3
「お元気そうで安心しました」
ダンスを踊り終え、バルコニーへ出るなりステラ姫はそう零した。月明かりが二人を照らす仲、横に並んでいたセネリオが柔らかく微笑む。
「手紙にも随分とそんな事が書いてあった。心配掛けたな」
「しつこいという事はわかっていましたが、やはり心配なものは心配で……」
「そんなに柔じゃないつもりなんだがな。でも、心配されるのは素直に嬉しかった」
出会った頃から続いている手紙でのやりとりの中で、ステラは毎回セネリオの身を案じる文を描いていた。それが始まったのは、セネリオがこの国の王を継いだ時からである。
――ヴェルデライト国は近年代替わりを終えたばかりである。先王が病に倒れ、その後を引き継いだのはセネリオが十四の時であった。幼すぎるというわけではないが、セネリオが成熟した完璧な王であるとは言えぬ、民がそんな不安を覚える中での戴冠式。セネリオはただ前だけを見据えて堂々とその場に在り続けた。
来賓として兄と共に招かれていたステラもその光景はよく覚えている。孤独な背中は、いつだって明るい笑顔の裏に隠していた。ステラはまだ幼くあったが、その事には誰よりも早く気付いていた。以前から手紙のやり取りはあったが、その日を境に数を増やし、そして手紙に彼の身を案じる一文を必ず入れている。
「お辛くはありませんか?」
そっと腕に触れて見上げるステラを見て目を細める。彼女の細い手に己の手を重ね、優しく包み込んだ。逆の手は彼女の髪に置き、そっと撫でてさらりとした感触を楽しむ。
「ないな。ステラに会ったら、全部吹き飛んだ」
今、セネリオは十六になった。あの時よりは成長したはずだ。それでも変わらず自分を案じてくれるステラの事を、彼は心の底から愛しいと思っている。
*
「アイリス」
バルコニーに出ていった二人をホール内の窓から見守っていると声をかけられた。歩み寄って来るのは、今回の遠征において医療関係の責任者を担っているリオンだ。いつもの白衣ではなくシャツにズボンといった軽装姿は未だ見慣れない。
「姫様は?」
「今はセネリオ陛下とバルコニーにいらっしゃいます」
ちらりと視線をやれば、窓から二人寄りそっている姿が見える。リオンは「邪魔しちゃ悪いか」と呟くと、手元の冊子を見ながら口を開いた。
「本当は寝る前に健康状態を確認しておきたかったんだけど、君から見て姫様の様子はどうだった?」
「少しお疲れのようですが、特に異常は見られません。予防薬もきちんと飲まれておりましたし、ダンスの動きも軽快でした。食欲もおありのようで、美味しそうにお食事なされていましたよ」
「そう。よかった」
アイリスの言葉を冊子に描きとめるとパタンと閉じ、「それで」とリオンはアイリスを上から下までじっと眺める。暫し見つめた後、苦い表情で尋ねた。
「なんでその格好?」
「護衛のためです」
昨年もこの地に訪れたが、女の身であるとわかると色々と面倒な経験をした。
ヴェルデライト国は、大きな海を乗り越えて、世界から多くの人間が集まる地である。男女平等に扱う者もいれば、中には女を軽く見る者だっている。アイリスが街を歩けば、色白の肌を持つ異国の女というだけで随分な思いをした。煽る様に口笛を吹かれたり、強引に連れ込まれそうになったり、酷い時は一緒に居る姫まで巻き添えになりそうな時もあった。
これでは姫の護衛に集中できないとオルトレンに事前に相談した結果、男装するという結論に達した。彼の妻のナターシャの協力もあり、パッと見女性とは思われない服装や所作を完璧に身につけた。アイリスもアイリスなりに遠征に備えていたというわけである。
「オルトレンも結構慣れない事させるよね」
「ナターシャ様にはお墨付きを戴けたのですが、やはり見えませんか?」
「見えないわけじゃないけど……」
「あの」
声をかけられて二人して振り向けば、身綺麗にした若い貴族の女性が二人。
「あの、もしよろしければ、私どもと踊って頂けませんか?」
色気を振りまくように上目遣いで見つめられ、思わずアイリスはリオンを見た。リオンは相変わらずの無愛想な表情で淡々と返す。
「僕は医者なので、踊りは遠慮します」
「そうなのですか……。では、そちらの方は」
期待を込められた視線を向けられ一瞬表情が引きつる。だが、直ぐに笑みを浮かべて申し訳なさそうにアイリスも返した。
「申し訳ありません。折角のお誘いなのですが、護衛の任務がありますので」
そう言えば至極残念そうに女性二人は去っていった。去り際にちらりと名残惜しいとばかりの視線を向けられたが、アイリスは笑みを返すに留まる。
リオンは腕を組み、溜息を吐いてぽつりと零した。
「今度はそっちで苦労しそうだね」
「……ご冗談を」
女性からのダンスの誘いは「貴方に気があります」といった意味が含まれている。それを知っていた二人だが、アイリスにとっては笑えない冗談である。今のは偶然だ、と思いたい。
しかしこの後、同じようなやりとりを幾度か繰り返す羽目になるなど、アイリスは露にも思わなかった。
「まあ、アイリス。なんだか顔がとても疲れているのね。どうしたの?」
仕舞いには戻ってきた姫にそんな事を言われてしまい、乾いた笑みを零すことしかできなかった。
***
ラザフォードとヴェルデライトの間には古くに結ばれた友好条約が結ばれ、今もその関係は続いている。
ラザフォードは大陸に囲まれた地で、北から西に掛けて運河が流れているものの、海や河を利用しての貿易の数は非常に限られている。運河を利用してラザフォードと貿易商を行ってくれる数少ない国がヴェルデライトなのだ。また、ラザフォードの隣国で戦争が起きた時、一時的に民を避難させるための地として一部の土地の利用を許したのもヴェルデライトである。おかげで終戦まで民の命を失わずに済んだのだ。
一方、海に囲まれたヴェルデライトは嵐や津波による被害が絶えず、幾度が危機に瀕している。その度、第一に支援をしてきたのはラザフォードだ。金が無ければ金を送り、人が足りなければ人を送り、飢えが広まれば食糧を、家が無ければ資材を送った。また、ハーフナー医師をはじめとする高い医療技術を誇るラザフォードはその技術を伝授し、ヴェルデライトの医療体制の基盤を作り上げた話は各国でも有名である。昔は難病とされていた疾患の特効薬の発明や、ヴェルデライトのある亜熱帯ならではの伝染病を防ぐための予防薬を開発したのも、ラザフォードの医療技術者たちであった。
両国はこうして互いを助け合い、敬い合い、学び合い、国力を双方に上昇させていった。世界でもこうした例は非常に希少とされている。長い時間をかけて作り上げてきたこの関係を継続していく努力を、両国は決して惜しむ事は無いだろう。
セネリオ王とステラ姫の婚姻関係はその象徴とされている。「政略結婚」、「婚約者候補」等と名はうってあるが、事実上二人の間には深い絆があった。毎年の遠征は、その絆を確かなものにする目的も含まれている。
「今年も無事、お会いすることが出来てよかったですね」
「ええ」
宴を終え、用意された部屋のベッドへ潜りこんだ姫の幸せそうな笑みを見て、アイリスもまた微笑んだ。
アイリスは昔、一度だけ姫に尋ねた事がある。「セネリオ陛下のことをどう思っているのか」と。
周囲からは政略結婚といわれている。そこに愛など存在しないのだと、姫がお可哀想だと言われていることも。そして、そのことに姫が気付いていることも全て知った上で尋ねた。
その時、幼い姫は――少し考えた後、ぽっと頬を染めたのだ。
姫のその反応を見たアイリスは拍子抜けした。その頃から姫は、セネリオ王に恋をしていたのだ。
以来口にすることはないが、二人の間にはアイリスの知らない絆があり、愛情があるのだということを側近として認めている。
「一ヶ月しか一緒にいられないなんて寂しいけど、今は楽しむことにするわ」
「それがいいでしょう」
「アイリスも、改めて一ヶ月間よろしくね」
「はい、姫様」
おやすみなさい、と口にした姫の寝顔は非常に満たされており、アイリスは暫くそれを見守ってから、静かに部屋を後にした。