5-11
*
「……わかりました。他の患者さんの迷惑にならないようにしてくださいよ」
「ありがとうございます!」
莉子と橘は同時に看護師長へと挨拶をすると、足音を立てないようにしながら、廊下を早足で進んだ。
真夜中だというのに、圭吾が入院する病院に駆け込んだ莉子と橘は、守衛さんと看護師長に頼み込んで、圭吾の病室へと向かっていた。
莉子が追いかける橘のジャケットの背中には、斜めにぱっくりとみずほの攻撃で入った切れ目がある。だけどその下の肌には、キズは残っていない。
「魔女の世話になるわけにはいかない」
と頑なだった橘をなんとか説得して、<癒しの種>を飲ませたおかげだろう。
これで大事に至らずに済む、とほっとしながら、莉子は橘の後をついて、廊下の奥にある圭吾の病室に辿り着いた。
そっとドアを開けた橘が、慣れた手つきで電気を点けると、二人で部屋へと滑り込んだ。さまざまな管につながれて、静かに眠る圭吾の横に立った橘は、ポケットから<蘇生の種>を取り出す。
「……で、どうすればいいんですか? 兄はこの状態で、この<蘇生の種>なんて飲めるはずがないと思うのですが」
「どうしましょうか……」
目を瞑って横たわる圭吾は、青白くむくんだ顔をしていたけれども、確かに橘に似ていた。その様子を見つめながら莉子が迷っていると、突然横でなにかが光り出した。
「……あ!」
橘の叫び声と同時に、光を放っていた<蘇生の種>が独りでに動き出した。空中をプカプカと泳ぐように動き、ゆっくりと圭吾に近づくと、その胸へと落ちる。そして、急に光を強くしたかと思うと、圭吾の胸へとめり込んでいく。
「……え? <種>が入って……」
「いいんですよ! きっとこれで、圭吾さんが元気になりますって!」
驚きと戸惑いで、思わず<蘇生の種>に手をのばそうとする橘を、莉子が小声で説得する。そのうちに<種>は圭吾の中へと埋まり、まばゆい光で彼を中から照らしていた。
一瞬、辺りが白く焼けるほどの光を放つと、<蘇生の種>はその存在を消した。そのときだった。
「に、兄さん!?」
橘の視界に、ゆっくりと瞼を上げる兄の姿が映り込む。天井に向かって固定させていた圭吾の瞳が、次第に左右に動くようになり、橘の前で止まる。
「……東吾?」
かすれたその声に答えるように、橘は圭吾の上に圧し掛かって抱き締めた。
「兄さん!」
「……おい、どうしたんだよ。苦しいって」
「これぐらいいいだろ? 兄さんは今まで、ずっとこのベッドの上で苦しんでたんだから!」
橘は圭吾の胸に顔を埋め、小さく肩を震わせた。そんな橘の吐息が湿っていることに気づき、圭吾は苦笑いしながら、彼の背中を叩いた。
「おいおい、泣くなよ。お前は『火垂るの墓』を観ても泣かないガキだったじゃないか」
「僕は悲しいストーリーでは泣かないけど、うれしいことでは泣くんだよ!」
相変わらずの弟の屁理屈に肩を竦めると、圭吾は目を遠くへと向けた。
「東吾、とりあえず起きろ。あの人はどうしたんだ?」
「なんのことだよ。今は兄さんが元気になったんだから、他の人のことなんか……」
「いや、お前と一緒にいた、あのお嬢さんはどこに行ったんだ?」
「……え?」
橘は顔を上げ、後ろを振り返る。そこにいるはずの莉子は、すでに姿を消していた。
*
24日は、前々から会社を休むと決めていた。有給の申請を出したときには、優子ちゃんをはじめとする同僚たちに、
「あのイケメンさんとイブデートでしょ?」
なんて勘ぐられたけど、そんなつもりは一つもない。
それに、おそらく出勤することはもうないのだ。なので、休み前の22日には、莉子が抱えていた仕事はすべて済ませ、みんなに迷惑がかからないようにもしてきたつもりだ。
もし魔女が破魔女になれば、人間の世界では「死亡」と見なされ、処理されると聞いている。ならば、もう誰にも迷惑をかけることもないだろう。
この日の朝、莉子は真麻と朝の挨拶をかわしただけで、いかにも普通に出勤するような素振りで、家を出てきた。そして箒に乗ってやってきたのは、表参道のパンケーキ屋の行列の中だ。
最後の1日は、自分のしたいことをしまくろうと、心に決めていた。本体がパンケーキなのか生クリームなのか、はっきりしないほどの生クリームぐるぐるなパンケーキを食べて、見たかった映画を見て、クレーンゲームで『ねこあつめ』のくりーむさんのマスコットをゲットして、最後の夕焼けを見て、破魔女になる。
……うん、わるくない。それでこの1日を終われれば、十分。
莉子は30分並んだ末に入ったパンケーキ屋で、いちごソースが染みたパンケーキを頬張った。
周りを見ると、クリスマスイブなだけあって、どの席も見事にカップルだらけだった。でも、独りぼっちが寂しいとは思わなかった。そして、破魔女になることも、怖いとも思わなかった。
(だって……昨日みたいな奇跡が起こせたから、魔女に生まれてよかったって思えたんだもの)
みずほが命を振り絞って作った<蘇生の種>が、圭吾を蘇らせた。そのきっかけを自分の魔術で作ることができたのが、莉子にはこの上なくうれしかった。
そして、生まれて初めて、魔女に生まれてよかったと思えたのだ。
昨日……というよりも、日付が変わって今日だったけど、圭吾の回復をよろこぶ橘を見たら、もうそれだけでよかった気がしていた。
橘に<宿主>になってもらうとか、破魔女になるとかがどうでもよくって、ただひたすら
「よかったなぁ……」
としか思えなかったのだ。
パンケーキを食べ終えた莉子は、映画を見て、クレーンゲームで1500円使ってくりーむさんをやっと捕まえて、箒に乗って、この日の夕日を見た。瞼の裏までもがオレンジ色に焼きつくほどに、夕焼けを眺めたあとで、あの洞穴へと向かった。
そう。昨日、その前で橘がみずほを待ち構えていた、あの洞穴だ。
*
洞穴に着いた頃には、辺りは真っ暗になっていた。それでも昨日、みずほがなぎ倒した木が、あちこちにあるのがわかる。
莉子は洞穴の前に箒で降り立つと、指を1回鳴らした。すると暗闇にぽっと炎が現れる。明かりと暖をとるために灯したそれは、莉子の前を先導して進んでいった。
洞穴の中は、思ったよりも冷えていた。炎に洞穴の奥の地面を温めてもらい、そこに座る。そして、背中にあったリュックを下ろし、そこから『<種>図鑑』を取り出した。そして慣れた手つきで、<蘇生の種>のページを開く。
その作り方の欄には、
「無心になって、ただ魔力を集中させる」
としか書いていない。
(これで本当にできるかなぁ……)
とりあえず試してみようと、莉子は胸元で両手を合わせて、掌に意識を集中させる。すると掌の間に魔力が溜まり、水色の炎が生まれた。<蘇生の種>の色に似たその炎を<種>にしようと、莉子は目を瞑り、必死に魔力を放出した。
だけど、魔力が息切れしたように、急に出なくなってしまう。何度も繰り返すが、結局は同じような状態が続いていた。
「……もう! できないじゃん!」
怒りにまかせて、莉子は図鑑を放り投げた。そしてふてくされて寝転がり、スマホの時計を見る。すでに時間は、23時を回っていた。
あと1時間で、破魔女になってしまう。なのに<蘇生の種>はできない。莉子は思わず、涙を流した。
それは悔し涙だと、莉子は思っていた。でも違うんだ――そう思えば、また涙が溢れてきた。
この1日、充実した時間を過ごしたと思っていた。だけど違った。そこには大切な穴がぽっかり空いていて、そこに当てはまる人に、会えずにいるのが辛いのだ。
橘が<宿主>になってもらうことが、彼にとってマイナスであることはわかっている。だから、<宿主>になんてなってくれなくてもいいから、最後に会いたかった。
圭吾が回復したとき、彼への思いを断ち切るつもりで、莉子はあのまま病室を出たのだ。
あれが間違いだったとは思わないけど……でも、会いたい。
その気持ちが、洞穴の中を埋め尽くそうとしていた。
「……あなたには作れないんですよ、<蘇生の種>は」
いやみったらしい橘の声が、頭に響いた。
そうそう、橘ならこういうことを言うのだ。あの冷たい目線をこちらへ向けて。
こんなに橘のことを思っているから、彼の声が聞こえているに違いない――そう思っていた莉子の前に、男性ものの靴が見えた。
「みずほさんは、兄を救おうと必死になっていた。その思いが、あの<種>を作らせたんです」
その声は、はっきりと両耳から聞こえた。洞穴に軽く響きながら。
莉子はガバッと跳ね起き、顔を上げる。そこには、図鑑を拾って莉子に手渡そうとする橘がいた。
「ど、どうして……」
「僕は警察ですよ。あなたのスマホの電波を辿ってくるぐらい、たやすいことです。……まぁでも、仕事があったので、やってくるのがこの時間になってしまったことは許してください」
橘はそう言って、ジャケットのポケットから、三つ折りになった紙を5枚取り出し、莉子に手渡した。
「なんですか、これ……」
涙でこごった目で見ると、それは橘の5年分の健康診断の結果報告書だった。
「これが、どうかしたんですか?」
「ちゃんと確認しましたか? 僕は5年間、どこも異常がなく健康なんです。ジムにも最低週3回は通ってますし、毎朝のジョギングも欠かしてません。暴飲暴食はせず、毎日規則正しい生活をおこなっています」
そう言いながら、橘はメガネを外し、ジャケットを脱いで莉子へと渡す。
「これ、よかったら敷いてください。冷えるし、背中が痛くなりますよ」
「は、はぁ……。あの、どういうことですか?」
「僕は、あなたの<宿主>になるってことですよ」