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ぐちゃっと響く音と感触。それが現実ではないことを信じたいのに、現実でしかなかった。そして彼を傷つけることにも、抵抗も痛みも感じない。
ああ、やっぱり私は破魔女になってしまったのだ――そんな諦めの気持ちがみずほを覆っていた。なのに、小さな苦しみがぽとりぽとりと、みずほの心に垂れ落ちる。
いやだ、やめて。その人を傷つけないで。
彼を恐ろしいほどの力で殴りつけているのは自分の魔力なのに、別の自分がそれを止めようとしている。
だけど、そのみずほは、もう一人のみずほを制止することなどできない。そしてこの恐ろしい方の自分へと、残りの自分は吸収され、いずれは一つになっていくのだ。
そして、いよいよ小さくなっていた方のみずほが消え去り、彼女の視界は真の闇に包まれた。
*
ぎゃああああああああ、と不気味な声が、山に向かって響く。それは風をも巻き起こし、辺りの木々がしなるように揺れ始めた。
「もう兄は意識を取り戻すことはないんです。奇跡が起きない限り、それは無理なんだ! だから、あなたがいつまで待っても、兄はあなたの前に現れることはないんだ!」
みずほの叫び声に負けないように、体を折り曲げて橘は声を出し続けた。しかし橘が口にする現実を打ち消そうと、みずほは悲しみの嘆きを吐き続けた。
橘の後ろにいた莉子は、呆然として2人の様子を見守っていた。しかし、居ても立ってもいられず、思わず一歩前へと踏み出した。
「……みずほさん、もういいよ! みずほさんは、圭吾さんを助けたかったんでしょう? 傷つけたくなかったんでしょう? でも、もういいんだよ! 圭吾さんだって、みずほさんを恨んでなんかいないって!」
莉子は叫び終えると、あることをふと思いついた。昔、父を亡くして悲しんでいた莉子に、母がよく見せてくれた魔法を――。
(そうだ……。あれなら、みずほさんに圭吾さんを見せてあげられるかも!)
みずほの声で巻き起こる風に耐えながら、莉子は胸の前で両手を向かい合わせて、鏡のような円形を作った。
「橘さん、これに触れてもらえませんか? お兄さんの――圭吾さんの、今の姿を思い浮かべて、触ってみてください!」
「え、ええ。いいですけど……」
なにが起こるのか想像もつかない橘は、戸惑い気味にその円に触れた。頭の中には、この前病院で見た圭吾の姿を必死で思い浮かべて。すると円形の中に、橘が思い描いた姿の圭吾が映り出した。ベッドで深い眠りについているその姿を、莉子はみずほへと掲げた。
「みずほさん、見て! これが今の圭吾さんの姿だよ!」
みずほはこれを見たかったはずなのだ。自分の傷つけた圭吾が今、どうしているのか――それを知りたくて、ここまで生き延びていたのだろう。
するとみずほの鳴き声は止み、急に静かになった。そしてその中に、微かな声が響く。
「圭吾さん……」
莉子と橘は、思わず顔を見合わせた。今のは絶対にみずほの声だ。空耳なんかじゃない。本当に今、みずほが発した声なのだ。
2人の目の前で、みずほを覆っている黒い魔力が急に色を変え始めた。黒が次第にグレーへとグラデーションのような変化を見せ、白に近づこうとしている。
「ど……どうしたんだ? みずほさんは……」
「もしかしたら……ヤバいかも……」
莉子の脳裏に嫌な予感が過ぎったとき、頭上から真麻の声が聞こえてきた。
「みずほが魔力を放出しそうだよ! この量じゃあ私たちも吸収できない! さっさと逃げるよ!」
「わ、わかった!」
莉子は後ろに転がっていた箒を取り、素早く跨がった。
「橘さん、早く乗って!」
「でも、魔女の魔力の世話になるわけには……」
「そんなのどうでもいいってば! とにかく早く乗って!」
莉子の剣幕に押されて、橘は莉子の後ろに跨がり、箒の柄を両手で握った。
「しっかり掴まってて! 行きますよ!」
莉子が蹴り上げたとたん、箒は焦ったように上空へと急上昇していく。風圧に押されながらみずほを見ていると、その体はすでに真っ白になっていた。橘は息を呑みながら、その姿に目を見張っていた。
「あれって……なにが起こってるんです?」
「魔力の爆発です! みずほさんの魔力が、全部解き放たれるんだと思います」
「それが起こると、どうなるんです?」
「……わかりません。とにかく、こっちに被害がないように避けないと……」
莉子も体験したことのない現象を目の当たりにして、まばたきもせずに見守っていた。
白い体のあちらこちらに穴が開き、そこから光の筋が放たれる。莉子たちまで照らすその眩しさに目を細めていると、ドン、と大きな爆発音が響いた。
「魔力が放出されたよ!」
真麻の声が聞こえ、莉子は必死で下を見ようとするが、すべてが白く染まる世界には、なにも見えてこない。それに不思議なことに、魔力が爆発したというのに、辺りにはなんの変化もないのだ。魔力によって魔女たちが吹き飛ばされもせず、ケガもせず、ただ白い光だけが地上に残っている。
「……あれ?」
莉子は不思議に思って、ゆっくりとみずほに近づいていく。後ろにいる橘は、
「安全を確認してから、下りてください!」
といかにも警察官らしいことを言っているのだが、莉子は聞こうとはしなかった。
「莉子! 危ないって!」
「やめなよ、莉子ちゃん!」
亜由美や友香も叫んでいるが、莉子はそのままみずほのいた場所へと近づいた。
白い光はだんだんと薄れ、みずほのいた場所からは、すべてが消え去っていた――たった一粒の、まばゆい光だけを残して。
「……やっぱりそうだ!」
莉子が興奮気味に叫び、一気に地上へと向かっていく。
「な、なにがあったんです? それよりも、大丈夫なんですか、これは!」
焦っている橘と一緒に、莉子は地上に戻ってきた。箒から橘を下ろすと、自分も急いで下り、電球のように光る玉の元へと走る。そしてしゃがみ込んで、それをそっと手に取った。
「これだ! 図鑑でしか見たことなかったけど、これが本物なんだ……!」
「それ……なんですか?」
橘はずれたメガネを上げ、必死に目を凝らして玉を見た。美しい翡翠色を纏ったそれは、濁りのない光を放ち続けている。
「これは<蘇生の種>です! 瀕死の状態の人でも生き返らせることができる、伝説の<種>なんです!」
「それを……みずほさんが作ったんですか?」
「はい! <蘇生の種>は魔女が魔力をすべて解き放って、命がけで作るものなんです。……そっかぁ。これを作ったから、魔力が飛び散らなかったのかぁ。でも、みずほさんはどうしてこれを作ったんだろう?」
莉子は自分で疑問を口にしたものの、橘の顔を見て、一瞬で答えがひらめいてしまった。
「た、橘さん! 急いで圭吾さんのところに行きましょう!」
「ど、どうしてです?」
「これで……この<蘇生の種>で、圭吾さんを治すんです! それがみずほさんの望みだったんですよ!」




