5-2
「……って、こんな話、していいの? もう8時半過ぎてるけど?」
莉子から奪ったスマホの時計表示を見て真麻が言うと、莉子は
「きゃーっ!」
と叫んだ。
「ヤバい! 遅刻する! いってきまーす!」
スマホを母から奪い返すと、莉子はバタバタと家を出て行った。
「まったくあの子は、朝から騒がしいねぇ……。誰に似たんだか」
真麻は鏡でメイクやスーツの着こなしをチェックし終えると、洗面所の棚から小さな瓶を取り出した。瓶の表面には、<伝達の種>と書かれたラベルが貼られている。
「我ながら効くったらないね、この<伝達の種>は。1粒飲んだだけで、ずーっと莉子の考えが丸聞こえだったし」
真麻は自分の作った<種>の効果に満足はしているものの、莉子の思考を読んだせいで、とんでもない頭痛のタネができてしまった。
真麻としては、娘が破魔女になることを阻止したくて莉子の思考を読んだつもりだった。だけど、そこに複雑な状況をはらんでいたとは思いも寄らなかったのだ。
「やっかいなことになってるねぇ。あの子の<宿主>がみずほの<宿主>の弟で、しかも警察の人間だなんて……」
しかも莉子の思考からは、その<宿主>と一緒に佐藤のおばば様のところへ行ったうえに、おばば様がみずほに手出しをするのを止めるように、彼に頼んだことが読み取れた。
みずほの処分と、莉子が<宿主>を得ることは別問題のはずだ。だが、どうもそうはいかないらしい――真麻の大魔女としての予感が、ビンビンとそれを伝えてくる。
おそらくみずほの処分には、莉子も、<宿主>のタチバナってヤツも、かかわらなくてはいけない気がする。そしてあの子が破魔女にならないようにするには、みずほの処分が不可欠になりそうだ。
「……さぁ、どうするかね」
真麻はリビングに行き、用意しておいた通勤用バッグを手に取った。そして部屋を出る前に、チェストの上にある、亡き夫の写真に声を掛けた。
「時生さん、大丈夫だからね。私たちの娘は、私がちゃんと守るから」
*
橘には、この世で嫌いなものがいくつかある。その中でもかなり嫌いなものの一つが、「時間のムダ」だ。
仕事においても効率を重視しているし、プライベートでもダラッと過ごして、時間を無為に過ごすことは絶対にしない。だが、この状況はどうだろう? 警視総監の娘とはいえ、こうもダラダラと話をされるのは、時間のムダとしか言いようがない。
仕事終わりに警視総監に呼び出され、なにかと思ったら、娘と食事に行ってくれとは、どういう意味なのだろうか?
フレンチレストランの無闇にキラキラした雰囲気の中で、橘は苛立ちを募らせながらフィレ肉を口に運ぶ。とりあえず旨いことは旨いが、これといった特色のある味ではない。
それは目の前にいる女性も同じことだ。警視総監の娘ということを差し引いても――というよりも、差し引いたらなにも残らないような没個性な女性は、やたらに目をキラキラさせながら橘を見ていた。
「橘さん、お疲れなんですか?」
小首を傾げて尋ねる女に、橘は
「いえ、特にこれといっては」
と素っ気なく答えた。
「そうですか。なんだか顔色が優れないような気がしたものですから……」
それはきっと、あなたといるからですよ。
そんな毒舌を引っ込め、橘はひたすら肉を口に入れた。そして、ふと思ってしまった。もし、これが莉子が相手だったらどうだっただろうか? きっと橘も正直に
「あなたといるのは、時間のムダです」
などと言ってしまっていただろうが、莉子は莉子で
「……どうしてそんなこと言うんですか?」
と、野ネズミのような目を向けてくるに違いない。
(……まぁ、あれはあれで、かわいいものだが)
「魅力的な女性になれ」と莉子に言ったのは橘だったが、実のところ、彼女は十分に魅力があるように思えていた。魔女として誘惑してくるのはどうかと思うが、控えめながらも努力家に見えるところや、いざとなったときの行動力などは、なかなかおもしろいものがあった。
だけど、それを認めたくはない。それでは自分が魔女の誘惑に引っかかったような気がするのだ。
それに、こんなときに彼女のことを思い出すのも、なんだかイライラする。まるでこれでは、彼女のことを好きになっているみたいではないか。
……ならば仕方がない。とりあえず今は、莉子のことを忘却するためにも、目の前の女と料理に集中しようと、橘は再び肉を口に入れた。
女も肉を小さく切り、それを一生懸命に噛みながら、橘に微笑み続けている。
「私、安心したんです。橘さんが破魔女の退治から手を引かれたって聞いて」
「どうしてです?」
「だって破魔女の退治なんて、危ないじゃないですか! そんなことは、橘さんのような優秀な警察官僚がやることではないでしょう? そういうのは、機動隊とか、もっと下の警察官たちにやらせればいいんです」
「そうでしょうか?」
警視総監の娘とはいえ、ずいぶんとくだらないことを考えるものだ。橘はナプキンで口を拭うと、グラスのワインをグイッと飲み干した。
「もし僕が優秀だとすれば、市民に危害を与えるやっかいな破魔女を率先して退治するべきなのは、僕なのではないでしょうか? それに、どんなに階級が低くても、警察官は僕たちの大切な味方です。その者たちを、下っ端扱いするのは許せない」
「えっ……ま、まぁ、そうかもしれませんけど……。でも、私は嫌なんです!」
女は父である警視総監ゆずりの負けん気を発揮し、へこたれることなく橘へと持論を展開した。
「だって、父からは……橘さんはいずれ、私と結婚する方だと聞いてますし、そんな方に、危ない仕事はしていただきたくないんです!」
「……僕とあなたが結婚!? そんな約束を、あなたのお父様である警視総監とした覚えはありませんが?」
「えっ! そうなんですか?」
どうりで怪しいと思った。橘は呆れて、ワイン色に染まったため息をついた。
橘が田中みずほの退治を中止してほしい旨を上層部に伝えて、トクジンから警視総監のもとで働く警視庁刑事部へと異動することになったかと思えば、こんなことだったのか。
今考えると、警視総監にこの前、
「君は交際している女性はいるのかね?」
と何度も訊かれたのは、娘との縁談を持ち込むためだったとは。
面倒だ。実に面倒。
面倒くさいことも、橘が嫌いなものの一つだ。時間のムダと面倒くささ。その2つを塊にして持っている目の前の女には、軽い憎しみさえ感じ始めていた。




