2-8
それよりも今はまず、この人から離れないと。きっとこのままだと体の熱に負けて、この人に変なことをしてしまいそう――そんな予感が、莉子を覆い尽くしている。
莉子は橘に握られた手を振り払おうと、腕を大きく振った。
「お願いです。手を離してください。私、逃げませんから」
「無理ですね。そんな言葉を信じられるほど、僕はお人好しではありませんよ」
「でも……このままじゃ……」
莉子は橘へと、熱のこもった視線を向ける。莉子としては、手を離してもらうための懇願を投げかけたつもりだったが、橘の目には、別の欲求を伝えるものとして映っている。魅力的な女性が目の前にいて、ひたすら自分を求め、こちらの本能を容赦なく突いているとしか思えなかった。
莉子の切なげな表情を見て、橘は体の中で口にも出せないような欲望が、むくむくと起き上がるのを感じていた。それに抵抗し、そのうえ彼女を敵として見なすなど、自分で自分を裏切っているような気分にもなる。
……苦しい。
橘は莉子を抱き寄せたくなっている自分の腕を、切り落としてしまいたいとさえ思っていた。
(落ち着け。わかっているんだろう? こういうときには、どうすればいいか……)
橘は莉子の手を握ったままで目を瞑ると、兄のあの姿を頭の中に蘇らせた。
残酷で血みどろの、あの状況の記憶を必死に引き摺り出し、ゆっくりと瞼を上げていく。
目を開いたときには、莉子の姿は「邪悪な魔女」としか見えなくなっていた。橘は内心ほっとしながら、皮肉を含んだ笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。あなたがいくら誘惑しても、僕には効きません。あなたはそうやって、何人もの男を誘惑してきたのでしょう?」
「ち、違う……」
(……なんなの、これ。この人……ぜんぜん<宿主>って感じじゃない)
やっと見つけた<宿主>が、こんなことを言うなんて。仲間たちが語る、優しい<宿主>たちとは大違いだ。真麻の<宿主>である莉子の父だって、優しくって素敵な人だったのに。
でも、本当はこの人だって、素敵な人なのだ。昨日初めて会ったときには、こんな優しくってカッコいい人が<宿主>だったら……と、莉子だって願ったのだから。
あのときの彼の爽やかな表情や、心からの笑顔、そして最後の最後まで紳士的に接してくれたことは、はっきりと覚えている。あのとき、キュンとしてしまったことだって忘れられないし、そんなを気持ちを覚える人には、これまで出会ったことはなかったのに。
(なのに……どうして……)
莉子は涙で滲む目で、橘を見た。今の彼は莉子を敵としか見ていない。汚らわしいものに触れているかのように、軽蔑の視線をずっと向け続けている。
どうしてこの人は、こんなにも自分を、そして魔女を、悪者にしようとするのだろう?――そんな疑問よりも、莉子の心にはもっとはっきりとした気持ちが芽生えていた。
嫌い。こんな人、嫌い。
なのに魔女としての莉子の体は、この男を求めていた。
(やだ! こんな人なんて、欲しくない!)
心と体が安定しない両天秤に載っているせいで、頭がグラグラとし始める。
そんな彼女の意識を目覚めさせるかのように、激しい爆発音が近くで聞こえた。
「な、なんだ!?」
驚きのあまり、橘は莉子の手を離して周りを見回す。焦げた臭いに導かれてクッションの横を見ると、そこにある重力制御装置が爆破されていた。強い火で焼かれたように黒く溶けた機材の中では、小さな火花がいくつも見えている。
「誰がこんなことを……」
クッションから下りて、装置へと近づこうとした橘だったが、その途中で、背中に大きな魔力の玉がぶつかった。
「うわぁっ!」
前のめりで倒れた彼を見て、莉子はクッションの上を這い、彼の姿が見える場所まで進んだ。橘は気を失っているようで、道路にうつ伏せで倒れ、びくとも動かない。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
莉子が声を掛けても、橘は反応しない。その代わり、上空から別の声が聞こえてきた。
「莉子ーっ!」
見上げると、箒に乗った亜由美と友香がプカプカと浮かび、莉子へと手招きしている。
「重力制御装置を破壊したから、今は箒に乗れるはずだよ!」
「早く箒でこっちまで来て! さっさと逃げるよ!」
「う、うん!」
莉子は倒れ込む橘をちらりと見て、
「ごめんなさい」
と小さく呟いた。そして箒を拾ってまたがると、一気に亜由美と友香のもとへと上昇していった。