3-10
やっと男たちが遠ざかると、橘は屈めていた体をのばして莉子から一歩離れた。
「すみません。お聞き苦しいものを聞かせてしまって」
申し訳なさそうな口調のわりには、橘の全身には静かな怒りのオーラが満ちている。莉子はそんな彼に怯える視線を向けた。
「今のって、橘さんと同じ部署の人たちですか」
「ええ、まぁ」
「じゃあ、どうしてあんな悪口を……」
(確かに橘さんは、頑固で理屈っぽくて面倒くさい人だよ! でも……)
莉子はまるで自分の悪口を言われたかのように、ムカムカとした腹立ちを覚えていた。どんなに魔女の敵であるとはいえ、真面目に任務を果たそうとしている橘を、悪く言われるのは嫌な気分だ。
たとえ些細なことだとしても、悪口がどれだけ人を傷つけるか。小さい頃から「落ちこぼれ」「出来損ない」呼ばわりをされてきた莉子には、その痛みがじんじんと響いてくるのだ。
「あんなこと、大声で言うことないのに……」
「気にすることはないですよ。僕はああいう悪口には慣れてますから」
自分以上に落ち込んだ莉子を見て、橘はあえて軽い口調で答える。そのときの微笑みの表情がかえって、橘の奥にある悲しみを強調しているようで、莉子は辛くなった。
警察は、人々の安全を守るのが仕事だ。その安全を脅かす存在である破魔女を、危険も省みずに退治しようと思っている橘に、なんの間違いもない。
でも、本来ならば破魔女は警察ではなく、魔女が処分するのが正しいのは確かだし、莉子だって再来月には破魔女になっている可能性がある。すると橘が莉子を殺処分しようとする可能性もあるわけで……。
そんなごちゃごちゃした関係が、莉子の頭の機能を停止させてしまった。いくら考えても、その入り組んだ関係がスカッと解けるようなことはないような気がしていた。
そんな難しいことはわからないし、それを解きほぐすのは莉子の役目ではない。だから今はただ、橘を励ましたい――それか莉子の素直な気持ちだった。
「あ、あの!」
莉子は背筋をのばし、声を上げた。こちらを見た橘を正面から見据えて。
「さっきの人たちがどんなことを思ってるかなんてよくわからないし、警察のこともよくわからないですけど、橘さんは間違っていないと思います。私は魔女だし、魔女を敵として見てほしくはないんだけど、それでも橘さんは間違ってないっていうか……」
莉子は橘を励ますつもりが、だんだんと意味不明の言葉の羅列をし始めている。
(あれ? 私、なにを言いたかったんだっけ?)
「……だから……えーっと……」
最初の威勢はどこかへ行ってしまい、萎れた花のように俯く莉子の頭の上から、橘の声が聞こえた。
「……ケガしてますよ」
「え? ど、どこですか?」
「ほら、ここ」
橘が指差したのは、莉子の右手の甲だった。どこかでケガをしたのかはわからないが、大きなすり傷ができている。
こんなものは、<癒しの種>を飲めばすぐに治る――そう言おうとしたとき、橘が莉子の右手をとった。彼の指が傷口の周りに触れると、ドクン、と大きく鼓動が跳ねた。
(……あ。まただ……)
指から伝わった痺れが全身に回ると、急に熱くなり、頭がグラグラとしてくる。そしてまた、橘を求める気持ちだけが、心の中で煮え立ち始めるのだ。
「申し訳ありません。あの騒動のせいでケガをさせてしまったようです」
傷を見ていた橘が、莉子の顔へと視線を移す。莉子はすでに目を潤ませて、熱い吐息を吐き続けていた。頬と唇が橘を誘うように色づいて、なんども彼の心の奥へと呼びかける。「あなたが欲しい」と。
橘は莉子から漂ってくる不思議な匂いに導かれるように、彼女を両腕で抱えようとした。だが、微かに残った理性が邪魔をする。
これは魔女の誘惑だ。決して誘いにのってはならない。
お前も兄のような目に遭いたいのか?
はっきりとした意志が、橘を奮い立たせる刺激になる。音が立つほどに奥歯を噛みしめ、橘は莉子ににっこりと微笑みかけた。
「また、僕を誘惑しているのですか?」
「ち、違います!」
(違うんだけど……もう限界かも……)
体が彼を求めて震え、しっとりと汗をかいている。このまま放っておかれたら、自分から橘に襲いかかってしまいそうだ。莉子が必死に足を踏ん張り、欲望の淵で踏みとどまっていると、橘はすっと手を離した。その一瞬で、莉子の体は欲望の熱から解放されたものの、残り火として顔が赤く染まり続けている。
そのあどけない表情を見て、橘はため息をついた。こんな子どもっぽい女性に、なぜあんな強力な誘惑の力が秘められているのか。
それに、今日の壁だってそうだ。見かけによらず、魔女というのはとんでもない魔力を秘めているのかもしれない――そう思って、もう一度莉子を視線ではっきりと捉えた。
「あなたのことを調べて気づいたのですが、あなたは再来月の12月25日に、25歳になるんですね」
「はい。魔女なのに誕生日がクリスマスだなんて、なんか変だなーって思うんですけど……」
「つまり、その誕生日までに<宿主>を見つけないと、破魔女になってしまうのでしょう? そしてあなたはまだ、<宿主>を見つけてないんですね」
「は、はい……」
「だったら、<宿主>が早く見つかるといいですね」
「……はい。でも……」
莉子はそれ以上の返事ができなかった。目の前に<宿主>がいるというのに、なにもできない自分が、ひどく情けない。そして、彼が<宿主>になってくれそうな気配がないことも、莉子をしょぼくれさせていた。
「大丈夫。やさしいあなたにぴったりな、<宿主>が見つかると思いますよ」
ビルの壁に寄りかかった橘は、やさしく微笑んでいた。莉子と初めて会ったときのように。その笑顔が、今の莉子には痛みとして感じられた。




