第一章 2
橘が道端に駐輪してある赤い折りたたみ自転車を発見した時には、辺りはすっかりオレンジ色の光に包まれていた。
あれから彼が姿を現しそうな場所を点々としたが、結局見つからず。最後に訪れたのがこの場所・外国人墓地である。
海を臨む小さな入り口に、赤い自転車がぽつんと停めてあった。
すっかり疲れ果ててしまっているが、ここまできたら引き下がる訳にはいかない。彼を探して、橘もその場所に入って行った。
空の色が徐々に変化していく。朱鷺色から、滲んだ藍色に。そうして、この街はネオンの光に包まれてゆくのだ。黄昏の空は、いつもよりもどこかしんとした空気を孕んでいた。
海が真正面に広がるからか、潮騒が耳にぼんやりと響く。ざらざらとした心地のいい音だ。
まるでこの波の音は、この地に眠る人々への鎮魂歌のように感じられた。それだけ澄み切った、哀愁に満ちた音だったのだ。
茶色の小路を小走りで行く橘の耳に、微かに歌声が聞こえてきた。よくよく聞くとそれはどうやら讃美歌のようで、聞いたことのない言語で紡ぎ出されている。橘はその声を頼りに狭い道を歩いた。
――あ、と思う。
海を臨み、柵の前で歌うのは先程の神父だった。風に流されて、緋色の肩帯や銀十字、そして裾の長い聖職衣までもゆったりと揺れている。瞳を閉じ歌うその姿は、先程のだらけた姿などすっかり忘れてしまうほど、神聖且つ美しい。思わずその端正な横顔に見とれてしまうほどだった。
ふと、男は瞳を開けた。炎のような赤い瞳が夕陽の橙を含み、より一層燃え上がった。この瞳はきっと、なにか別のものを見ているのだろう。遠くを見つめる瞳は、自分には分からない次元を見つめているようにも感じられた。
そこでようやく、彼は橘の存在に気が付いた。
「――なんだ、お前か。また会ったな」
ふ、と笑うと、彼は呆然と立ち尽くしたままの橘に右手で手招きをした。
橘はそれに従い、ゆっくりと彼に近づいた。かなりの時間をかけて、彼の横まで辿り着く。遠くの方で船の汽笛が鳴り響いていた。
「きれいだろ」
彼は嬉しそうに言った。「この時間の空が、一番きれいなんだ。後ろの連中も、きっとこれを好きだと思う」
そう言って、彼の後ろに並ぶ白い墓標を指した。彼らは海の向こうの母国を見つめ、そして静かに思いを馳せている。
波の音。しばらくその音に耳を傾けると、徐々に気持ちが溶けてゆくようだった。
今なら、きっと落ち着いて話すことが出来る。
「……あなたが、姫良三善司教ですか?」
橘が呟く。彼はその間、ずっと海の向こうを見つめていた。その顔に表情はない。ただ、見開かれた赤の瞳だけが波間を彷徨っている。それから彼はゆっくり瞳を閉じ、おもむろに返事した。
「うん。そうだ」
「どうして早く言わなかったんですか?」
「だって君は、そういう風に聞かなかっただろ」
あーあ、と背筋を伸ばし、男――姫良三善は大きく欠伸した。きれいだと思った彼の姿は今、どこにもない。元のだらけた姿に戻ってしまった。
「そもそも君はおれに何の用があるんだ。誰がおれのことを君に教えたのかは知らないが――」
「司教です」
ぴたりと三善の動きが止まった。橘は続けて言う。
「ホセ・カークランド司教に斡旋してもらって、御陵市からここまでやってきました。紹介状もあります」
ホセが? と度肝を抜かれたような表情を三善は一瞬見せた。だが、すぐに元の精悍な表情に戻る。赤い瞳が曇り、しきりに何かを考えているようだ。
突如、強い風が二人を叩きつけた。耳鳴りがするほどの勢いに一瞬気圧される。茂る木々は擦れ、落ち葉は風と共に宙に舞う。苦しくて息ができない。
その風は次第におさまり、元の静けさを取り戻してゆく。
「――俺を、助けてください……」
橘が細い声で、ようやくその一言を吐き出した。静かなる慟哭だった。その声色に、戸惑いと焦り、それらがすべて集約され揺れ動いていた。どれだけ彼が大変な思いをしてきたのか、三善は何となく理解した。
だからだろうか。だるそうにはしていたけれど、次に三善が口にした言葉は存外柔らかいものだった。
「……君の名は。何と言う?」
「土岐野橘。修道女の、土岐野雨の弟です」
どうりで、と三善はそれを聞くなりため息をついた。
「誰かに似ていると思ったら、雨ちゃんの身内か……。それにしてもホセ、ね。ったく、一体何のつもりなんだか。とりあえず電話してみねぇとなあ」
くるりと踵を返し、三善はさっさと自転車のある場所まで歩き出した。慌てて橘も追いかける。また逃げられると思ったのだ。
「待って下さい! 司教!」
やっと追い付き、橘は三善の左腕を掴んだ。これで逃げられることはないだろう。
しかし、のろのろと振り返りわずかに橘を見下ろした三善は、めんどくさそうな口調ではっきりと言い放ったのだ。
別に逃げねぇよ、と。
「君の話、聞こうか。ホセがわざわざ寄こしたってことは、何か相応の事情があるんだろ」
***
橘は三善に連れられ、とある建物へと入っていく。
エクレシア箱館支部である。
あらゆる人が話していた通り、三善はこの場所に久方ぶりに戻ったらしい。彼は中に入るなり、他の聖職者からしきりに「おかえり」「元気だったか」と声をかけてもらっていた。不思議なもので、誰も彼に対し敬語は使わない。
橘はきょとんとしながらも、さっさと先を行く彼の後ろをついていった。
「おーい、帰ったぞ」
その最奥にある彼の仕事場に入るなり、三善はぶっきらぼうに言い放った。
その部屋には灰色の髪をした修道女と黒髪の一般神父、それから眼鏡をかけた栗色の髪の女性がいる。その三人いずれも三善の顔を見るなり、ぱっと表情が明るくなった。
「久しぶり、みよさま!」
「おう」
男がべったりと三善に張り付く。うざい、と三善は呟いたが、それすらどうでもいいらしい。結構な体格差があるので、おそらく抵抗しても無駄だと思ったのだろう。
「な、本当に帰ってきただろ?」
男は心底嬉しそうに修道女に声をかけていた。確かに、と彼女も首を縦に振り、にこりと三善に笑いかけた。そして彼が手にしていた黒の鞄をさりげなく預かる。
「イヴ、茶の準備。本部からの正式な客人だ、丁重に扱うように。リーナ、彼を奥の客間に案内してほしい。しばらくおれはホセと電話してくるから、それまで話し相手を頼む。ロン、いい加減離れろ。くっついている暇があったらリーナと一緒に彼を連れて行け」
まさしく、鶴の一声状態。一斉に指示を出された三人は「はーい」と非常にゆるい返事を返したのち、指示通り動き出す。
呆けてしまったのは橘の方だ。先程まで全く神父らしい様子を見せていなかった三善が、ここに入るなり突然変貌を遂げたのである。まるで何かの総司令にでもなったかのような態度だ。周りはどことなくゆるゆるだが、本人は全く気にしていないらしい。
電話をかけるべくさっさと奥に行ってしまった三善の背中を見つめたまま、橘はぴくりとも動かなくなってしまった。否、動けないが正しい。
「ええと……彼っていうのはあなたのことかな。名前は?」
三善からリーナと呼ばれていた灰色の髪の修道女が尋ねた。
「あ……、橘です。土岐野、橘。蜜柑の『タチバナ』と書きます」
「トキノ? シスター・アメと同じ名前」
「雨は俺の姉ちゃんです」
「そうなの? 私、アメと仲いいのよ。本当によく似ているわね、君」
なるほど、姉弟ならば似ているはずだ。リーナが頷き、三善の電話が終わるまで向こうの客間にいるよう告げた。自分はイヴと共にお茶受けを出してくるから、とロンに預け、最終的に橘はロンと呼ばれていた神父と共に客間へと向かっていった。
その頃三善は、私用携帯からホセの携帯番号を探し出し、手早く通話ボタンを押した。コール音を聞きながら、先ほど橘から預かった紹介状をじっくりと眺めている。
『はい』
数回のコールの後、聞きなれた声が唐突に聞こえた。待ってましたと言わんばかりに、三善は抗議の言葉を告げる。
「おいこらホセ。一体なんのつもりだ」
『久しぶりの電話だと思ったら、なんですかその態度は……。相変わらず変なところばっかり“あのひと”に似て』
「小言は後で聞く。それより、あれは何だ。雨ちゃんの弟って言っている奴が訪ねてきたんだが」
それを聞いて、電話の向こうでホセが嬉しそうな声を上げた。
『ああ、ようやく会えたんですね! よかったよかった。間違いありません、私の紹介です。あれ? 紹介状を一緒に持たせたはずですが……』
「聞いてない!」
『言っていませんから。あらかじめ報告なんかしたら、あなた絶対拒否するでしょうに。そもそも彼には、片道分の交通費しか渡していません。罪なき子供を放置するほど、あなたは鬼じゃないですから』
ああ、どうしてだろう。このひとを相手に話をすると、なんだか負けた気がするのだ……。
自分の師が彼のことを事あるごとに「狸」と言っていたことを唐突に思い出し、これのことかとようやく理解した。確かに、化け狸かもしれない。このひとは。自分の親にして正直手に負えない。
恐ろしく長く息を吐き出し、三善は一人掛けのソファに腰掛けた。とうとう折れたようだ。そもそも、口で彼に勝てる気がしない。
「……それで? どうしろというんだ。紹介状には面倒を見て欲しいとしか書いてないけど。それにアレは――、助けてほしい、と。そう言っていた」
そのままの意味ですよ、と電話の向こうでホセが言った。くすくすと笑っているのが何となく分かる。空気の震える音が電話を介して聞こえるのだ。
『あなたに、あの子の先生になってほしいんです』
「せんせい?」
心臓が跳ねた。三善の頭には、無意識に彼の残像が蘇る。今は亡き、そして今もどこかで帰ってくることを期待している、彼の。
動揺しているのが自分でも分かった。それを無理やり誤魔化し、僅かに震える唇をゆっくりと言葉を吐いた。
「――それは、『あのひと』のように、という意味で?」
『最終的には、そうなりますね』
三善はゆっくりと振り返り、今リーナとロンによって奥へ連れられた橘に目を向けた。土岐野雨によく似た、意思の強い横顔である。かつての聖フランチェスコ学院の一件を思い出し、三善はそっと瞳を閉じた。
あのときはまだ、自分は何も知らずにいた。そして横にはあのひとがいた。
あのまま何も知らなかった時の方がずっと幸せだったと、そう思う。今更後悔しても遅いけれど。
『実は、彼――橘君の身体に、妙なものが見つかりまして』
「妙なもの? 釈義とは違うのか」
『……近いと言えば近いですね。ヒメ君、あなたの身体には今“契約の箱”が中枢機関として埋め込まれていますよね。理屈はあれと同じです』
ぴたりと三善の動きが止まった。どうやらきちんと理解できなかったらしい。充分に時間をかけ、じっくりと逡巡する。
二人の間には、しばらく沈黙が流れた。
「――ええと、つまり。つまり、……あれの身体にエクレシア科学研でも解析できない謎の釈義があって、それが何かの拍子で解放されたときに正直何が起こるか分からないから、その『何か』が起こってもある程度対処の出来そうなおれの下でそれなりの監視をしろと。そういうことか」
『素晴らしい。そういうことです』
さすが最年少司教だけあって察しがいいですね、とややうっとりした返事が返ってきた。ていのいい厄介払いのような気もするが、それを言ってしまっては橘がかわいそうなので、三善は怒鳴りたい気持ちを腹の中に無理やり押し込んだ。
『一方的に押しつけているように聞こえますけどね。その仕組みが一体何に作用するか分からない以上、本部においていても危険なだけなんです。今、本部でも派閥争いが本格化しているのはあなたも知っているでしょう? 当事者ですものね。そのくだらない争いのためにあの子が道具として使われる可能性もある。それは可能な限り避けたいんです。現にあの子は一度、その謎の力を御陵市で放出してしまい、』
ちょっと待った、と三善は立ちあがりパソコンを起動した。すぐさまインターネットに接続し、一般のサイトからそれに関連しそうな記事を検索する。
――すぐに結果は出た。
「ホセ。『二週間前の御陵市、謎の塩化現象』っていうのがあるけれど……これのこと?」
画面に映し出されているのは、まるで塩の平原のように一面真っ白になった御陵市の光景だった。建物、車などあらゆるものが岩塩のような物質に変換されており、空のコバルト・ブルーのコントラストと相まって、妙に美しい。
三善は、これに似た場所を知っていた。
「聖都みたいだ。十字軍遠征のときの、聖都……」
『ええ。教会側が報告をうけてやってきた頃には、もうそんな状態でした。人間や動物は無事でしたが、植物などはすべて塩害にやられていました。驚きましたよ。……まるで、私が第一釈義を展開したときのように、色らしい色が何もなかったんですから』
ホセ曰く、街の探索をしてようやく見つけたのが、この橘という少年だったらしい。
その時の彼は呆然自失といった状態で、がたがたと身体を震わせたまましばらく口も聞けなかったという。ただ、その時の彼が身体から放出していた神気を孕んだ閃光が一応の証拠ということで、無理やり本部に連れ帰り検査にかけたのだそうだ。そしてその結果は話の序盤に戻る。
『便宜上、こちらではあれを“パンドラの匣”と呼ぶことにしました。ちょっと力が洩れただけで街一つを変質させるのですから、おそらくあれが本格的に起動した時、“契約の箱”と同じくらい危険なものになると思います。あなたの場合は生まれながらに聖気を受け入れる身体の造りになっているので心配はありませんが、あの子はそうじゃない』
ふむ、と三善は考えた。
「だから敢えて、おれのところに送ったのか。それは本部の意向? それともホセ個人の?」
『あなたに味方する聖職者たち全員の意向です』
「また大層なことをおっしゃる。卑怯だなあんたら」
『卑怯で結構。やってくれますね』
三善は無言で、そのままじっとしていた。その無言をどうやら肯定と取ったらしい。ホセはくすくすと笑い、先程の深刻な様子から一変、茶化すように話し始めた。
『ま、そのうち私もマリアを連れてそちらに行きますから。頑張ってくださいね。それと、あなたは人並み以上の容姿なので、貞操の危機を感じたらとりあえず逃げなさい』
「うるせーよバカ! 余計なお世話だ!」
三善は力任せに電話を叩き切り、血が上った頭を冷やすべく額に手を当てる。ひんやりとした感触が心地良く、ようやく少しだけ冷静さを取り戻した。
さすがに怒鳴ったのは失敗だったろうかと思ったが、あのひとはあれくらい言わないと分からないのだ。
ふ、と息を吐き出すと、唐突に煙草が欲しくなった。ポケットからライターと煙草を引っ張り出し、一本咥えると火をつけた。紫煙と独特の香りが鼻をつく。
今まで話していた電話の向こうの彼はこれを相当嫌っている。そもそも聖職者として喫煙癖があるのはどうなんだ、と言われそうだが、こればかりは仕方ない。いつの間にか癖になってしまったし、今更やめる気もない。吸っている銘柄も何回変えただろう。ころころ変えていたのでもう忘れてしまった。
三善はすでにブラックアウトした携帯電話の画面を見つめ、ゆっくりと閉じる。ぱたんという軽い音がした。
薫る紫煙が白く視界を濁す。
「――『パンドラの匣』、ねぇ……」