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八月七日 (10)

 突然歓声が沸いた。

 そのばかでかい声に三善は驚き、思わず身体をびくつかせる。

 一体何事だ。三善は恐る恐る振り返ってみる。

 “大罪”を浄化する一連の出来事を、どうやら支部にいた他の聖職者も見ていたらしい。

 普段リーナが一人で奮闘していただろうに。しかも今回『あれら』に止めをさしたのも彼女だ。それなのに、彼らはまるで自分のことのように祝っているのだ。

 そもそもこの支部は本来科学研の管轄だということを、三善はこのときようやく思い出す。前々から思っていたことだが、技術系の人間はなぜか他の神父とは面白いほどノリが違うのである。もっと平たく言えば、事あるごとに理由をつけては飲み会を開きたがる妙な連中。これだけ聞くと清廉潔白さは微塵も感じられないが、飲み会とは言っても基本的にはただのお茶会だったりするし、食に関しても教義を遵守していたりもする。本部ですらそうだったのだから、ここの連中もその典型なのだろう。

 三善は手を叩き彼らを元の職務に戻らせようとしたが、それをリーナが制した。

「みんなお祝いしたいだけですよ」

 そしてにっこりと微笑む。

「お祝い? なんでまた……」

「だって、こんなにしっかりした司教(ファーザー)がやってきてくれるなんて、私たちはこれっぽっちも思っていませんでしたから」

 褒められているのか貶されているのかさっぱり分からない。

「それに――」

 リーナが三善の手を取った。そして、彼の手に傷だらけの銀十字を握らせた。いつもは冷たいはずの銀十字がリーナの体温を受け、ほんのりとした温もりを残す。それが三善の掌にもしっかりと伝わり、冷えた指先にじんわりと沁みた。

「通常、ここの支部には左遷された聖職者がやってきます。本部から転勤なんて言ったら、正直目も当てられません。でも、その分ここはどの支部よりも結束力だけはあります。ひとりひとりが“家族”なんです」

 三善はゆっくりと支部に目を向けた。そして、「ああ、そうか」と理解する。

この支部全体が持つ雰囲気に角がない(・・・・)のだ。本部が特殊なのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。ある意味閉鎖空間だからこそ生み出されるものなのかもしれない。

「――家族、ね」

「ええ。あなたもその一員になるんです」

 リーナも彼らを見つめながら言った。独特のブルー・グレィの瞳が瞬く。

「遅くなりましたが、司教(ファーザー)。ようこそ、箱館支部へ。私たちは喜んであなたを受け入れます」

 そのまましばらく呆けていた三善だったが、次の瞬間ようやく口元に笑みを浮かべた。

 作りものではない、久しぶりの笑顔だった。


***


 建屋に戻ろうとしたら、案の定三善は彼らにもみくちゃにされた。身体が小柄なせいで、素晴らしい筋肉を持つ聖職者の腕力に抵抗することができなかったのである。そのまましばらくされるがままになっていたが、誰かの「宴会!」の一言で彼らはあっさりと身をひいた。勿論宴会とは言っても、普通の晩餐会である。

 先程までの戦闘で服も身体も汚れてしまったので、三善は一旦自室に戻ることにした。騒ぎに乗じてぽてぽてと宿舎に戻り、三善は自分に宛がわれた部屋に入ろうとした。他の聖職者と同じ、ベッドと簡素な机しかない小さな部屋である。

 三善は何かを察したのだろう。ドアノブに手をかけながら、ゆっくりと振り返った。

「……ブラザー・ロン。見ていてくれましたか」

 彼の背後にいたのは、まさしくロンであった。険しい表情を浮かべたまま、じっと三善の紅い瞳を睨めつけている。見つめた緑の瞳が鋭いナイフのようで、じわじわとこちらの気力を削いでいるようだった。

「まだ、信じられない」

 ロンはそのように切り出した。「どうして、“七つの大罪”のみが使う『逆解析(リバース)』の能力をあなたが扱えるんだ。あなたは“大聖教”の司教でしょう」

「僕は司教ですが、その前にただの人間だと思っています。だからこそ、あなたには先に教えておくべきだと思いました。さて、あなたはどうしますか? 異端審問官の、ブラザー・ロン」

 三善は笑った。あの能力を使ったのは事実で、別に隠しているわけではない。そして同時に、恥ずべきことではないとも思っている。

 あの力は、たしかに『あの女性』――姫良真夜とのつながりがあるという、唯一の証明だからだ。

 ロンは言葉に窮しているようだった。じっと押し黙り、三善を睨めつけている。判断しかねる、といったところだろうか。

「それ相応の事情がある、と?」

 ロンが放つ苦し紛れの唯一の質問はそれだった。

「相応かどうかは分からりませんが」

 それに対しての三善の回答もそっけない。「僕が、大司教と『白髪の聖女』の間に生まれた子供です、なんて言ってもどうせ信じないでしょう」

 別に信じて欲しい訳でもないし、と三善はさっさと自室に入ってしまった。ばたん、と乱暴に扉が閉められる。

 一人残されたロンは、その扉を見つめたまま呆然と立ちつくしていた。

 ――今もまだ、彼は迷っていた。

 明らかにあの能力の行使は『異端』である。大聖教とは相容れることのない、禁じられた能力。しかし彼は別れ際に確かに言ったのだ。

 己が大司教と『白髪の聖女』との間に生まれた子であると。

 そんなことあっていいはずがない。もしもそれが事実だとしたら、『異端』と判定する条件を大司教自らが犯してしまっていることになる。

 そして何より、心残りがあった。あれほど皆が期待し待ち続けていた司教を、こんなにも早く手放してよいものだろうか。リーナがあれほど嬉しそうにしているのも久しぶりに見たし、他の聖職者でさえあんな調子だ。損得だけ考えれば、彼を今検邪聖省(けんじゃせいしょう)に引き渡すのは明らかな損害である。

 今まで何があろうとも、その人物がどんな事情を抱えようとも、『異端』と思われた行為を行った者は問答無用で検邪聖省に送ってきたロンだ。それが彼の名をたらしめる所以でもある。そんな彼が今、二つの選択肢の間で揺れ動いていた。

「……神、よ」

 どうしてこのような試練を御与えになるのか。一体どうするべきなのだ。一体。

 おれ、は。どうしたらいい。


***


 三善がひとしきりの準備を終え部屋を出ると、壁際に膝を抱え座り込んでいたロンがいた。あれからずっと待っていたというのか。どうやら彼は予想外に根性のある男らしい。

 三善は座りこむ彼の前にゆっくりと立つ。そして、長く長く息を吐き出した。あたかも、今から死刑台に臨む受刑者のように。――否、この場合は殉教者(・・・)と言った方が正しいのだろうか。

 彼の答えは既に決まっているだろう。

 運が良ければ、自分が探し求めている『あのひと』のもとに行ける。だからそれは決して辛いことではなく、むしろこれ以上ない幸福なのかもしれない。

「……答えは?」

 三善がそっと呟いた。

「出たよ」

 すぐにロンが返した。そして彼はゆっくりと立ちあがる。

「天国の門まで連れて行ってくれるのかな?」

 三善が茶化して言うと、彼は無表情のまま黙りこんだ。そして、前触れもなく突然顔をあげた。緑の瞳が三善を射抜く。

 その並々ならぬ気迫に満ちた表情に、三善の心臓が跳ねた。

「……俺の前で、二度とその能力を行使しないでほしい。約束して」

「それが条件? 随分お安い条件を提示してきたものだ。本当に君は、あのロン・ウォーカーなのか」

「勘違いしないでほしい。俺は、あなたを泳がせておくと言っている。少しでも変なことをしたら、次は容赦なく、拘束する」

「分かった。従いましょう」

 ゆっくりと三善は頷いた。左耳に瞬く銀十字が揺れ、その瞬きがロンの思考を鈍らせる。このとき、彼は何となくだが理解したのだった。

 このひとが今までに見せた本質は氷山の一角に過ぎない。その内に持つ力は甚大。先程までに見せた聖気も、釈義も、――“大罪”の能力ですら、その中の一部分に過ぎないのだ。

 その莫大な力がもしも外部から何らかの影響を受け、思いがけない事態が生じたならば。

 この自分が責任を持って止めればいい。責任を持って地に堕としてやればいい。これがきっと、神が己に与えた最大の仕事――天職なのだ。

「行こう。みんな待っているはずです。司教(ファーザー)

 ロンの言葉に、思わず三善は困った様子で後頭部を掻いた。同時に、ばつが悪そうな表情を浮かべている。明らかに先程の張り詰めた雰囲気とは異なるので、これにはさすがのロンも戸惑いの色を隠せない。

 ふと、突然三善が口を開いた。

「あのさ。そのー、司教(ファーザー)っていうの、できればやめて欲しいんだよね……」

「え?」

 ロンは三善をつい勢いで見下ろしてしまった。この男は突然何を言い出すのだ。彼は間違いなく司教だ。初めてこの地に足を踏み入れた時から、すでに彼にはそう呼ばせる何かがあったのだ。

 しかし本人にはまだその自覚が足りないらしく、心底嫌そうな表情をしていた。これからお披露目だというときに、プロフェット用の白と黒の聖職衣に身を包んでいる時点でなにかが間違っている気もするけれど。

 しかしそれが、彼の本質なのかもしれない。

「司教って呼ばれるとさ、なんかこう、背中がこそばゆい……。それと、敬語も気持ち悪い。そう思うんだけど、その辺、どう? 君は確かおれより年上だよね。おれは十九。君は?」

「今年二十五になるけど」

「でしょ? 年上に敬語使われるのって嫌なんだよね。よし決めた。ここの支部限定で、全員敬語禁止にしよう。司教呼びも禁止。うんうん、とっても素敵だ。素敵すぎておれ、泣けてきちゃうなー」

 一人勝手に納得している三善をよそに、ロンは小さくため息をついた。

 黙っていれば結構――いやかなり――好みではあるのだが、どうしてだろう。意外性に満ち溢れたこの人物、アクが強すぎて正直ついていけないかもしれない。先が思いやられると内心思ってしまったロンであった。


***


 あれから、二年の月日が経つ。

 この街にもようやく夏がやってきた。爽やかな乾いた風が吹き抜け、白っぽい光が燦々と室内に降り注ぐ。司教が使うべき仕事部屋の大窓を開けながら、ロンは大きく背筋を伸ばした。

 風を享受し、心底気持ちがよさそうに目を細める。潮騒が遠くのほうで爽やかな音を奏でていた。

 そんな様子のロンに対し、リーナが声をかけた。

「随分機嫌がいいようで」

「なんか明日、みよさまが帰ってくる気がしてさあ」

 勿論確定事項ではない。

 あの司教がまともに支部に戻ってくるのは月に二度、溜まりに溜まった本部からの書類を片付けるときだけで、それ以外はこの街の教会を日替わりで行き来している。しかもその帰ってくるタイミングも面白いほどに不定期で、直接釈義でリンクしているはずのイヴでさえ予測不能だと言う。

「根拠がないのに……」

「根拠ならあるよ。明日は、みよさまの大事な人の誕生日だから。絶対に帰ってくるよ。まあ、実際帰ってくるのは夜だろうね。それまでは外国人墓地にでもいるのだろうから」

 リーナは横目で壁にかけてある事務用カレンダーを見つめ、その日付を改めて確認する。

 明日は、八月八日。

 この日付には重要な意味がある。何があろうとどんなに忙しかろうと、あのひとは絶対に忘れない。

 そうか、とリーナは納得し、机の上に散らばった書類を仕分けし始める。この部屋の主である司教は、物の整理が非常に苦手なのである。

「じゃあ、いつ戻ってきてもいいように準備しておかないとね」

「そう。いつ戻ってきてもいいように」


 そして翌日、この部屋の主がひとりの少年と共に支部に戻ってくるのだが、それはまた別の話となる。

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