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八月七日 (9)

 ――とは言っても、ロンにはロンなりの考えがあった。これでも一応、彼は仕事と私生活を完璧に分けているつもりである。多少の演技力と表情を隠すための作り笑顔という名の仮面。これがあれば大抵の人物はある程度信用してくれる。

「俺はロン。ロン・ウォーカー」

 その作り笑顔で素の自分を覆い、ロンは三善に話しかけた。三善はその赤い瞳をそっと持ち上げ、彼の顔を見上げている。

 これでも三善の身長は伸びたほうだ。しかし標準と比べるとやはり小柄であるので、未だに男性相手だと子供を除き八割方見上げている。

 三善はしばらくそのまま記憶を探っていたようで、おもむろにああ、と声を上げた。

「あんたがブラザー・ロンか。知ってる知ってる、随分有能な異端審問官らしいじゃないか」

「そうそう、……ええ?」

 自然な口調ではあったが、三善の口から何かとんでもない一言が飛び出た気がする。ロンは目を瞠り、思わず三善を露骨に見下ろした。

「ちょっと司教(ファーザー)。何でそれ、知っているの」

 三善はきょとんとした表情を浮かべたが、すぐにその質問の意図を理解したらしい。その所属に関する事項は基本的には公表されないのだ。おそらくそれのことを言いたいのだろう。そう判断し、三善は過不足ないよう説明した。

「イヴのデータを管理しているのはおれだから。アレがここに配属になってからは、基本的におれが本部から遠隔操作していたんだ。アレが記憶していることはこっちも全部チェックしているし……だからここの職員については所属と合わせて覚えているよ」

「職員って言っても、ここ結構な人数いるよ。少なくとも五〇くらいは」

「正確には五一人在住。おれ抜きで。それくらいなら覚えの悪いおれでも十分覚えられる範囲だ」

 この記憶力のよさは一体なんなんだ。

 さすがはエクレシア最年少司教ということだろうか。やはり外見に惑わされているだけで――おそらく惑わされているのはロンただ一人だけだろうが――、結構な化け物ではなかろうか。

 そもそもイヴのデータ管理をたったひとりでこなしているというだけでも、相当な労力が必要なはずなのだ。なにせあのA-Pは箱館支部と本部を繋ぐ唯一の中枢機関。一口にデータと言っても、その数は膨大だ。膨大すぎてイヴ本人ですらオーバーヒートすることがあるのだ。

 そんなことを考えているロンをよそに、三善は呑気に話を続ける。

「それにしても、どんなに小さな教区であっても三〇人にひとりは司教を置くのがお約束のはずなのになぁ。今まで大変だったろう」

「本当だよ。どうして本部にはあんなに司教がいるのに、こっちにはひとりも送ってくれなかったんだ。おかげでこっちは大変だったんだぞ、主にリーナが」

「うん、ごめんな。大変だったのは知っていた。知っていたけれど、おれの力ではどうすることもできなかった」

「いいよ、今更だ」

 ロンは肩をすくめながら言う。大変ではあったけれど、彼そのものが悪いという訳ではないことをロンは知っていた。怒るべき相手が違うということも重々承知の上だ。

 ある程度の理不尽に耐えることは、この世界で生き抜く上で最も重要な技能である――そんな信条がロンにはあった。もちろん、そう思えない者もいるはずだ。それは今後、彼が自らの手で挽回してゆくべきなのだ。

「なんにせよ、俺の正式な所属を知っているのなら話は早い。ひとつだけ確かめておきたいことがある。司教(ファーザー)

 ロンがはっきりと言った。「あなたとケファ・ストルメントとの関係について」

 三善の表情が強張った。今までのふんわりとした優しげな印象がごっそりと削がれ、今はただ鋭い針を全身に纏っているようにも思えた。

 『それ』に誰も触れてくれるなと、彼は全身で訴えていた。

「……それを知って、どうする?」

「件の事故の調査、あれはうちの管轄なんだ。あの事故は不可解な点が多すぎる。あなたがどこまで知っているかは分からないけれど」

「不可解、ねえ」

 確かに、と三善が首を縦に動かした。「誰も詳しい話は聞かせてくれなかったからなぁ。やっぱり……ね」

 どの部分を話せばいいのかよく分からず、三善はその赤い瞳をのろのろと遠くの方へ向けた。

「『あのひと』はおれの師匠(せんせい)だ。約三年間一緒にいて、最終的に彼の『釈義』を全て引き継いだ。彼が持つべき聖ペテロの恩恵は今、俺の中にある。ただそれだけだ」

 それ以上は話せないと言ったきり、三善は堅く口を閉ざしてしまった。

 ロンはそんな彼を静かに見つめ、本来の目的である道案内を始めたのだった。


***


 しばらく三善と歩いてみて気付いたことがいくつかある。

 彼はかなり口が悪いようだが、それはどうも本性ではないらしい。時折見せる優しいふわふわとした雰囲気こそが本来の彼ではなかろうか、と思う。

 それと、単純に匂い。その身に纏う匂いがどうも他の聖職者とは異なる。彼が孕む聖気の量は莫大で、他を凌ぐ量だとは思う。それは直接目の当たりにしているからよく分かる。だが、その深層奥深くに、なにか別の気配を感じるのだ。うすら寒い奇妙な気配だ。まるで、“七つの大罪”のような。

 結局謎が深まっただけで、ロンの思惑はことごとく外れてしまった。しかし、これで一応彼がどういう人物なのかは予想がついた。上手く付き合う方法も理解した。それだけでかなりの収穫だろう。

 ロンはくるりと踵を返し、後ろを黙々とついて歩く三善を見た。もう彼は、穏やかな表情に戻っている。

「――という訳で、これで支部循環コース終了。おつかれさまでした」

「うん、ありがとう。大体覚えたよ」

 本部より単純な構造でよかった、とぽつりと呟いていたので、話のネタになるかと思いロンは「本部は違うのか」と尋ねてみた。三善の反応はすこぶる良い。

「本部は迷路だからね。しかも階層が地上より地下の方が深い」

「ふむ。モグラさんなのか」

「もぐら、だね。おれもしばらくはモグラ生活していたし」

 不可解なコメントを残し、三善はそのままふらりと外へ出て行ってしまった。

 ぽっかーんと呆けているロンはその背中をしばらく見つめ、姿が見えなくなったところではっとした。そして追いかける。

「ちょっと! 今外に出るのは危険だよ、司教(ファーザー)!」

 そう、この街の夜は“大罪”の巣窟となる。だから彼がいくら司教でありプロフェットだといっても危険には違いないのだ。なぜかイヴはこういうデータを残していなかったらしい。彼女からしたら全くと言っていいほど関係のない事ではあるだろうが、しかし、せめて生きる術として何か主人に残してやれ。とにかく必死に引き止めようとロンは三善の後を追った。

 しかし、既に遅かった。

 一足先に外に出た三善は口をあんぐり開け、昆虫のような形状の巨大生物を見上げていた。しかも今日は運悪く二体もいる。その怪物は口から酸のような唾液をだらだらと垂らし、今にも呆ける三善に食らいつこうとしている。

 正直もうだめだ、とロンは思った。

 それに対し三善は「……困ったなぁ」と心底面倒そうに呟き、左手の手袋を外す。

「『釈義(exegesis)展開』」

 三善の身体が大罪の牙をかわし、しなやかに跳ねる。その動きはまるで狼のように俊敏で、重たい聖職衣を身に纏っている人間の動きとは到底思えない。着地すると同時に砂埃が舞い、互いの姿が見えなくなる。

 白く濁った視界。

 向こうの動きが鈍ったのを察した三善はその辺にあった鉢をむんずと掴み、石畳の道にぶち当て叩き割る。そしてその破片を一枚、できるだけ先の尖ったものを瞬時に選別すると、それを自分の左腕にあてた。す、と滑らせる。

 少し遅れて、切れた腕に赤い血液がゆったりと流れ始める。

「『聖ペテロの恩恵を給いし釈義(exegesis)に転換・再装填(re-eisegesis)開始』」

 その血液を口に含むと、どろりとした鉄の味が口いっぱいに広がる。舐めとれなかった分は、白い聖職衣に滲んで奇妙な染みをつくった。

 濁った視界がようやく晴れてきた。しかし、“大罪”の目は三善ではない別の何かを捉えていた。それにロン自身が気付いた時には、もう遅く。

「『深層(significance)発動』」

 ひゅ、と空気を切る音が耳に届いた刹那、“大罪”がロンの身体めがけて鞭を向けた。

「っ……!」

 しかし、耳を劈く奇妙な金属音がしたきり、痛みも何も感じられない。ロンは恐る恐る瞳を開けた。

 彼の前に立ちはだかるは、幾分小さな背中。緋色の肩帯が揺れる。

 三善がその手に聖十字の剣を握り、ロンをかばうようにその切っ先を“大罪”へと向けていた。今の今まで鞭だったものは切り落とされ、ぼとりと無造作に石畳の道に落下している。独特の異臭が立ち込めた。

「ロン、リーナを呼んで来い」

 三善が言った。「さすがに一人は辛い。リーナを呼んだら、そのままどこかに隠れていろ」

 瞬時に再生した鞭が勢いを増し伸びてくる。右手を地に這わせ飛び退くと、三善の祝詞が小さく囁かれた。掠れた声で、確かにその声は己の釈義を呼び醒ます。

「それと、――これだけは見ていて(・・・・)

 そのための“祝詞”だ。

「『逆解析(リバース)』!」

 白い翼。

 それが彼の背を勢いよく突き破り、包み込むようにゆっくりと広がりを見せる。塩のかけらがダイアモンド・ダストのような神秘的な輝きを生む。光を纏う翼は、確かに見せつけていた。彼の神性加護の威力を。

 しまった、とロンは思う。

 耳にしてしまった。とんでもない一言を、彼本人の口から、聞いてしまった。それさえ聞かなければ、今後普通に接することができたかもしれないのに。

 しかし、もう無理だ。

 ロンは夜空にはためくひとりの司教の影を仰ぎ、唇を噛んだ。そして、リーナを呼ぶべく一旦支部へと戻ったのだった。

 鞭状の前足が疾風となり、空気を裂いた。三善の剣がそれを弾くも、斬り落とすことができない。異様なまでの速度。目が全く追いつかない。先程『逆解析』を起動した際に放った光にやられ、暗闇に目が慣れていないのだ。

 目が弱いのは難点だな、と三善は小さく舌打ちする。赤い瞳はとても気に入っているが、プロフェットとして酷使するには相当不便だ。

「っ、と」

 飛び交う鞭をかわすべく高度を下げる。耳鳴りがする程の気圧変動。眉間をしかめたが、すぐに元の表情に戻る。そしてそのまま昆虫の鳩尾にもぐりこみ、顎元を突いた。

 ぶしぅ、という気味の悪い音と共に茶色の液体が噴き出た。それをもろにくらい、三善の心が一瞬折れそうになる。毎度毎度のことだけれど、こればかりは慣れそうにもない。

司教(ファーザー)!」

 そうしているうちにリーナも到着した。すぐに彼女は釈義を展開させ、金属変換した銃器で対応する。彼女は“大罪”の目を狙うつもりなのだ。

 ならば、と三善は一度翼をしまい込んだ。すとんと地上に着地し、すぐに己の剣を別の銃器に転換する。銀の色は変わらず、長いフレームと脇についている長い円筒。後ろの方にはストックと狙撃スコープが装備されている。

「リーナ。ライフルは使ったことあるか」

 そして突然声をかけた。「こっちのほうがいいだろ。俺は援護するから、お前がやれ」

 驚いたのはリーナの方である。彼女はあらかじめロンに話を聞いていたので、完全に三善の援護に回るつもりでここにやってきたのである。まさか自分にそこまでやらせようとしていたなどと、微塵も想像していなかった。初めは冗談じゃないかと思ったが、その赤い瞳はまさしく本気そのものである。

 たじろぎつつも、リーナは首を縦に動かした。そして、彼からそのライフルを受け取る。

「サプレッサーは?」

「使った方がいいかな。耳栓まではあいにく持っていない」

 リーナの手が脇についていた円筒に触れ、それをバレルの先端にねじこんだ。ライフルをすっと安定させ、スコープの中の十字線に走る相手を捉える。

 そうしているうちに別の大罪が頭上から飛びかかってきた。それを三善の祝詞が阻止する。

「『深層(significance)発動』!」

 黄みがかった劫火の咆哮。それは激しく勢いを上げながら竜のごとく渦巻き、それの胴体に火傷を負わせた。いぶされたような臭いと黒い煙がぶわりと立ちこめる。

 リーナが撃った。一発目は軌道を逸れ、胴に銃創を与える程度だった。素早く二発目が装填される。

 二発目。こちらは巨大な目に命中し、轟音に似た声をあげる。鼓膜が張り裂けそうだ。びりびりと振動が頬を突き、我慢できず思わずリーナは耳を塞いだ。

 その時だった。火傷を負った“大罪”が呻きながら、ギロチンのような鋭い牙をリーナに向けた。

「『逆解析(リバース)!』」

 その間に三善が割って入った。瞬時にその両腕が硬化される。ギロチンが腕を弾いた。劈く音と衝撃。独特の紅い火花が上がり、正常な視界を奪う。

「リーナ! 次!」

 その声とほぼ同時にすぐさま再装填し、撃った。白い光をまとう弾は螺旋の回転を付加され、流星の如き光線が走る。流星の向こう、その光を一身に享受した“大罪”の瞳に弾が触れた刹那、それは爆発した。

 崩れる音。二つの巨大な屍がそれぞれ横たわり、黒い煙をまとう山となる。

 しばらくライフルを構えていたリーナだったが、完全に活動停止したのを確認すると、ようやくそれをゆっくりと降ろした。刹那、銀のライフルは元の三善の銀十字へと形を変形させた。恐ろしいほどに傷だらけの銀十字だ。それをじっと見つめ、そっと指でなぞる。レリーフのほかに付いた深い傷が痛々しい。きっとこれが、今まで彼が付けてきた傷なのだろう。

「ありがとう。お疲れ」

 そんなリーナの肩を叩く手があった。三善である。

司教(ファーザー)……」

「ここからはおれの仕事だな」

 大きく伸びをし、汚れた掌をぽんぽんと軽く叩く。そして、崩れ落ちた大罪の身体のそっと触れた。臆する素振りすら見せない。ただ、その赤い瞳は感情らしい感情を一切まとわずにそれを見つめていた。

「“Fiat eu stita et pirate mundus.Fiat justitia,ruat caelum.『秘蹟(Sacramentum)展開』」

 刹那、三善の身体からぶわりと聖気が噴き出る。先程聖堂で放出したときよりも格段に増えたその独特の空気に、リーナは思わずぶるりと身体が震えた。しかし今度は先程のような毒々しいほどの威力ではない。むしろ心地良いと思えるほどの柔らかさを孕んでいる。

「――おつかれさま」

 横たえた屍にふわりと風が吹き抜ける。

 鮮やかな橙・緑の色をした花弁が、巻き上げられて藍色の空に散ってゆく。独特の香りに包まれて、三善はゆっくりと瞳を閉じた。

 今はその身体が全て花弁となった。

 その一つの終焉に、静かに祈りを捧ぐ。

「――Ite,missa est.」

 すべては、これからだった。

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