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だからこそ上司に頼み込み、使える限りのコネを使いまくって、魔女を管理するトクジンに移動したのだ。兄を、そして兄の未来を、地獄の底に貶めた魔女を断罪するために。
橘はその誓いを確認するように、奥歯をギリ、と噛み締める。その音と一緒に、点滴の落ちる音が微かに響いた。
縞柄の寝間着を隠すように毛布をかけ直すと、橘はそっと兄の頬に触れた。
「時間があったら、また来るよ。そのときには、田中みずほを退治できたって報告ができたらいいんだけど」
兄の見舞いを終えて、病院を出る。大きな庇のあるエントランスで立ち止まり、電源を切っておいたスマホを起動させると、いくつかのメッセージが表示されていく。そのほとんどが仕事関連のものだったが、一つだけ異色なものが混じっていた。
「みずほさんのことで、お伝えしたいことがあります。お会いすることはできませんか?」
それは、莉子からのメッセージだった。
伝えたいことがあるならば、メールや電話で済ませることもできるだろうに。なぜわざわざ会おうと言い出しているのか。それとも……また誘惑をしてくるつもりなのだろうか?
あの女はチビで無能そうな魔女のくせに、誘惑の能力だけは優れている。そして時には、あんな巨大な壁を作るような魔法を使ってくる。
つくづく不思議な魔女だ、と橘は思った。仕事柄、これまで橘は何人かの魔女に出会ったことがあるが、大体は魔力を巧みに使いこなし、警察に対しても堂々とした態度をとってくる、生意気な女ばかりだった。
だが、莉子は違っていた。小動物のように常にオドオドし、視線さえもまともに合わせようとしない。だけど急に色っぽくなって誘惑し出すのだから、こっちだって面食らってしまう。
(そういえば、田中みずほもそうだった)
北風に煽られて、足下に寄ってくる枯れ葉の塊を見ながら、橘は思い出していた。
兄が初めて田中みずほを家に連れてきたとき、彼女が魔女だとは気づかなかった。おとなしく、兄の隣でひたすら微笑んでいるだけの存在――そんな彼女がふとした瞬間、兄を情熱的な視線で見つめることがあった。
あのときの田中みずほの艶やかな表情は、莉子に通じるものがあった。
そしてそんな田中みずほの視線に同調するように、兄までもこれ以上ないほどの欲望を満たせた目で、彼女を見ていた。
あのときの2人には、誰も入り込めないような雰囲気があった。だからこそあの時点では、橘も2人の交際を認めていたのだ。
しかし結果はこれだ。あの女は破魔女となり、兄は彼女の犠牲者となった。あんなにおとなしそうに見えた田中みずほでさえ、破魔女になってしまえば獰猛な魔物と何ら変わらない。それが魔女だ。魔女という、人間に害を加える存在がなせる技だ。
橘はスマホの画面にもう一度目を落とし、莉子のメッセージを眺めた。彼女だって、あと1ヶ月と少しの間に<宿主>を見つけないと破魔女になる。それは、今の彼女と同じようにパッとしない破魔女になるかもしれないし、田中みずほ以上のとんでもない破魔女になる可能性だってある。
まずは田中みずほのことを聞き出し、彼女が破魔女になったときのことも考えなくては――。
橘は3日後の夕方に会えることを返信欄に素早く入力すると、莉子へと送信した。
*
これまで何度も会っているのに、どうしてこんなに緊張してしまうんだろう。
莉子は橘の顔を正面から見ることができず、ずっと注文したカフェオレの水面だけを見続けていた。
待ち合わせしたカフェで橘と向かい合って座っているだけだというのに、莉子はピアノの発表会のときの子どものように、ガチガチに緊張していた。それは莉子が緊張しやすいタイプなのもあるが、橘の雰囲気がそうさせている部分もあった。
(改めてちゃんと見ると……カッコいいなぁ)
顔よし、スタイルよし、雰囲気よし。ビジュアルに関していえば、橘は非の打ちどころがない。そんな人とこうして2人で会うのはもちろん、<宿主>になってほしいと頼むことも、なんだかおこがましい気分になっていた。
そしてさらに、莉子を緊張させる原因がもう一つ。その原因のもとになっている声が、少しだけ離れた席から微かに聞こえてくる。
「うわ、カッコいいじゃん! あれが莉子の<宿主>かぁ」
「ひかり、どう? みずほさんの<宿主>には似てる?」
「似てる! やっぱり圭吾さんの弟さんだね! でも、弟さんの方が身長も高いし、圭吾さん以上にステキだよー」
亜由美、友香、ひかりが座っている、斜め後ろの席を莉子がちらっと見た。すると3人はわざとらしく肩を竦め、メニューカードで顔を隠した。
実は今日、ここで橘に会っているのには訳があった。亜由美が考え出した「莉子の<宿主>捕獲作戦」の実行のために橘を呼び出したところ、この3人までもがついてきていたのだ。
まずは亜由美が考えた作戦の実行のためにも、なんとか平然を装わなくては。そう思えば思うほど緊張が募り、<眠りの種>をこっそり隠し持った手にも力が入る。口さえもガチガチに堅くなって、なにも話せなくなっている莉子を怪しむように、とうとう橘が先に口を開いた。
「……で、田中みずほに関して、僕に伝えたいことというのは、なんですか?」
「え、えっと……」
……マズい。莉子は言葉に詰まりながら、3人の方を見た。橘をおびき出すためにメッセージにみずほの名前を出したものの、特に話を準備してはいなかった。彼にこっそり<眠りの種>を飲ませるまで、なんとかうまくやり過ごしたいのに、莉子にはそんなアドリブがまったくできない。
ここで<眠りの種>を飲ませて、橘が眠ったら、莉子たちで運び出す予定だったのに。その後はホテルに橘を運び入れ、目覚めるまで莉子と2人でベッドにいたことにするというのが、亜由美の作戦だったのだ。
「橘さんって責任感強そうな人だし、莉子が橘さんといかにも一晩過ごしたようなシチュエーションを作れば、『責任をとってお付き合いします』とか言い出しそうじゃない?」
そんな亜由美の言葉に、友香とひかりは
「それならうまくいきそう! 絶対に成功するって!」
とノリノリだったが、莉子には成功の「せ」の字さえ見えていない。
だって、ついこの前、
「やさしいあなたにぴったりな、<宿主>が見つかると思いますよ」
なんて他人事のように言われた相手に、そんな作戦が通じるとは思えなかったからだ。