第一章 3
しばらくして、ようやく三善は橘が控える客間に足を運んだ。彼のことをあまりに待たせ過ぎたからか、橘はなぜかイヴをも巻き込んでトランプ大会を繰り広げていた。
いつの間に、イヴはトランプなんか覚えたのだろう。自分が管理している範疇では、そんなデータはなかったはずだが。
思考回路を順に辿り該当しそうな項目を探していると、あ、と橘が顔を上げる。三善が戻ってきたことでほんの少し安心したようだ。心なしか堅い表情が和らいでいる。
「みよさま、遅い。……あー、奥で煙草吸っていたのか。どうりで」
どうやらその身に纏う香りに反応したらしい。ロンがこちらを見上げて言った。身体に悪いからやめてよね、と付け加えながら。
それを適当にあしらいつつ、三善は空いていたロンの隣に腰掛ける。ちょうど橘と向かい合う形となった。
「ホセと連絡がついた。ええと、タチバナ、だっけ。アレからどこまで聞いている?」
「ええと。釈義がある可能性がある、と。ここに来て訓練すれば、もしかしたらプロフェットになれるかもしれないと、そう聞いています」
どうやらホセは話の核心を本人には聞かせていないらしい。
三善はすっかり困ってしまい、思わず肩をすくめた。どうしたものだろう、嘘ではないが真実ではない認識を、自分の親はこの少年に与えてしまったようだ。
じっと三善に向けられる橘の黒目がちの瞳。それはあたかも仔犬のようで、どうも良心が痛む。
今の彼は単に平常心を装っているだけで、本当は精神的に不安定だというのは見て取れる。彼に例の件――「パンドラの匣」について話すのは早すぎるのだ。しかしこれを話さない限り、彼は自分がいずれ姉のようにプロフェットになれると妙な期待をしてしまうだろう。
内心三善は舌打ちをしていた。いつものことだが、ホセが回してくる仕事はかなり面倒だ。
そしてこうも思う。――ホセに何と言われようと、その責任の重さに自分は未だ耐えきることができない。別に逃げた訳ではない。逃げた訳ではないの、だが。
橘の期待に満ち溢れた黒い瞳は、どうも雨と重なるところがある。それが三善の中で極端な罪悪感を生み、どろどろと迷いが渦巻いている。
どうしよう、どうするべきかとひたすらに悩む三善。ちくちくと良心が痛む。
「俺、頑張るから! お願いです、司教。ここに置いてください」
その健気なまでの必死さが痛い。
じとっとした目でこちらを見るリーナ。ロンは別の意味で三善を睨みつけていたが、イヴだけは中立で、無表情で三善を見つめていた。
困ったなあ……。
思わず長ったらしい溜息をついてしまった。
「……頑張ると言われてもなぁ」
匿うことについては全く異論がないけれど、彼を常に連れて歩くのは無理だ。『あのひと』ですら、共同の仕事を引き受けた場合と講義以外は別々に動いていたのだ。
そんなことを考えている三善を見て、橘はどうやら別の意味にとってしまったようだ。ここに置いてもらうべく、必死になって食らいつく。
「俺、帰りの旅費がないんです。せめてそれを稼ぐまではここを離れることができません! 雑用でもいい、お願いです」
「三善君。こんな子供に働けなんて言えないでしょう? 次期教皇たるもの、慈悲深き心で! 私も協力するよ!」
リーナも妙な方向に勘違いしており、しきりに橘の肩を持とうとする。彼女は自分と三善以外に新しくプロフェットが生まれる可能性に喜びを感じているだけだ。そりゃあ、プロフェットが増えれば彼女にとっては嬉しい限りだろう。橘の肩を持つのも当然だ。
「……うう……」
本気で困った。「ろ、ロンの見解としては」
「プロフェットが増えるのはこちらにも大きな利益がある。損得という観点から言えば、非常に合理的ではあるし、断る理由もない。その代わり、彼を引き取る場合はみよさまの特殊な身の上を理解させることが必須だろうね。俺の嘘が他にばれると困るだろ?」
彼もやはり橘を信じているので、若干の勘違いをしている。しかしまだ客観的なぶん傷は浅い。これから説明すれば大方納得はしてもらえるだろう。
「ちなみにイヴは?」
「私はどちらでも。あなたが引き取るというのならそれで構いません」
つまりどこまでも中立であると。
多数決で、なんとなく引き取らなければならない雰囲気になってしまった。ここで付き離したら鬼だろうな、と自分でも思う。そこまで厳しい物言いができるほど自分は鬼ではない。
覚悟を決めなければならない。
『あのひと』も、きっとこんな気持ちだったのだろう。自分の後見人となるとき、こんなふうに迷いや戸惑いを孕んだ靄がかる気持ちを胸に抱き、それでも自分の手を取ってくれた。
脳裏に『あのひと』の表情が浮かぶ。きっとこんなときは、紫色のきれいな瞳を細めて、困ったように笑うのだ。そして、仕方ないな、と言いながらも大きな温かい手を差し伸べてくれるのだ。
記憶の中の彼は、いつでも自分を支えてくれていた。
今度は、己が少年の手を取る番なのかもしれない。
三善はぽつりと呟いた。
「……イヴ、寮の部屋に空きはあったかな」
とたんに橘の表情がぱっと明るくなる。
「ええ、結構な空きがありますが」
「そうか。位階を叙するまで、どこか貸してやれないかな。できればおれの部屋の近くがいい。寮の管轄は誰だっけ、アヴィセンナかな」
「はい。許可は私が取ってきます」
イヴが一礼し、楚々と出て行ってしまった。
橘がその明るい表情で三善の顔を見上げた。その表情はどことなく、雨のそれと似ている。かなり複雑な心境だった。そういえば、彼女はこの件を知っているのだろうか。あとで電話してみようと三善は思う。
「ありがとうございますっ! センセっ!」
心臓が跳ねた。
「なにその、センセってのは。俺がいつそんな立派なもんになった」
「だって教えてくれるんでしょう? いろいろと」
三善は息を吐き出した。まあ、そういうことになるのだろうが。さすがにそういう名称で呼ばれたことは一度もない三善、気恥ずかしいのと申し訳ないのとで頭が一気に飽和状態となってしまった。ごまかすために額に手を当て、肩を竦めながら言う。
「あのね。教えるのと君が覚えるのとは全くの別問題。そもそもおれは基本多忙なの。そこまでべったりは付いてやれないからな」
「あざーっす!」
「変な言葉使うんじゃないよ、まずは言葉遣いから直さないとな。ところで、ええと。君は学生なんだよね。学校はどこ? 雨ちゃんの弟だから、聖フランチェスコ学院?」
けろっとした様子ですぐに橘は返答する。
「いや、普通の公立校です」
「聖典を開いたことは」
「全くありません」
これは困ったことになった。彼は全くのゼロスタートらしい。
そもそも普通の公立校ということは、日本政府の都合上聖典を積極的に開かせることなどありえないのだ。それこそ訴訟問題になってしまう。雨のときはそれなりに知識があったので洗礼も簡単に済んだが、今回はそうはいかないらしい。洗礼の儀ではおそらく――いや、間違いなく例の暗唱がある。洗礼は一旦本部に戻らないとできないので、「自分がみてやる」ということもできやしない。
その困惑した表情を察したのか、橘は不安になったらしい。おずおずと三善の顔色を窺いつつ、細い声で尋ねた。
「俺、やっぱりまずいんですか……」
まずいよ大いにまずい、とは決して言えない三善である。
その言葉の代わりに、棚に収めてある聖典を引っ張り出した。黒い革張りの表紙で、なかなか丈夫な造りをしている。この支部での会話は基本的に日本語を用いるが、文書に関してはその大半に英語を使用するため、これも例外でなく英語版だった。そして該当ページを開き、呆ける橘にぽっと渡す。
「君の場合はのちのち洗礼の儀を受けることになるだろうから、あらかじめ説明はしないといけないね」
英語……と目を見開いているのは橘だ。雨のときは英語版の聖典を渡してもあまり動じなかったはずだが、どうやらこの橘は英語が不得意であるらしい。目が点になったまま固まってしまっている。まるで「まっしろ」という名前の像にでもなったかのようだ。
「大聖教の洗礼はやることが二つに分けられている。一つは滴礼。聖水を頭に受け、罪を清める儀式だ。俺なんかは浸礼だったけど、おそらく君は一般の洗礼で足りるだろうから、頭に水滴をつける滴礼、もしくは水を受ける灌水でいいと思う」
それを聞いたリーナが唐突に声を上げた。相当驚いたらしく、目を瞠りながら平然としている三善を見上げた。
「えっ? 三善君まさか、浸礼だったの?」
「うん。お前らは違うんだろ、どうせ」
そんなこと知っているよ、と言わんばかりの三善である。諦めと言った方がいいだろうか。自嘲するような語調だった。
そして話を続けた。
「もうひとつはちょっとした試練。聖典の冒頭の暗唱」
「あんしょう……」
この、英語を? と橘の表情が一気に青くなった。
表情がころころと面白いほど変わるので、結構面白い。素直なことはいいことだ。少なくとも今の自分よりはよっぽどいい。三善はふ、と笑い、聖典の背で己の肩を叩いた。
「日本語でいいよ。それだけは母国語を使用することを許されているからね。分量もたかだか四ページ半、気合いを入れればすぐに覚えられるだろ。おれの時は旧約まるごとだったけどさ」
今度はロンが驚く番だった。こちらもぎょっと目を丸くして、問いただすような口調で三善に詰め寄った。緑の瞳がじっと三善の赤を見つめる。
「ええ? 嘘でしょ、みよさま。普通創世記だけだろ」
「私も創世記だけだったけど……」
リーナも彼に同意。
やはり俺だけ違うのか、と三善はがっくりと肩を落とした。ここに異動を命じられてからというもの、この手のカルチャー・ショックはたびたび見受けられる。どうしてだろう、いつもいつも自分だけハードな道を選ばされている気がしてならない。
「ちなみに旧約まるごと、ってのは……」
橘によるこの質問にはロンが答えた。
「創世記に始まり、マラキ書までだから……ええと。軽く一〇〇〇頁は越えるんじゃないの?みよさま」
「日本語訳で一五〇二頁だ。おかげで半年もかかっちゃったよ」
つまり、その量は聖典の半分以上に該当するということか。三善をはじめロンもリーナも完全に笑い話にしているが、よくよく考えたら笑い話にできるほどかわいらしい分量ではない。常日頃それを見つめている彼らは、感覚が完璧に鈍っているとしか思えない。
この人たちおかしいよ! とは思うのだが、そんなことは決して言えない橘である。もしかしたら自分が知らないだけで、彼らにとっては普通なのかもしれない。
「まあ、みよさまは特別だから」
前言撤回。どうやら普通ではなかったようだ。
橘は聖典の旧約の個所をつまみ、「こんなに……」とげっそりとした様子で呟いていた。
「まぁ、それくらいならすぐに覚えられるだろ。頑張って。以上」
そう言い残すと三善はひとりでさっさと部屋を出て行こうとする。それを橘が引きとめた。
「センセ! どこに行くんですか、もう夜ですよ」
「おれは仕事。ちょっと教会群の方に行ってくる。夜明け前には戻るから、それまでは寝るなり勉強するなり、好きにすればいい」
ロンが嬉しそうににっこりとした笑みを浮かべた。夜明け前には戻る、ということは、明日のミサは彼が担当するということだ。普段三善はあちこち飛び回っているので、ミサもほとんど常駐している司祭に任せている。三善が直々に出てくることはかなり珍しいのである。
彼が飛びついてきたのをすんでのところでかわすと、三善はふと何かを思い出したらしい。
「あっ。でもね、朝のお勤めには出席したほうがいいな。明日は週日日程だから、午前三時半起床だね。疲れているだろうし、もう寝たほうがいいと思う」
「さ、三時半……!」
それは朝と言わない、と言わんばかりに口をぽかんと開け放つ橘をよそに、「じゃあね」と三善は片手をひらひらさせながら出て行ってしまった。
再びまっしろになりかけた橘の細い肩を、ロンがなだめるようにぽんぽんと叩く。
「文句を言わない方が身のためだ。なにせあの化け物は基本まとまった睡眠を取らないし。取る暇ない、が正確だけど」