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「どうです? 見事に店を出ることができたでしょう?」
店の外に出たとたん、男性は莉子からパッと手を離し、誇らしげに胸を張った。その姿は、手品師がマジックを大成功させたかのようだった。
冷静な表情とはちぐはぐな彼の態度を目の当たりにして、莉子は思わず吹き出しつつも礼をした。
「ありがとうございました」
「礼には及びませんよ。アルコールには脱水効果がありますから、悪酔いしないように気をつけないと。帰宅されたら、なるべく多めに水分を摂ってください」
「はい。そうします」
莉子の中で溜まっていた熱は、男性から手を離された瞬間に抜けてしまっていた。しかし彼に見つめられているせいか、頬だけにはまだ熱さが残っている。
冷えた夜の風がその熱を奪っていくのを感じるものの、きっとまだ顔は赤いままだろう。それを隠すように俯いているのに、男性は心配そうな様子で莉子の顔を覗き込んできた。
「ずいぶんと顔が赤いですね。酔っているだけではなさそうですよ。熱でもあるのではないですか?」
「そ、そうですか? 大丈夫だと思うんですけど……」
「いいえ、熱があったら大変ですよ。ちょっと失礼」
男性の手が、莉子の額に触れた。その瞬間、ドクン、と心臓が鳴る。一拍ごとに早くなる鼓動に全身がざわざわとし始め、電流が体の隅々までに走り抜けた。
全身の血液が沸騰するように騒ぎ出し、剥き出しの感情が全身の毛穴から溢れそうになる。それは、この男性に対する、恥ずかしげもないような素っ裸な気持ちだった。
さっきと同じように、莉子の目も口も、なにかを求めるように一気に熱くなり、潤っていく。今なら、目からビームが出ていてもおかしくない。そのビームはおそらく、この男性の心を撃ち抜くだろう。
……というか、もう撃ち抜いているのかもしれない。額に触れた当初はいたって冷静だった男性が、今はうっとりとした視線を莉子に向けている。
(こ、これって……変じゃない? さっきから変だよ! 私も、この人も!)
頭の中では、莉子はそう叫んでいた。だけどその声は、体の奥にある得体の知れない獣の叫びでかき消されてしまっている。
その獣は、莉子に「あること」を唱え続けていた。それを否定しようと首を振っても、獣の声はずっと響き、莉子を支配しようとする。
(違う……。私はそんなこと思ってない……)
男性は莉子に魅入られたように、またもや莉子へと唇を近づけてきた。さっきまで優しい視線を向けてくれていた瞳は、莉子を狙うためのレーダーになっている。そして莉子も彼を拒めないどころか、必死で彼を求めようと、彼の唇をじっと見つめていた。
「おーい、タチバナー! トクジンの連中が帰るってよー!」
店のドアが開き、中年の男性が顔を出した。男性はびくんと体を震わせ、急いで莉子から手を離した。
「わかりました。今行きます」
彼は振り返らずに返事をして、大きな息をついた。欲望を持て余したかのように、体は微かに震えている。
彼は莉子から目を背け、肩を大きく上下させながら深呼吸を繰り返す。体の震えが治まったのを確認すると、莉子へと会釈をした。
「……では、これで失礼します。気をつけてお帰りください」
「あ、ありがとうございました!」
礼を言う莉子の声は裏返っていた。店へと戻っていく彼を見送り、お辞儀をしている間も、ずっとドキドキしていたし、頬も熱い。
もしかしたら、これが恋というものなのかもしれない。小説や漫画に出てくるような、あの気持ちを初めて体験できているのだろう。
その予想は、間違いではないだろう。だけどそれよりも……。
莉子は思わず息を飲み、唇を噛みしめた。
あの人が、欲しい。
喉が渇いたときに水を求めるように、お腹が空いたときに食べ物を欲するように、ひたすらあの男性を「欲しい」と莉子は思った。
そしてその思いは、男性に触れられている間に聞こえていた、獣の言葉への答えでもあった。
――お前は、この男が欲しいのだろう?
――なぜなら、この男はお前のものなのだから……。
あの奇妙な獣は、ずっとそう叫び続けていた。
(これって……なんなの?)
初めての感情と欲望に耐えるように、莉子は手に持ったバッグをぎゅっと抱きしめ、体を震わせた。
そして、気づいてしまった。
きっとあの人が、<宿主>なのだ。
いや、きっとじゃない。絶対にそうなんだ――。
*
「……で、昨日の夜はそれでおしまいだったの!?」
「うん……」
「ちょっとー! マジでないわー! せっかく<宿主>を見つけられるチャンスだったんじゃない!」
箒から落ちそうになるほど、亜由美は体を仰け反らせた。<宿主>を見つけるチャンスを逃したのは莉子だというのに、亜由美は莉子以上に悔しがっている。
この日のパトロールの担当は、莉子と亜由美、友香の3人だった。本当ならばひかりもメンバーの一人なのだが、一昨日にケガをしたため、今日は休ませることにしたのである。
上空でゆっくりと箒を走らせる3人の下には、東京の夜の街並みが見えていた。黒い空気の中に、粒のような光がいくつも輝き、金色の川のような道路が見えていた。
「でもさ、『タチバナ』さんっていう名前と、『トクジン』っていう言葉だけが手がかりじゃあねぇ。探すにしても、手がかりが少なすぎるよ……」
亜由美の諦めに似た言葉にかぶせるように、
「……ねぇ、亜由美」
と友香が呟いた。
「『タチバナ』と『トクジン』って、どこかで聞いたことがない?」
「え? 友香は聞き覚えがあるの?」
「うん。最近、どこかで聞いたはずなんだけど……」