2-6
「う、うん。思い出したことは思い出したんだけど……」
友香はなぜか顔を曇らせ、莉子を見た。
「莉子ちゃん、ちょっとヤバいかも……」
「なにが? なにがヤバいの?」
「だって、あんな人が<宿主>だなんて……」
「え? それってどういう……」
言葉を遮るように、莉子の体がいきなりグラッと大きく揺れた。
「わ、わ!」
莉子は箒にしがみつくものの、揺れは治まらない。めまいにも似たこの揺れは、どうやら魔力で浮かせている箒が起こしているようだ。箒は波に飲まれた小舟のように揺れながら、夜空をさまよい始めている。
そしてその揺れを感じているのは、莉子だけではない。亜由美も友香も、平衡感覚を失った箒に翻弄されて、グラグラと体を揺らしている。
「な、なにこれ!? 怖いんですけど!」
友香が捲れ上がりそうなスカートの裾を押さえながら叫ぶと、
「あいつらだよ! 警察のやつらに決まってるって!」
と亜由美も負けじと声を荒らげた。
「たぶん警察が変なことをしてるんだよ! みんな、しっかり箒を持って! このまま上昇して撤退するよ!」
「了解!」
「はーい!」
亜由美の声に従って、莉子と友香は箒を上昇させようとかかとで2回蹴った。その指示に素直に応じた友香の箒は、すでに亜由美が到着している高さへと一気に進んでいく。
しかし莉子の箒は、なぜか言うことを聞かない。いや、箒は動こうとしているのだ。なのに、上に向かおうとする力が見えないもので阻害されて、まったく動けなくなっている。
「やだ……どうして?」
焦って莉子が何度も箒を蹴った。しかし箒は上昇する力を発揮できず、その場に止まることしかできない。それどころか、箒が浮力さえもだんだんと失い、ただの木の棒になりかけていた。
(ど、どうしよう……このままだと……)
はるか下に広がる街を見て、莉子は思わず息を飲む。このまま箒が動かなければ、この夜の街並みへと墜落してしまう。そんな嫌な予感に飲み込まれたのか、箒は巨大な圧力に押されるように、急に柄を下へと向けて落下していった。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
箒を抱きかかえる莉子の体が、夜の空の上で何度もくるくると回転する。
「莉子!」
「莉子ちゃん!」
亜由美と友香の声が聞こえていたが、次第に遠ざかり、2人の姿も小さく霞んでしまう。それとは反対に、地面がぐんぐんと勢いをつけて近づいていた。
「やだーっ! 死んじゃうよーっ!」
夜空を垂直に進んでいた箒が、ビルの隙間の暗がりへと飲み込まれそうになったとき、莉子はぎゅっと目を瞑った。
(私、破魔女にもなれずに死ぬんだ……)
そう思った瞬間、ドスン、と大きな音が鳴り、全身が柔らかいものに埋まった。おそらく地面に落ちたのだろうが、普通の地面のようで地面でない。出来立てのふわふわパンに抱かれるような感触の中で、莉子はそっと目を開けた。
莉子が箒とともに落ちたそこは、巨大なクッションの上だった。スタントマンが使うようなぶ厚いものが、彼女の体を受け止めている。
「助かった……のかな?」
莉子は声を出すことはできたものの、恐怖で竦んだ体を起こすことはできない。横に落ちていた箒をつかんで横たわったままでいると、遠くから足音が聞こえてきた。
ゆっくりなストロークのものと、小刻みなもの。2つの足音は、莉子が倒れているクッションの前で止まった。
「おお、捕まえたか! なかなかの効果じゃないか、この重力ナントカ装置ってやつは!」
中年の男と思われる声の持ち主が、カチャカチャとなにかを動かしている。その音の中で、大きなため息をついたもう一人の男は、さっきの男よりも若々しい声を出した。
「重力制御装置ですよ、室長。でも残念ながら、大物を捕獲とはならなかったようです」
「かまわんさ。とりあえず、一匹でも魔女を捕まえられりゃ十分だ」
「石頭の室長にしては、ずいぶんと柔軟な考えですね。この調子でいけば、頭皮も柔らかくなって、頭髪も増えるかもしれませんよ」
「黙れ!」
中年の男は地団駄を踏むように、ドン、と地面を強く蹴り上げた。
「とにかく、このおちびさんの魔女のことは、お前に任せるよ。頼んだぞ、タチバナ」
その言葉を最後に、一つの靴音が遠ざかっていった。そして莉子のぼやけた頭が、やっとのことで動き出した。
タチバナ。確かあの人も「タチバナ」という名前だったはずだ。それが、どうしてここでも耳に入ってくるのだろうか。
「……さて、どうしましょうかね」
この場に残った男が、クッションへと上がる。男が足を進めるたびにクッションが引き攣り、莉子の体もグニグニと揺れた。柔らかいクッションの上で歩きにくそうにしながら、男は倒れている莉子のもとへとやってきた。
「意識はあるのでしょう? 一人で起きられますか?」
男に声を掛けられたものの、莉子は起き上がることはできない。返事の代わりに視線を向けると、男はしゃがみ込んで顔を近づけた。
「申し訳ありませんね。あなたに罪はないのですが、あの破魔女について伺いたいことがありまして」
「……え?」
みずほのことを知りたいなんて、どういうことなのだろう?
莉子は震える両手をクッションに押し当て、ゆっくりと体を起こした。白いクッションしか見えていなかった彼女の視界に、目の前の男の姿が入り込む。
「……あ」
優しそうでハンサムだけど、ちょっとだけ冷たそうな表情。銀縁のメガネと、その奥の茶色の瞳……。
その男をはっきりと目で捉えた瞬間、莉子の頭の機能は、これは現実ではないと莉子を説き伏せ始めていた。
……これは夢だ。絶対に夢だ。
だって、偶然とはいえ、もう一度この人に会えるはずもない。
莉子が目の前の現実に確信を持てないうちに、男がなにかに気づいたようで、驚きの表情を見せた。
「……あれ? あなたは昨日の……あのワインバルで酔っていた人ではありませんか?」
「は、はい!」
莉子は反射的に返事をする。その声が空っぽな頭に響き、これが夢ではないことを実感させた。
そう、あの人が……あの<宿主>だと確信した男が、目の前にいるのだ。
それにしても、この状況はなんなのだろう? 莉子は男から目を逸らしながら、クッションの上に正座をした。
「あの……これって一体、どういうことなのでしょう……?」
「箒で飛んでいる魔女を捕まえるために用意したクッションに、あなたがいるのです」
「つまり……私が捕まったってことですか?」
「ええ。まさかあなたが魔女だったとは……昨日は気づきませんでしたよ」
男は自分の不覚を責めるように、苦々しい表情で舌打ちした。
「そ、それよりも、どうしてあなたが、魔女を捕まえる必要があるんですか?」
莉子の率直な質問に、男は躊躇なく答えた。
「それが僕の仕事だからです」
「し、仕事? 魔女を捕まえる……仕事?」
話をつかめない莉子は、何度も瞬きを繰り返していた。すると男は、ジャケットの内ポケットからなにかを取り出して、莉子へと広げて見せた。
それは縦長の黒い板で、スマホよりも大きい。その板の上には、キラキラと光るエンブレムと顔写真がついている。
(もしかして、これって警察手帳じゃ……?)
と莉子が思っているうちに、男はその正解を口にした。
「申し遅れました。私は警察庁警備局特殊人種管理室の橘と申します」
「とくしゅ……じんしゅ……?」
「特殊人種管理室は、魔女などの特殊な人種の行動の管理および把握をおこなう組織です。私どもでは、『トクジン』という略称を用いたりもしますが」
「トクジン……トクジンのタチバナ……」
欠けていたピースが見つかったパズルのように、莉子の頭の中ですべての情報がつながった。