3-8
みずほは橘の警告など聞くはずもなく、体を転がすように走り続けていた。
そんな彼女を待ちかまえて配備されている、機動隊の盾の隙間からいくつかの銃弾が飛び出す。それは魔力の壁にめり込みはするものの、貫通することなく、むなしく地面へと転がり落ちていた。
自分が狙われているわけでもないのに、莉子は銃声の一つ一つにビクビクと体を揺らし、箒にしがみついていた。箒を握る手は、ぼんやりと形を見せ始めている。おそらく<透明の種>の効き目が切れ始めているのだろう。だからといって、今のこの状況では<種>を飲み直す暇もない。
「……見つけた!」
喜びに満ちたみずほの声が、莉子の頭に響く。みずほは魔力を細長い触手に変えてのばしたその先には、橘がいた。
機動隊を押し退け、奥にいる橘の体に触手がたどり着く。巻きつこうとする触手から、彼は寸でのところで逃げ、手に持った拳銃で何発か発砲した。
触手は銃弾が当たるたびに怯んだ様子を見せるものの、諦めることなく、橘の体に触れようとする。
「……どうして……? どうして……逃げるの……」
みずほの声が、莉子の頭の中でこだました。その悲しげな響きを聞く限りでは、みずほは橘に攻撃をしたいわけではなさそうだ。しかしどんなに悪意がなくても、魔女が無意識で使う魔力は、人間を傷つけてしまう。
(このままだと、橘さんが危ない……)
<透明の種>の効果が切れ、すっかり姿を現した莉子は、箒のスピードを限界まで上げて、橘へと近づいた。
「橘さん!」
莉子が声を掛けると、魔力の触手と格闘している橘がこちらを見た。そのときに莉子は
「シールド!」
と唱えた。
<シールド>は防御の壁を作る呪文なのだが、あまり魔力が強くない莉子には貧弱な壁しか作れない。母の真麻には、
「お前のシールドは、もなかの皮よりも薄い!」
と言われたこともあるほどだ。
それでも橘を守りたい一心で、莉子は唱えたのだ。呪文に応じるように、どこからともなくグレーの固まりが現れて、橘の周りを囲い始めた。次第に色を濃くしていくシールドは、みずほの触手をはね除け、その外側へと追いやった。
「どうして……どうして……ケイゴさん……」
橘に届かない触手を何度も壁にぶつけ、みずほは涙まじりの声を上げた。
(……ケイゴ?)
それはおそらく人の名前――しかも男性の名前だ。橘を狙いながらその名を叫ぶということは、橘の名前なのだろうか? そうだったとしても、どうしてみずほは橘を狙っているのだろう?
「ケイゴさん……!」
振り絞るような声を発すると、莉子の前からみずほの体が一瞬で消えてしまった。ぷかぷかと箒で浮いていた莉子は、周りの視線がみずほのいた辺りに集まっているうちに素早く移動し、ビルの陰に隠れて箒から下りた。
(人間に箒に乗っているところを見られちゃ、マズいもんね)
みずほを追い払ったことで、ひとまず安心した莉子は、箒を持って大通りへと出た。道路にはたくさんの救急車が停められていて、けが人を運ぼうとする救助活動がおこなわれている最中だった。
その中から、橘がこちらへと向かって走ってる。莉子の前で止まると、なにかを言おうと、切れる息を必死に整えている。
「あの……橘さんは大丈夫ですか?」
莉子が最初に話し出すと、橘はネクタイの結び目を緩め、ふぅ、と息をついた。
「ええ。あなたのおかげで助かりました。ありがとうございます。でも、あまり人前で魔力は使わない方がいい。あなたが魔女であることがバレてしまいますよ」
「は、はい。すみません」
せっかく助けてあげたのに、お説教されるなんて納得いかない。それでも頭を下げて謝る莉子に、橘は
「それよりもこちらへ」
と手招きをした。
彼の後をついていくと、近くのビルの狭間にある路地へと入り、ダクトやエアコンの室外機の排気でむせかえる中で立ち止まった。どうしてこんな汚いところにやってきたんだろう? 莉子は不安になりながら辺りを見回した。
「ここ、どこなんですか? どうしてここに?」
「ここなら、人目がありませんから」
「へ?」
「あなたが僕の協力者だとバレては困るでしょう? ここならば誰にもバレない。警察の関係者にも、魔女にも」
そう言って、橘は上を見上げた。そこはビルとビルの間に渡り廊下があるところで、上空からは地上の様子が見えないようになっていた。ここならば、パトロール中の魔女にバレることもないだろう。
橘がそんな気づかいをしてくれるなんて、莉子はなんだかうれしかった。そのうえ、仕事の最中の真剣さを残す橘の横顔が莉子の心をキュンとさせる。だけどそんな乙女心は、橘の質問によって砕かれてしまった。
「それにしても、どうしてあなたがここにいるんです? 今日はパトロールの担当だったんですか?」
「いえ、違うんですけど……」
適当な言い訳が思いつかず、しどろもどろになりかけたとき、莉子は大事なことを思い出した。みずほが口にしていた、「ケイゴ」という名前の正体を突き止めなくてはならなかったのだ。
「橘さんって、もしかして『ケイゴ』ってお名前なんですか?」
名前を聞いているだけなのだから、頑固な橘でも、さらっと「はい」とか「いいえ」とだけ答えてくれると莉子は思っていた。だが、橘は露骨に不信感を露わにして、莉子を見た。
「……どうしてその名前が、僕の名前だと?」
「い、いや、その……。ただなんとなく、そうかなーって思っただけで……」
まさか
「みずほさんの心の声として聞いたんです!」
と言う気にもなれず、ヘタクソなウソでごまかす。すると橘は大きな吐息とともに、その答えを呟いた。
「『ケイゴ』は、僕の兄の名前です」
「……え? 橘さんのお兄さんが、『ケイゴ』さん?」
「ええ、橘圭吾は僕の兄です。どうしてあなたが、兄の名前を知っているんです?」
どうしよう、と莉子は言葉に詰まったものの、ここでウソをつくのはよくないような気がして、正直に話すことにした。
<思考の種>でみずほの意識を読み取ったこと。彼女は橘の姿を見て、「見つけた」と叫んでいたこと。そして、「ケイゴさん」と何度も言っていたこと……。
きっと信じてはもらえないだろうと思っていたものの、意外にも橘はすんなりと莉子の言葉を飲み込んだ。
「つまり、田中みずほは僕を見て、兄の名を叫んだわけですね」
「はい。私が見る限りでは、そうでした」
莉子の返事を聞くと、橘は動きを止めて黙りこくっていた。そしてしばらくしてから、手に持っていたタブレットを操作し始めた。その画面には、地図が現れている。




