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バベル 第二部 パンドラの匣編  作者: 依田一馬
4.怠惰の緑の弓
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第一章 1

 少年、土岐野(ときの)(たちばな)は、観光案内所から出ると同時に恐ろしく長いため息をついた。

 見知らぬ土地に見知らぬ人々。初めて本州を離れ北の大地に足を踏み入れた彼は、この時点ですこぶる疲弊していた。

 ここ数日、彼の身の周りであらゆる出来事が起こり過ぎて頭がパンクしそうだった。正直、混乱した状態でよく間違わずに列車に乗れたものだ。ついつい自分でも感心してしまうほどだった。

 橘は黒い髪に一度だけ触り、先程観光案内所から入手したこの街の地図を見つめた。

 それは観光客向けに作られた非常に簡略化された地図だった。あらかじめ情報誌などでも調べてきたが、完全に覚えてから来たという訳ではない。ただでさえ本州を離れたのは今回が初めてで、加えて一人旅すら初体験の橘は、まず何をすればいいのか自分でもよく分かっていなかった。

 とは言いつつも、彼は当初の目的を忘れた訳ではない。彼は元々、人探しをするためにこの街・箱館を訪れたのだった。

 綺麗に舗装された道路をゆっくりと歩き始めると、次第にこの街の特徴を知ることができた。

 海沿いの小さな街。この地はかつて大聖教の勢力が特に盛んな場所であった。今は管轄の違いから技術特化した支部だけが残っていると聞くが、当時の名残で今でもあちこちに教会があり、この一角だけでもその数を数えるのに両手を使わなければならないほどである。

 橘は、その大聖教に身を置くとある司教を探しにはるばる本州第三区・御陵(みささぎ)市からやってきたのである。

 しかし、その司教についての情報はかなり少ない。この街にある大聖教の支部に行けばいいと思ったのだが、事前に問い合わせたところ、その司教は各地を飛び回っているため支部には滅多に戻らないのだという。その司教を斡旋してくれた本部の司教でさえ、「しばらく会っていないから外見はすっかり変わってしまったかもしれない」と言っていた。

 つまり、名前しか知らない司教をこの街の中から見つけ出さなければならないのだ。そう考えただけで橘はため息が洩れてしまう。

 その司教を探すまでの旅費もただの高校生にとってはバカにならない、しかももし見つからなかった場合――。

 最悪の事態が頭をよぎり、橘は思わず頭を激しく振った。そんなことはない、絶対見つかる! 何事にも前向きなのが自分の取り柄なのではなかったのか、と強く言い聞かせ、彼はその足を再び動かしたのだった。

 観光名所としてはとても有名な赤レンガ倉庫の前をのんびりと歩き、ああ、確かここのスイーツがおいしいとか聞いたなあ、とぼんやりと考えた。まだ朝が早いので閉まっている場所も多いが、きっと時間が経つにつれ沢山の人でにぎわうのだろう。今日の終わりに、時間があれば寄ってみようかと思った。

 途中、人力車を引いているという男性に会った。橘は人を探している旨を告げると、その男性はああ、と首を縦に動かす。

「あのひとを探しているのか、君は。無謀だねえ」

「えっ、知っているんですか?」

「この辺じゃあ有名だからな。でも、なかなかつかまらないとは思うぞ。腹が減るとたまにこの辺までくるみたいだけど。俺もここ一カ月は姿を見ていない」

「腹が減ると、……へえ」

 その『たまに』の部分に期待はできそうにない。橘は彼に礼を言うと、再び歩き出した。

 まず先に行こうと思ったのは、急勾配の坂道を上ったところにある教会群である。街中を字のごとく飛びまわっているのなら、こういう場所にいる可能性が高そうだ。それならば、今日はとことん教会巡りをしよう。そう考えたのだ。

 走りぬけてゆく路面電車を横目に、ようやく辿り着いた大きく長い上り坂に足をかけた。

 どうでもいい話だが、橘が住む御陵市も坂が異常に多い街である。おかげで足腰は普段から鍛えられており、息を切らすことなくひょいひょいと上ってしまう橘である。この街について書かれた雑誌では、かなり急な坂道なのでスニーカーで来ることをしきりに勧めていた。しかしこの程度かと半ば拍子抜けしている橘は、「これくらいなら地元のお姉さま方は普通にヒールの高い靴で上るぞ」と少々ずれたことを考えている。

 それにしても、と思いながら橘はふと立ち止まる。もうすぐこの上り坂も上り切る。坂の下の方をぼんやり見下ろすと、先程歩いていた街並みがあんなに小さく見える。まるでジオラマのようだ。遠くの方で輝いている青い海は空の色によく似ていて、とてもきれいだと思った。少し冷たい風も今はとても心地が良い。

 とても、いい街だ。

 橘は願わくは、この街をゆっくりと歩く時間ができればいいなと思っていたのだ。

 坂をようやく上り、まっすぐに延びる石畳の道を歩く。道の端の方で、絵を描いている男性がいた。件の司教について尋ねてみると、意外にも「その人なら向こうで見たよ」と親切に教えてくれた。せっかくなので、彼の描いた絵が入っているポストカードを一枚購入し、礼を言うと再び歩き始めた。

 彼が言うには、今向かおうとしていた教会のさらに奥にある教会にいるらしい。なんと幸運なのだろう、こんなに早く見つかるとは。世の中必要なのは八割決断力だと自負している橘だったが、残り二割はやはり運なのだとひとり納得している。

 弾む心を無理やり落ち着かせながら、橘はきついはずの上り坂もひょいひょいと上りその目的地へと足を踏み入れた。

 この教会は確か、「観光客は中に入れないが外観ならば見学可能」という場所だったはずだ。入口で出待ちでもするべきだろうか。

 ゆっくりと石畳の階段を上り、橘はようやくそこに辿り着いた。

 白い外壁に、どこから見ても十字のマークが見える独特の建築方式。それをふと見上げ、どきどきと脈打つ拍動を感じた。少々小ぶりではあるが、その不思議な外観にすっかり見とれてしまったのである。

 正面から見てみようと思ったら、教会の横に折りたたみ式の赤い自転車が停めてあるのを発見した。

 ――この坂を、自転車で?

 観光客にしては根性がある。そう思うことにする。

 そのままぽてぽてと歩いて行くと、右手に木で造られた白のブランコが、そして左手には白いペンキで塗られたベンチがある。芝生の上に置かれたそれの周りにはプランターに収められた色とりどりの花が置かれており、風が吹くたびに可愛らしく揺れていた。

 そのベンチの上に、誰かが仰向けに横になっている。

 短い灰色の癖毛の男だった。白い聖職衣を身にまとい、肩には緋色の肩帯がかけられている。首から下げた銀十字は太陽の光を反射し綺麗な光を放っていたが、無惨と表現するしかないくらい傷だらけだった。

 その風貌から察するに、ここに勤務する神父のようだが。

 彼の腹の上に伏せられた状態で置かれているのは、聖典ではなくどう考えても週刊少年漫画誌である。耳には一つずつピアスが開けられ、加えて左耳には銀色の小さな十字が揺れるイヤー・カフが挟められている。そして口には、今も紫煙が立ち上る火のついた煙草。

 橘は少しだけ、ためらった。

「これ、本当に神父さんなんだろうか……」

 そもそも漫画を抱いて眠る神父なんか、今までに一度も見たことがない。本部で見たどの神父も聖典や仕事に関する資料などは持ち歩いていたようだが、こんなものは誰ひとり持っていなかった。それにこの場所を斡旋してくれた司教でさえ、その人物は大聖教の中では非常に有名で立派で、「聖人と言うならこのひと!」とお墨付きを頂いているような人物だったはずだ。こんな不良っぽい外見の男なんかじゃない。

 その時だった。

「っあっち!」

 煙草の灰がぱらりと落ち、その熱さで眠っていた神父(仮)は目を覚ました。慌てて灰を落とすとポケットの中から携帯灰皿を取り出し、手早く消火して再びポケットにしまいこむ。そして一度大きな欠伸をすると、背筋を伸ばした。

「よく寝た……んぁ?」

 ふと、その神父(仮)と目が合った。橘はどきりとして身を固くし、これからどうすればいいのか必死になって考えた。しかし、予想に反してこの神父はいささか機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せただけで、それ以外に橘に対し何も興味を持たなかったようだ。

「……観光客? ここは外しか見学できねぇよ。下の教会の方が見る場所がある。そっちに行きな」

 彼はそのように言うと、ぐしゃぐしゃになった癖毛を左手でわしわしとかきむしる。その左手には夏場だというのに、白い手袋がはめられ、革のベルトで固定していた。

「ひ、人を探しているんです!」

 橘はどもりながら言った。「姫良(ひめら)三善(みよし)という司教は、こちらにいらっしゃいますか?」

 男はきょとんとした表情で橘の黒い瞳を見た。しばらく口を閉ざしていたが、再びベンチにその身を預け、目を閉じた。

「さあ。いるんじゃないかな」

「じゃあ、どちらにいらっしゃるか分かりますか? もしかしてもう別の場所に移動されたとか」

「さあ。……あっ! しまった、寝過ごした!」

 男はその時、ふと思い出したようにがばりと起き上がり、橘に抱えていた少年漫画誌を適当に押しつけた。

「これ、やる!」

「え、ああっ、ちょっと……!」

 そしてそのまま男は緋色の肩帯を翻しながら赤い自転車に跨り、一気に坂を下って行ったのだった。

 まるで嵐のような人だった。

「……行っちゃった」

 それにしても、と橘は思う。

 あの人、神父には見えないけれど、唯一気になる箇所があった。

 一瞬自分に向けられた、真っ赤なルビーのような深紅の瞳。あそこまで完璧な赤は見たことがなかった。

 そしてそれと同時に思い出す。確かその、自分が探している『姫良三善』という名前の司教は、炎のような真っ赤な瞳をしている、と。彼を知る誰もが口をそろえて言うのだった。

「――まさか、」

 あの人が?

 橘はしばらくそのまま立ちすくんでいたが、はっと我に帰り、その自転車に跨った神父を追いかけることにした。きっと彼が、なにか知っているはずなのだ。そう感じたのだ。

 そうと決まればさっさと移動しなければなるまい。橘は石段を急いで降り、その神父を無謀にもその足一つで追いかけ始めたのだった……。

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