を覗きこまれたが、三善はすぐに微笑んだ。一瞬垣間見せた動揺を払拭するかのように。

「――まあ、そういうことだ。あれはおれの親父。今となっちゃあ、ただの化け狸だけどね」

 しかしながら、その化け狸が橘の世話をしなければ、三善と橘が出会うことはなかった。その点だけは神様とやらに感謝しないといけない。

 三善はそう言ったきり、固く口を閉ざしてしまった。しばらく沈黙が続く車内。

 橘は車窓から流れる景色を眺め、そっと息をついた。


***


 予定よりも数時間遅れ、二人は札幌市内のとあるホテルに辿り着いた。

 三善が道に迷ったのである。途中コンビニで休憩をとった際、三善がどこかへ電話をかけていたのを橘は知っている。しきりに謝罪しているその素振りから、おそらく相手は今日約束をしていた人物だろう。

 車を駐車場に停め、二人はホテルに併設されるレストランに入ってゆく。ちなみに、ホテル・レストランといっても、それらの単語にはいちいち「高級」が付いている。だから駐車場に入る際、心配になった橘が何度も「間違いじゃないですか」と確かめてしまった。

「君はおれを一体なんだと思ってるの……」

 呆れてものも言えない三善である。

「ところで、センセ。ここになんの用があるんです?」

「ちょっと言えないことをしに」

 いけない匂いがする思わせぶりな発言に対し、「まさか公的資金の流用では」と物騒なことを考えた橘。それに自分も加担するとなると、これは一大事ではなかろうか。一気に身体が冷えた。

「センセが犯罪者になるのは嫌です!」

「バカ、誰が犯罪者だ」

 本当に信用ねえなぁ、と思わず三善は肩を落とした。

 気を取り直しロビーで予約席の旨を告げると、二人はすぐに席に通される。

 二人が案内された席には既に二人の男性が座っており、すっかり待ちくたびれた様子でいた。

 一人は茶髪で、両サイドだけを長く垂らし後ろは短くしている。少し珍しい髪型だった。その彼がちらりとこちらを見た時、橘はあっと思った。彼の右目にかけられているのは黒色をした眼帯である。左目は健在のようだが、独特の蒼い瞳はどこか焦点が合わずにぼうっとしている。

 そしてもう一人は短い黒髪に黒い瞳。年齢はおそらく、ブラザー・ホセと似たようなものだろうか。二人はどちらも三善同様暗い色のスーツを身に纏っていた。

「ゆき君、ごめん。道に迷ったんだ」

 随分くだけた様子で三善が話しかける。どうやらそれなりに仲の良い人物らしかった。

 ゆき、と呼ばれた茶髪の青年はようやく三善の姿を捉えたらしい。ぱっとそちらに目を向けると、にこりと笑う。

「いい、いい。そんなに待っていないし、今回はこちらが呼び出したようなものだから」

 そこで彼は、三善の背後にいる橘の姿にようやく気が付いた。ちらりと橘に目を向けると、失礼にならないように丁寧な物腰で、やんわりと尋ねた。

「みよちゃん。そちらは?」

「ああ、土岐野橘という。訳あって、教会(うち)で預かることにしたんだ」

「土岐野……?」

 その名前に、彼は微かに顔をひきつらせる。しかしそれはほんの一瞬の出来事で、三善も橘も彼の表情の変化に気づいていなかった。

 橘、と三善が振り返る。

「こちらは帯刀(たてわき)(ゆき)君。おれと同じ聖職者で、プロフェットだ。その隣が、彼の後見人にあたる美袋(みなぎ)慶馬(けいま)さん。挨拶して」

 言われるがままに橘は頭を下げる。

「いや、今の慶馬はただの秘書かな……まあ、似たようなものか。あなたも顔を上げてください、もっとよく顔を見せて」

 頭上で帯刀が苦笑している。穏やかな物腰に安心しつつ、ふと、橘の脳裏に彼らの名が過った。

 ――今、たてわき、と言っただろうか。

 その名が頭の中で一致したとき、橘はがばりと勢いよく頭を上げた。

「帯刀って、あの、帯刀ですか? 国内はおろか海外でも名を馳せる超がいくつあっても足りない有名企業の……」

「ああ、うん。その帯刀だ」

 けろっとした様子で三善は返答した。

 この司教、一体どういう人脈を持っているのだろう。心底恐ろしい人間である。

 すっかり固まってしまった橘を席に座らせ、三善自身も彼らに向かい合うような形で座る。

「直接会うのは久しぶりだね。いつぶりだろう、しばらくアメリカにいたんだろ」

「ああ。ここ数年はアメリカで姉の手伝いをしていた。向こうには長期滞在する理由があったし……、日本に戻ってきたのはつい最近だよ。正直、まだ時差ボケしてる」

 そこまで言うと、帯刀は眉を下げ、ためらいがちに口を開いた。

「その……遅くなって大変申し訳ないが、ケファ・ストルメントの件。お悔やみ申し上げる」

「……うん。ありがとう。彼も喜ぶよ。あの日、ゆき君から連絡をもらえて本当によかった。美袋さんの件で大変な思いをしていたのに、悪かったね」

「それこそ、みよちゃんが気にすることじゃないな」

 ひとり話についていけない橘は、きょとんとした様子で二人の顔を見比べた。その奥の方で、慶馬も無表情のままに二人をじっと観察している。そんな慶馬と視線がかち合い、橘は自分の落ち着きのなさを恥じた。

「それで、今回はどうしたの。天下の情報屋がおれを呼び出すってことは、なにか相応の理由があるんじゃないか」

 三善が尋ねる。

 帯刀は一度首を縦に動かしたきり、じっと押し黙ってしまった。どこから話をすればいいものか、本気で悩んでいるようだ。

 しばらくして注文を取りにきたウェイターに適当なものを頼んだ後、再び四人の中に沈黙が訪れる。

 もしかしたら、自分がいることでなにか話しにくいことがあるのかもしれない。橘はそう思い、席を立とうとした。だが、前方の二人に悟られないように三善が橘の袖を引いた。見ると、赤い瞳がこちらを見つめしきりに何かを訴えている。行くな、と言いたいのだろうか。橘は大人しく座っていることにした。

「……みよちゃん。今日はお願いがあって来た」

 お願い、と三善が曖昧に尋ねる。

「内密に、俺と手を組んでほしい」

 帯刀が発したその凛とした声色は、三善と橘の耳にしっかりと響いた。

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