第二話
「えー、ジーニアスお兄様また遊んでくださらないのですかー? 私ちょっと寂しいのです」
「悪いな、ターニャ。後で遊ぶからさ。……魔術の練習でなら二人で遊んでもいいけどさ」
「え、本当でしょうか!?」
急に声を輝かせたかと思うと、その顔に満面の笑みを浮かべてそわそわしているのが、我が可愛い妹ティターニャである。妖精女王にあやかって名づけられたその名前は彼女のお気に入りらしい。こうやって名前を呼ぶとすぐに機嫌を直してくれる。
ただ最近は名前の呼び方にも色々とこだわりを持ち始めて、「もっと耳元で囁くように」「へえ、これから意地悪なことされたいんだ? と弄ぶように」などと難しい注文をするようになってきている。というかちょっと将来が心配になる注文が一部混ざっているので、俺としては対処に困っている。
「お兄様と魔術で遊ぶと、いつも新しい感動があるので嬉しいです」
顔をほころばせる妹は、もう花も恥じらう八歳である。兄の俺はついに十歳になった。魔術の訓練を始めてからもう五年も経ったのだ。
そう、五年間。
十歳になるまでの五年は、本当に激動の五年間であった。脳味噌筋肉の幼馴染には何度もこてんぱんにされて、勝手にライバル認定してきた悪ガキ君とは腐れ縁の悪友になって、そして妹は本当に綺麗に育った。
新しい感動がある、と妹は言ったがそれは当然である。何故なら俺は妹には感動するようなことしか見せてないからである。つまり妹の前で一丁前に兄貴として格好をつけまくった結果がこれだというわけだ。
いやはや、ターニャは本当に綺麗に育ったなあ、と一人俺は悦に浸った。
「そういえばお兄様、この前は光の蝶を見せて下さいましたね。私も同じようなものを作りたかったのですが……光魔法は難しゅうございます」
「そんなに難しくないさ。ただ、蝶っぽく光を動かすのは結構苦労したけどね」
「一体お兄様はどうしてそんなに魔術に優れていらっしゃるのですか? 追いつきたいのに追いつける気がしません」
「それならターニャ、別に俺から魔術を学ばなくてもさ、魔術なら父さんや母さんにも教えてもらえばいいじゃないか。何なら侍女のセルヴァンテに習うのもいい」
「嫌です、お兄様から手ずから教わりたいのです」
綺麗に育ったはいいのだが、俺は内心、ちょっとブラコンにさせすぎたかもな、と反省してもいた。
ターニャの目の前で格好をつけすぎたのがよくなかった。いわゆるシンデレラコンプレックスというべきか。とにかく彼女の同世代の男の子より飛びぬけて格好良くて頭もいい完璧兄貴がそばにいるんだったら、そりゃ周囲のガキっぽい男子になんか興味の沸くはずがないよなあ、というわけである。
おかげでターニャは俺にべったり甘えて生活するのが当たり前になっていた。
「え、でもアンドリュー父さんはアンドリュー式詠唱簡略術の提唱者として名前が知られているほどの人だし、ヨアンナ母さんなんかモチーフ魔術があんなに上手いんだから、魔術を学ぶのに不足はないと思うけど」
「でも私がお父様やお母様に教わっている間、お兄様は私と一緒にいらっしゃっては下さらないではないですか。私はお兄様とご一緒したいのです」
「そんなに俺に甘えていると、いい男の人に出会えないぞ」
「お兄様以上にいい人なんか、この世界にはいません」
真っ直ぐすぎるだろこの子。
真正面から好意をぶつけられて嬉しくないわけではないのだが、俺は何となく苦笑いをするしかなかった。俺の服を歯でしがんでよだれまみれにしやがった小さい頃のターニャの記憶をはっきり持っている俺からすると、所詮は可愛い妹、という感じでしかない。
これからどんどん女になるんだろうなあ、という表現が正しいのかどうかは分からないが、何となく子育てしてしまったお父さんのような心持ちで彼女を見てしまうのだ。
「あー。まあその辺はターニャも自分で上手くやれよ。周りとの付き合いって意外と大事なもんだ」
「はい、お兄様がそう仰るなら」
分かってるのかこいつ?
一瞬そう思ったが、「まあいいや、とりあえず早速一緒に魔術でもしようぜ」「はい!」と何だかんだ俺も妹のことを邪険に出来ずにいる。
まあ身内びいきなのかも知れないが、妹は賢い子である。きっともう少し年を重ねれば、もっと器用に立ち回ったりすることも覚えるだろう。それまではそっと見守ろうと思う。
「ジーニアス。お前も十三歳、そろそろ世間では一人前と呼ばれる年齢だ。学校への入学を二年間も待たせてしまった。うちにお金があればここまで苦労をかけることはなかったんだがな」
「いやそんなことはないよ、父さん。寧ろここまで育ててくれてありがとう。手が掛かる子供だったと思うけど、父さんのことはいつも感謝してるよ」
父アンドリューは食卓で不意にそう切り出した。お金があれば苦労をかけなかったというのは学費のことを指している。
そもそも二年前の十一歳の頃、学費を工面するために俺は学校の奨学金制度を利用しようと考えたわけだが、折り悪くその枠が一杯だったわけで、こうやって二年待つことになったのである。
「そもそも父さん、学校に通えるっていうだけで俺は幸せだよ。他の人なんか学費を稼いでから入学するっていう人もいるから、十三歳での入学なんてむしろ若い方さ。気にする必要なんかどこにもないって」
「でも父さんは、ジーニアスが二年間も学校で勉強できなかったかと思うと、一学者として、本当に申し訳ないんだ」
そう言って頭を下げたかと思うと、思い出したように顔を上げるアンドリューは、突然頭を下げられて慌てた俺に微笑みかけてくれた。
どことなくその微笑みには、ああジーニアスも慌てるんだなという類の優しさが潜んでいる。
同時に、その表情には心の底からの申し訳なさがあった。
「ジーニアスほどの才能が二年間あれば、きっと世界を変えたと思うんだ。父さんはそう確信している」
「まさか、本を読んだのが人より五年ほど早かっただけだと思うよ」
「十分さ。ジーニアスを見ていると父さんはな、今まで父さんがやってきたこと全てをジーニアスに安心して任せられるなって思うんだ」
「そんなことはないよ。俺は父さんのしている仕事のほうが才能が必要だと思う。俺がやっていることは才能がなくても出来ることだけだもの」
「才能がない人間全員の底上げが出来る、それが学問だと父さんは思う。魔術図形を上手に描く才能がない人間にもそれなりの性能の魔法を発動できるような理論を組み上げるほうが、魔術図形を綺麗に描く才能がある天才より、ずっとずっと賢いと父さんは思っている」
それがジーニアスだ、とアンドリューは続けた。
父アンドリューや母ヨアンナは、正しく俺の才能に気付いていた。俺がやっていることの凄さを正しい意味で理解していた。俺はそれだけで十分嬉しかったものであった。
「それにしっかり奨学金を勝ち取ってくれたしな。やっぱりアンドリューは賢いな。本当は父さん、こっそりお金を貯めて二人が入学できるように準備してたんだぞ?」
「本当にありがとう、父さん」
「私からもお父さんに感謝します。ありがとうございます、お父さん」
俺に続いて妹ターニャも父に向けて頭を下げ、この十年以上に渡る父の奮闘に感謝した。我が家は母も働いている共働きの家庭で、だからこそ子育てのために侍女セルヴァンテを雇う必要があったわけだが、父と母とセルヴァンテのおかげでここまで大きくなったのだと俺は思っている。
「母さんも、ここまで本当にありがとう。ずっと迷惑をかけてきた。だからこれからは、ちょっと立派になった姿を見せれたらって思うよ」
「そんなことはないわ。ジーニアスは察しがいいから手が掛からなくて、本当に賢くて、母さんね……あら、ちょっと泣けてきちゃったかも」
母ヨアンナは今までの色んなことを思い出したのか、ちょっとだけ瞳を潤ませていた。ごまかすように食事に手をつけて「うふふ、美味しいわね」なんて笑っている。
「あのねジーニアス。貴方、生まれて間もない頃に高熱を出して寝込んじゃったの。ずっと熱が下がらないままうなされていて、ああこの子はこのまま死んじゃうんじゃないかなって、私ずっと心配だったのよ。それがね、こんなに立派になっちゃって……」
「ありがとう母さん。今まで育ててくれた恩に報いるために、もっとこれから立派になるよ」
そりゃ立派だっただろう、中身はもっと年を食っているのだから。だがしかしそんなこととは関係なしに、俺は心の底から二人のことを尊敬し、感謝していた。
「でも大げさだよ。学校は確かに寮だけどさ、でも半年に一回は帰ってくるから安心してよ」
「そうですよ、お父さん、お母さん。お兄様も私も、もう十歳を超えたのですから結婚も出来るんですよ」
「いやいや、二人ともそうは言うがな、いつまでたっても子供のことは心配なんだよ。……結婚?」
いつまで経っても子は心配、親の心子知らずという調子で父も母もどことなくしんみりと思い返していたが、ふと妹から不穏な『結婚』の文字を聞いて表情を凍らせた。
実は隣にいる俺も表情をこわばらせていた。結婚って、え、嘘?
「うふふ、物の例えですよ」
笑っている妹だったが、兄の俺はというと微妙に笑えない心境だった。ターニャのことをブラコンブラコンと言っているが、案外俺もシスコンなのかもしれないな、と我ながら苦笑してしまった。