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莉子の様子を見て、男性はうれしそうに表情をゆるめ、小さく頷いた。
「それだけ笑えるなら大丈夫ですよ。もう少し休めば、気分もよくなるはずです」
「あっ! そういえば、少し楽になったかも……」
男性が気を紛らわせてくれたおかげか、具合の悪さはかなり治まっていた。ならば、もう席に戻った方がいいのだろうが、まだここにいたい、と莉子は思っていた。このまま彼の傍にいたい、と。
莉子が男性にそんな感情を持つのは初めてのことだった。それに、なぜかはわからないけれど、この男性もそう願っているように思えたのだ。
(でも、そんなの気のせいだよね)
莉子が自分に言い聞かせるように、心の中で何度も
「気のせい、気のせい」
と唱えていた。
しかし男性は、なぜか莉子の前から立ち去ろうとはしなかった。ちらりとホールの様子を窺うと、視線を再び莉子へと戻した。
「申し訳ありませんが、僕もここにいていいですか? 仲間たちに無理矢理酒を飲まされそうになって、逃げてきたところなので」
「かまいませんけど……」
「では、失礼します」
男性は会釈をすると、莉子の隣に移動して壁にもたれ掛かった。
(やっぱりそうだ。この人もここに……私の近くにいたいって思ってる)
莉子は自分の直感が、敏感すぎるほどに鋭くなっているような気がした。
横に並ぶと、男性がかなりの長身であることがわかる。ただでさえも小柄な莉子が彼と話すとなると、顎をぐいっと持ち上げる必要があった。
でも、今はそれが苦にならない。莉子はちょっとだけ背伸びをして、男性に視線を合わせた。
「お酒を飲みたくないってことは、お酒が苦手なんですか?」
「いいえ、普通ですよ。強くも弱くもない。ただ、僕は1日に飲むアルコールの量を決めているので、それ以上飲むのは嫌なんです」
「えっ! そのために逃げてきたんですか?」
「ええ。だって、明日も仕事がありますし、飲み過ぎによる二日酔いで業務を台無しにするわけにはいかないでしょう?」
男性はさも当然といった表情で、莉子を見る。彼の優しさばかりに目を奪われていたが、動じない視線や引き締まった口元には、はっきりとした強い意志が感じられた。
莉子には、彼のそんなところがうらやましく感じられた。母に罵声を浴びても言い返せず、合コンに出ても、周りに圧倒されて会話にも入れない。そんな自分に欠けている強さを、この男性は持っているのだ。
「すごいですね。私だったら断れないかも。なんだか怖いし……」
「なにが怖いんです?」
「お酒を断ることで、その場がシラけるのが怖いじゃないですか。自分が雰囲気を壊しちゃうみたいで……」
モジモジしながら話す莉子の横で、男性は腕を組んだ。考え込むように視線を上げると、天井の埋め込みのライトに照らされて、彼のメガネがきらりと光った。
「僕はこう考えます。酒を断ったぐらいでその場がシラけるのは、その場の雰囲気がもともと面白いものではなかった、と」
「確かに……そうですね」
「であれば、最初から言っておけばいいのです。『私はこの場の雰囲気を壊してでも、お酒を飲みたくありません。それに、お酒を飲んで酔っぱらえば、具合が悪くなってこの場の雰囲気を壊します。つまり、飲んでも飲まなくても一緒です』とね」
「それ、面白いですね! 今度お酒を断りたいときに言ってみます」
「ぜひ、使ってみてください」
異性に免疫のないはずなのに、この人とならずっと話していたい、一緒にいたいと莉子は思った。何気ない一言でもなんだか楽しいし、他の男性から感じるような怖さもない。
(こういう人が、<宿主>だったらいいのになぁ……)
そう思ってしまったけれど、彼はたぶん違うだろう。この男性からは、「ビビッ」とした感じは伝わってこないのだから。
残念だけれど、仕方のないことだ。<宿主>は魔女自身が決めるものではなく、人間の男性の方に選択権があるわけでもない。ただひたすらに、魔女の「ビビッ」とくる感覚を頼りに見つけ出すものなので、愛や恋などの感情は、そこには入らないのだ。
それにしても、合コンの席から逃げ出して、かなりの時間が経っている。早く戻らないと、優子ちゃんに責められるかもしれない。
莉子は体を横に倒して、おそるおそるホールを覗き込む。合コンがおこなわれているテーブルの方向からは、優子ちゃんの楽しげな声が聞こえてきた。
「きゃー! そんなプロジェクトに関わってるなんて、加藤さんカッコいいー!」
どんな男性でもアゲまくり、有頂天にさせる――そんな優子ちゃんのトークスキルが、ビシバシと炸裂している。
(優子ちゃん、すごいなぁ。合コンのプロって感じ……)
自分だったら、あんな風にできるだろうか? ……いや、考えるだけ無駄なほど、答えはすぐに出る。莉子ならば、男性を持ち上げるどころか、自分で勝手に引っ込んでしまうのだから。
そんな情けない自分の姿を思い浮かべただけで、また気持ちが悪くなりそうだった。
「今日は合コンに参加されていたのですか?」
隣の男性が、莉子の視線の先を一緒に眺めながら、ぽつりと呟いた。
「は、はい。そうなんですけど……」
「もしかして、お友達から合コンに誘われたのですか?」
「えっと……まぁ……」
「お酒が弱いのに、気の毒なことです」
いえ、自分から参加したんです。<宿主>を探したくって……。
真実を口にすることはできず、莉子は曖昧な笑顔を作り出した。すると、また喉元に吐き気が戻ってくる。うっ、と小さな声を上げ、莉子は再びハンカチで口元を押さえた。
「どうしました? まだ苦しいのですか?」
「は、はい……」
「……失礼。こうすると、少しは楽になるかもしれませんから」
男性はそう言って、莉子の背中を自分の方へと向けてさすり始めた。彼の大きな手を背中に感じ、莉子は思わず肩を竦めた。
服の上からとはいえ、見ず知らずの男性に体を触られるなんて。恥ずかしさからくるものなのか、それとも掌の摩擦によるものなのか。原因のよくわからない熱が、背中の上を移動する手に合わせて生まれていた。
しかも発した熱は、それだけではなかった。彼の手の動きが強まると、体の中に炎が現れるのを莉子は感じていた。それは次第に大きな火玉となり、ぱちんと弾けてしまった。
(きゃ……)
その衝撃を言葉にできないまま、莉子は男性に背中をさすられ続けていた。さっき弾けた炎の火花が指の先にまで飛び散り、じんじんと体を震わせる。その痺れは、彼が触れている背中へと一気に集まり、今度はぴりりとした刺激へと変わっていく。
それは、これまで体験したことのない、奇妙な感覚だった。
「……あれ?」
莉子は思わず声を上げた。