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莉子は橘の体を揺さぶり、必死で声を掛けた。
「橘さん、大丈夫ですか!? 今、<癒しの種>を出しますから!」
「……いや、要りません。魔女の力の世話になるわけにはいきませんから」
莉子をかばうために、彼女の体に巻きつけていた腕を解く。莉子が無事であることがわかると、橘は笑って、彼女の頬に触れた。
「……っ!」
それは、久々の感覚だった。橘が触れるだけで、ピリピリと全身に刺激が走る、この感じ。体の奥から橘を求めて、熱い息が漏れる。
彼が欲しくてたまらない――そんな情熱のままに、莉子はとろんと潤んだ瞳で、橘を見上げていた。
頬にある橘の指に引っ張られるように、体温が上がっていく。彼を引き寄せてしまいたくなる気持ちを抑えてはいるものの、いつそれが途切れてしまうかはわからない。
そんな莉子の豹変に、橘は苦しげに肩を震わせて笑っていた。
「……ほら、また僕を誘惑しようとしてますね?」
「ち、違います!」
これは誘惑ではなく、おそらく“そういうもの”なのだ。魔女と<宿主>が、どうすることもできない絆で結ばれている証拠といってもいい。それを無視するのは、辛く、苦しい。だけど否定をしなければ、橘にはただの誘惑として伝わるだろう。
だから、莉子は必死に橘から目を逸らさずにいた。自分の本当の思いを伝えるように。
すると橘は、うれしそうに頬を上げた。
「……ちゃんと僕の目を見て、反論できるようになりましたね」
「そ、そうですか?」
「出会った頃は、いつも俯いてばかりで、僕を見ようとはしなかったじゃないですか」
確かにそうだったのかもしれない。魔女としても、女性としても自信の持てなかった莉子は、ひたすら自分の殻に閉じこもることだけを考えていた。
だけど、今はどうだろう? 自分のことなんかどうでもよくって、橘の無事だけを考えているではないか。
「さぁ、どうしましょうかね。とうとうこっちに来ましたけど」
背後へと振り返る橘の言葉につられて、莉子は顔を上げた。そこには、悲しげな叫び声を上げるみずほがいた。ゆっくりとではあるが、大きな音を立てながら確実にこちらへ近づいている。
「大丈夫です。きっと……わかってくれるはずだから……」
橘に起こしてもらって立ち上がった莉子が呟くと、
「奇遇ですね」
と橘が笑って言った。
「僕も、田中みずほを処分しようとか、処分できるとは思ってないんです。『彼女にわかってほしい』と思ってる」
「……はい。私もそう思います。みずほさんは知りたいんですよね、圭吾さんのことが……」
橘はそれに大きく頷くと、一歩前に出た。
「た、橘さん! 危ない! 早くみずほから離れて!」
上空から真麻が叫ぶ。魔女たちは魔力吸収の管をつなぐことができず、ただ戸惑いながら空をさまよっていた。
「大丈夫です!」
橘は返事を叫ぶと、今度はみずほへと声を投げ掛けた。
「みずほさん! 僕は圭吾ではありません。圭吾の弟の東吾です! 以前、何回かお会いしたことがあるのですが、覚えていますか?」
「ちょ、ちょっと! 破魔女なんて、話の通じる相手じゃないって!」
空から亜由美がつっこみを入れるが、かまわずに橘は話し続けた。
「みずほさんは、兄の圭吾に会いたいんですよね? でも残念ながら、会わせることはできません。なぜなら、圭吾はあなたによって、瀕死の重傷を負わされたからです!」
目の前で蠢いていたみずほが、ぴくりと全身を揺らし、突然その場で止まった。黒い魔力はぐるぐると渦巻いて見えているものの、なぜか静まり返っている。その中にいるみずほの姿は、依然として窺い知ることはできなかった。
「僕はずっと、あなたを恨んできました。あなたが兄を殺そうとしたと考えていたからです。……でも、そうではなかったのですね。あなたは自分から望んで、破魔女になろうとした。それは、兄の命を奪いたくなかったから……そうですよね?」
みずほはまだ、動こうとしない。その隙を狙って、真麻が魔女たちに号令を掛け、魔力吸収の管を下そうとしていた。
「ダメ! ママ、お願いだから待ってて!」
莉子の声に、GOサインを出そうとしていた真麻の手が止まる。そして魔女たちに、処分を一旦中止するように声を掛けた。
「あの日、僕はこの洞穴で、あなたに傷つけられて瀕死の状態になった兄を見つけました。だから僕はてっきり、あなたが兄を誘い出して、殺そうとしたのだと思っていた。でも、違うんじゃないんですか? きっとあなたはあの日、この洞穴で一人、破魔女になろうとしたんでしょう? そこに、兄が来たんじゃないんですか!?」
「え……?」
上空で真麻が、思わず声を漏らした。まさか、とは思っていたが、そんなことを橘が考えていたとは。そしてそれは、どうやら真実に近い気がするのだ。
「兄はとても心のあたたかい人です。僕なんかと違って、自分よりも他人を優先してしまうような人間だ。そんな兄が、あなたが破魔女になろうとするのを、放っておくはずがないんだ!」
みずほの魔力の塊の中に、橘の姿が映り込んでいる。そしてそれは、あの日の圭吾と重なり合うものだった。
*
もう、日付が変わった頃だろうか?
暗い洞穴の中では、時間の移ろいもわからない。それに、目もはっきりとは見えなくなっている。
全身から力が抜けているのに、なにか別のものに動かされているのを感じる。きっとこれは、体から出た魔力が自分を包んでしまっているからだろう。
みずほは横たわりながら、すべての気力が抜けていくのを感じていた。頭にある記憶も、心の中の大切な思い出も、なにもかもがぼんやりとしたものに変わっていた。
だけど……気のせいだろうか? 遠くから圭吾の声が聞こえてくるのだ。
意識も理性も、すべてを魔力に奪われているはずなのに、なぜあの人の声は聞こえるのだろう?
もう会わないと、あれほど言ったはずなのに。自分のことは忘れてほしいと、何度もお願いしたのに。
……そんなことはどうでもいい。もう今は、このまますべてを消し去ってしまおう。そうすれば楽になれる。そうすれば、圭吾のことも考えずに済む。
「……みずほ!」
微かな足音とともに、洞穴に人影が見えた。
「みずほ! ……どうして……どうしてだよ!」
(圭吾さん、来ないで……)
みずほはその思いを言葉にしたいのに、声にならない。一生懸命話そうとすれば、気味の悪いうめき声になってしまう。
ぎゃあああああ、と響くみずほの声の中で、圭吾はゆっくりとこちらへと向かっていた。
「みずほ……」
来ないで、来ないで。みずほは何度も、そう叫んでいた。
しかし彼は、とうとうみずほの前にやってくる。
(お願い、来ないで……。このままだと、圭吾さんが危ない……!)
破魔女となったみずほの体から、魔力の触手がのびる。そしてそれを、圭吾へと何度も振り下ろした。




