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八月七日 (0)

 その日は門出にふさわしい絶好の天気だった。

 決して大きいとは言えない赤のキャリー・バッグを引く小柄な灰色の髪の男は、しばらく黙々と歩いていたが、おもむろにその足を止めた。振り返った先には、彼がよく知る二人の人物がいる。彼と同じ黒いスーツを纏った男性、それから地味な色のワンピースを身に纏った少女だ。

 キャリー・バッグを身体の脇に立てながら、灰色の髪の男は言った。

「見送りなんかいいって言ったのに。過保護だな、あんたら」

 彼は三つボタンのスーツが着慣れないようで、始終落ち着かない様子でいる。しかし、その出で立ちは彼のすらりとした体躯をより強調しており、非常によく似合っていた。

「あなたが独り立ちする記念すべき日ですから、父親としては心配なんです」

 爽やかに微笑む褐色の肌の男は視線を下げ、彼の隣で無表情でいる少女に「ね?」と同意を求めた。彼女もまた、促されるままに首を縦に動かす。

 それを見るなり、灰色の髪の男は声を詰まらせた。

「それにしても最初の赴任先から支部長だなんて、なかなかやりますね、少し嫉妬したくなります」

「それを決めた張本人はあんただろ……。それに、司教レベルのプロフェットが常駐していないとあの地区はもうだめだ。いつまでもイヴに任せっぱなしにする訳にはいかないからな」

 さて、と灰色の髪の男は壁にかけてあるデジタル時計に目を向けた。刻一刻と搭乗時刻が迫りつつある。

「そろそろ行くか」

「いってらっしゃい。いつでも帰っておいで。マリアも待っていますよ」

「うん。何かあったらメールでも電話でも、いつでもしていいから。おれが対処できることはなるべくするつもり」

「それは心強い」

 灰色の髪の男はす、と一度背筋を伸ばし、男と少女の前で深く頭を下げた。

「それでは行ってまいります。ホセ、マリア」

 男――ホセ・カークランドも、少女――マリアも、そんな彼を見て優しく微笑んだ。

 この三年ですっかり大人になった彼が、今、長らく生活してきたこの地を離れようとしている。

 彼は本当に頑張った。『あのひと』と別れてから数か月後には独学で司教試験に合格し、その後は本来の専門から離れ機械工学の道へ足を踏み入れた。もともとその分野に対する才能があったのだろう。彼は凄まじい勢いで功績を積み重ね、気が付けば彼の師の右腕という立ち位置から大きく逸脱していた。

 ホセは思う。

 未知のものに立ち向かう姿は非常に頼もしかったが、それと同時に危うくもあった。一度心を壊し自己を捨てた(・・・・・・)彼が、何かの拍子で再び壊れてしまうのではないか、と。

 そんな不安を抱えていると知られないよう、ホセは出来る限り優しい声色で口を開いた。

「顔を上げてください、三善。もう私とあなたは同等なんですから」

 深く頭を垂れた男――姫良(ひめら)三善(みよし)はゆっくりと顔をあげた。

 年を重ね大人びた顔立ちになっても、あのルビーを連想する澄んだまなざしは変わらない。今も昔も、よどみのない美しさがそこにはある。顔を上げた時、左耳に付けられた銀十字の付いたイヤー・カフが僅かに揺れた。

「――言ったな、ホセ」

 にやりと笑った三善の表情が、口調が、『あのひと』にとてもよく似ていた。彼は努めて『あのひと』になりきろうとしているのである。

「向こうで悪さなんかしたらただじゃおきませんからね」

「おれがいつ悪さなんかしたって言うんだ。いい子だろ、おれは」

「いつもいつも人を困らせてばっかり。根は真面目なんですから、もっとしっかり、ね」

「はいはい。じゃ、行くよ」

 実にあっさりと三善は背を向け、赤いキャリー・バッグを引いた。空いた右手をひらひらと動かし、背後のホセとマリアに手を振っている。

 そんな彼の背中を見つめながら、ホセはふ、と息をついた。


「若き司教に、最大の幸運を。――Amen.」



 姫良三善、十九歳。

 彼はこの日、道南地区・箱館(はこだて)へと旅立った。



 事前に予約していたシートに腰掛けると、三善は小さく息をついた。

 住み慣れた本州第一区とも暫しのお別れである。とはいえ、年に何度かは本部に顔を出す必要があるので、それほど未練はなかった。現代テクノロジーも十分すぎるほどに進化しているのだから、その気になれば誰とでも顔を見ながら話せる。実にいい時代になったものだ。

 三善は窓越しに飛行場を見つめ、きゅっとその目を細めた。

 ――あの日から、三年。

 色々あったなぁ、でも少し楽しかったなぁ。そんな取り留めのないことを考えているうちに、機内に離陸のアナウンスが流れ始める。

 三善は大きく欠伸をすると、のろのろと瞼を閉じる。

 昼寝でもしていよう、そうしよう。別に空色に染まった外の景色など見たくないのだ。

 脳裏に過るのは、つい数時間前に己の師(・・・)にかけられた残酷な一言である。何度思い返しても、あれ以上にひどい言葉は思いつかない。否、そういえば彼は出会ったその瞬間からひどかった。あれだけ衝撃的な出会いはなかなかないだろう。

 三善は順番にその出来事を思い浮かべ、あまりのひどさについ笑ってしまった。

 機体が動き始める。滑走路へ向けて、ゆっくりと旋回。その何とも言えない感覚に身を委ねながら、三善は浅い眠りについた。

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