2-1
「……ごめんなさい」
ホールから聞こえるざわめきに紛らせて、莉子はそっと呟いた。
真麻に言われたとおり、莉子は翌日のこの日も合コンに参加していた。
今日こそは<宿主>を探し出そうと、気合い十分で会社の近くのワインバルにやってきたものの、結果はさんざんだった。昨日同様に男性と話すことができないだけでなく、ワインで酔ってしまったのだ。
「ごめんなさい。やっぱり私、男性と話すのはダメかも……」
莉子の反省の独り言は、ワイン色に染まった空気の中へと消えていく。
仕事や車、旅行、サッカーに熱帯魚、そして投資のことまで。この日の合コン相手の男性たちは、さまざまな話題を口から滝のように吐き出していた。しかもそのひとつひとつには、驚くほどに中身がなかった。
彼らの話のほとんどが、ただの自慢であることに莉子が気づいたのは、合コン開始から30分も経ったあとだった。
優子ちゃんをはじめとする女の子たちは、男性たちが繰り出す話の濁流を、
「すごーい!」
「カッコいい!」
「ヤバーい!」
「ホントにぃ?」
などの単語を単調に繰り返すことで、見事にかわしている。
しかし、彼女たちのような高度な合コンスキルを、莉子が使いこなせるはずもない。連発される中身のない話に圧倒され、自分まで空っぽになってしまいそうになる。
その心の隙間に流し込むようにワインを飲み進めていたら、思いっきり酔いが回ってしまったのだ。
(お酒が苦手なのに、私ったらなにをしてるんだろう……)
そんな自己嫌悪が、酔いを一回り大きくする。こめかみに響く頭痛と胃のむかつきに堪えきれなくなった莉子は、トイレの近くの通路へと逃げ出してしまっていた。
テーブルを離れて10分ほど経っているが、戻る気にもなれない。莉子はハンカチで口元を押さえ、吐き気を逃そうと静かな呼吸を繰り返した。
(<消化の種>を持ってくればよかった。あれがあれば、酔いだってすぐに覚めるのに……)
さらなる後悔が脳裏に浮かび、莉子は全身を押しつぶすようにして息を吐き出した。
こんな状態では、今日はもう<宿主>を見つけるなんて無理だ。……いや、今日だけじゃない。3ヶ月以内に見つけることだって、絶対にできない。
だったら、さっさと破魔女になる覚悟をしてしまった方がいいのかもしれない。みんなに迷惑をかけない処分のされ方を今のうちに考えておくとか、または<蘇生の種>を作ることを本気で検討してみるとか……。
そんなモヤモヤとした考えと一緒に、母や友人たちの顔を思い浮かべ、
「ごめんなさい」
と莉子は呟いた。
自分が破魔女にならないように、みんなが励ましてくれたこと。アドバイスをくれたこと。それがすべて無駄になってしまう。
酔いの気持ち悪さと一緒になって、涙がグイグイと莉子の目を刺激し、鼻の奥がツンと痛んでくる。
「ごめんなさい……」
鼻をすすりながら、この日4回目の「ごめんなさい」を莉子が口にした、そのときだった。
壁際にある男子トイレのドアがゆっくりと開き、一人の男性が出てきた。シワ一つないハンカチで几帳面そうに手を拭く男性は、鏡のように磨かれた靴を、ホールへ続く通路へと進めた。
ホールと通路の境目の近くには、壁に寄りかかった莉子がいる。その前を通り過ぎようとしたとき、男は急に足を止め、小柄な彼女の頭上へと視線を落とした。
「どうしました? 気分がすぐれないのですか?」
頭のてっぺんに響いた声に、莉子は思わず顔を上げた。そこには見慣れない男の顔がある。莉子より2、3歳ほど年上だと思われる男性は、観察するような視線をメガネ越しにこちらへと向けていた。
莉子はなんの反応もできず、ひたすら体をこわばらせていた。見ず知らずの男性に声を掛けられることはもちろん、顔をじーっと見られることなんて、まったく経験のないことだ。
返事をしようとするものの、突然のことで喉が動かない。焦りから瞬きまでも増えてしまう。すると男性は、彼女の目線に合うように、光沢のあるスーツで包んだ体を折り曲げて、メガネの奥の目を細めた。
「気分が悪いのであれば、外に出て、新鮮な空気を吸った方がいいかもしれませんよ」
その男性の物腰には、ふわふわとした心地よい優しさがあった。きりりと整った顔立ちとはアンバランスな雰囲気ではあったけれど、そこから生まれたギャップがかえって魅力的だ。
しかもその男性は、穏やかな日差しに似た笑顔も見せている。彼が照らし出す光は、莉子の傷ついた心に沁みる薬にもなりそうだった。
こんなに優しそうでキレイな男性を、莉子は見たことがなかった。
憧れのスターを目にしたような気分になり、莉子は恥ずかしさから目を伏せた。
「ありがとうございます。少し酔ってしまったみたいで……」
「それはいけませんね。こんな安っぽい店のワインで悪酔いするなど、あなたのようなかわいらしい女性がすることではありませんよ」
「は、はい……」
返事をした途端、莉子は思わず息を止めた。
かわいい。男性のその言葉が、莉子の思考を停止させたのだ。
この人は今、自分のことを「かわいい」と言ったのだろうか?
いや、他の誰かのことだろう。いやいや、ここには自分以外に誰もいないじゃないか。
「か、かわいいって……今、かわいいって言ったんですか?」
「はい。言いましたけど、それがなにか?」
「それってもしかして……私のことですか?」
異性はもちろん、身内の母にだって滅多に言われたことのない言葉なのに。唯一言ってくれていた父は、すでに死んでしまっているのに。
そんな言葉をなぜ、初対面のこの人が口にするのか。
莉子は驚きと怪しむ気持ちのままに、男性の顔を下睨みした。銀縁のメガネの奥にある瞳は、莉子を映し出しながら、困った気持ちを表すように細くなる。
「大丈夫。お世辞ではないですよ。本当にあなたはかわいいです」
どんなにうれしい言葉であっても、繰り返されるとウソっぽく感じられてしまう。
莉子がまだ疑わしく思っているのに気づいてか、男性は表情に凛々しさを溢れ出させた。
「それに僕は、思ったことをそのまま口に出すタイプの人間ですからね」
「は、はぁ……」
「ついこの前も、石頭な上司に腹が立って、『あなたは頭が固いから、頭皮が固まって頭髪が生えにくくなっているのでしょうね。薄毛の原因はそれですよ』なんて言ってしまいました」
「それ、本当に言ったんですか?」
「ええ。おかげで今日の飲み会では、その上司からイヤミを言われっぱなしでした」
まじめそうで素敵な男性の口から、こんな残酷な罵詈雑言が出るなんて。その意外性と言葉の面白さにくすぐられて、莉子は口を覆っていたハンカチを外し、大声で笑った。