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(それって……本当なの?)
部屋に入った莉子は、閉めたドアに背をつけて立ち尽くす。大きくなる鼓動を感じながら、あのときの感触を思い出すように唇に触れた。
母の言う通り、<宿主>とのキスだけで魔力が上がるというならば、あのときの橘とのキスで、魔力に変化が起こっていてもおかしくない。
でもこの1週間、莉子は自分の魔力が変化したことを実感してはいなかった。週末には母にいくつかの<種>を作らされたが、これまで同様、<眠りの種>以外は作れなかったのだから。
試しに莉子はコートを脱ぎ、パチンと指を鳴らす。すると、壁のフックにあったハンガーがこちらにやってきた。ハンガーは莉子の手にあったコートを自らの体に引っかけて、元の場所へと戻っていく。
そのスピードやハンガーの従う様子などには、まったく変化がない。いつも通り、莉子の性格に似たおっとりとした様子で、ハンガーは動いていた。
(やっぱり、ちゃんと<宿主>になっていないと、キスぐらいじゃ意味がないのかも。でも……)
ベッドの上にうつ伏せで寝転がった莉子は、もう一度唇に触れた。
あのときの唇の感触。艶めかしい唇や舌の動き。顔にかかる熱い吐息。そのどれもが心地よかった。体がどろどろに蕩けて、すべてを放り出してしまいそうになるほどに。
キスというものは、誰にされてもあんなに気持ちのいいものなのだろうか? それとも、初めてのキスだったから、自分で勝手に盛り上がっているだけかもしれない。
でも、気のせいかもしれないけれど、あのときの橘だって、なんだか気持ちよさそうだった。
冷静で頑固そうなあの人が、うっとりとした目を向けながら、莉子の唇をずっと弄っていたのだ。ゆっくりと深く、そして激しく。
橘のあのときの表情だって、はっきりと覚えている。莉子を求める欲望を丸出しにして、こちらを見る「男」の顔だった。男の人があんな顔をするのを見たのは、初めてだ。
……恥ずかしい。
実際にキスをしたあの時点では、驚きの方が激しかったのに、今になってこんなに恥ずかしさがこみ上げてくるなんて。しかもあのときの橘の様子が、はっきりと頭の中に蘇ってくるなんて。
莉子は耐えきれず、足をバタバタさせながら、枕に顔を押しつけた。
わかっている。あのキスが心を溶かすほどに気持ちよかった理由は、ただ一つだ。橘が――<宿主>がキスをしたからに決まっている。
あのとき、橘から漂っていた匂い。あれは莉子にどうしようもない事実を突きつけていた。<宿主>を前にすると、魔女の理性なんて簡単に砕け散ってしまうのだということを。
橘に触れられると、とにかく彼が欲しくて仕方がなくなってしまう。それを彼は「誘惑」なんて呼んでいたけれど、そんなものじゃない。あれは魔女の本能が、<宿主>を食らいつくそうとしている「渇望」だ。
そのときふと、莉子は橘の兄のことを思い出した。みずほに傷つけられた、悲しい姿の彼を。
みずほは破魔女になるまで、<宿主>に拒否され続けながら、このどうしようもない渇きに耐えたのだろうか? それが爆発したことで、あの写真のような惨劇を生んでしまったのだろうか?
そして自分も、いずれ橘をあんな目に遭わせてしまうのだろうか?
そう思うと、急に怖くなる。これまでだって破魔女になることに恐怖は感じていたものの、それは自分の死に対する怖さに近かった。だけど今は、他人の命までも奪ってしまう化け物となってしまうことが怖かった。しかも、自分の<宿主>を傷つけてしまうなんて……。
そんな結論の出ない莉子の考えを断ち切るように、廊下からバタバタと足音が聞こえてきた。
「莉子! これからパトロールに出かけてくるからね!」
焦りのある母の声に、莉子はベッドから起き上がり、部屋から顔を覗かせた。真麻はいくつかの<種>をケースに入れ、箒を持ってリビングに向かって走っている。
「ママ、どうしたの急に……」
「デカい破魔女が、ここの近くに出たって連絡があったんだよ! だから行ってくる!」
「それって……みずほさんのこと?」
「そう!」
母の姿がリビングに消え、サッシの開く音がした。
(は、早く! 早く橘さんに連絡しないと!)
莉子はバッグの中からスマホを取り出し、登録しておいた橘の連絡先にメッセージを送った。
「さっき、みずほさんが湾岸の近くに現れたとの情報がありました」
すると1分も経たないうちに、
「わかりました。情報、ありがとうございます」
と返事があった。びっくりするぐらい素っ気ないけど、無駄を嫌いそうな橘らしいメッセージでもある。
キスをしてしまったことで、橘の態度が変わっていないことにほっとしつつも、莉子は残念さを感じていた。
(キスまでしたんだから、少しぐらいは意識してくれてもいいのになぁ)
そうは思ったものの、自分が橘を魅了できるほど、魅力的ではないことはわかっている。
そんなことよりも、早くなんとかしないと。これで莉子は「裏切り者」になってしまったのだから、自分でもある程度責任をとらなきゃいけない――橘に情報提供の約束をしたあの日から、莉子はそう考え続けていた。
母がすでに出て行ったことを確認すると、莉子はラボに向かい、棚から3種類の<種>を取り出した。<癒しの種>と<伝達の種>と<透明の種>、それぞれ3粒ずつ、プラスチックのピルケースに入れ、ジャケットのポケットに突っ込む。そして自分の箒を用意して、リビングへと向かった。
母に内緒で魔女として活動するのは禁じられているけど、仕方がない。莉子は勇気を振り絞るように深呼吸をして、母が開けっ放しにしていった窓からベランダへと出る。そして箒に跨がり、空へと飛び立った。




